第3話 眠
看護師として県病院に勤めるフミコは、その激務に日々疲れ果てて帰宅していた。
しかも三交代制の勤務体制のため、生活リズムを整えることもできず、常に身体と精神は疲労しきった状態だった。
仕事から帰れば、すぐにシャワーを浴び、何かを軽く食べて、ベッドに潜り込む。
そして、出勤時間ギリギリまで無理やり眠り、ろくに身支度もできないまま職場へと向かう。
そんな毎日が続いていた。
時折、「この生活を本当に続けられるのだろうか……」と悩むこともあったが、
“そのうち慣れて、何とかなるはず”── そう信じてフミコは必死に日々を乗り越えていた。
実際、勤務を始めた当初と比べれば、少しは生活にも慣れてきた気がしていた。
やがてこのリズムが「自分にとっての普通」になるはず……そう自分に言い聞かせながら、今日までやってきたのだ。
── だが、半年ほど前から、フミコに新たな悩みの種が現れた。
それは、彼女が住むアパートの上階に引っ越してきた若い住人の存在だった。
二十代前半ほどの独身男性。名前は“ハルキ”。
夕方から居酒屋でアルバイトをしながら、プロのダンサーを目指しているという。
そしてフミコを苦しめているのは、その“ダンスの練習”である。
ハルキは毎日、夜中の2時ごろに帰宅し、朝の9時ごろに起床。
そして10時頃から、爆音の音楽と共にダンスの練習を始めるのだ。
床を踏み鳴らす激しい振動と音楽は、フミコの部屋にダイレクトに響き渡る。
さらに、ダンスのたびに天井から微細な埃が舞い落ちてくる。
問題は、その練習時間が、ちょうどフミコが夜勤明けでようやく眠れるはずの時間帯だということだった。
結果、夜勤の週は、まともに睡眠を取ることもできず、そのまま再び激務へと向かう羽目になる。
フミコは悩んでいた。
このままでは、体が壊れてしまう── 。
もちろん、これまでにアパートの管理会社に連絡をして注意してもらったり、ポストに丁寧なお願いの手紙を入れたり、直接訪ねてお願いをしたこともある。
だが、ハルキは練習をやめようとしない。
彼はこう言ったのだ。
「いやオレ、マジなんで! 練習は欠かせないんすよ! 絶対有名になりますから! そん時はお礼に行きますから!」
……そんなこと、フミコにとってはどうでもいい。
練習したいなら、スタジオでも借りてやるべきだ。
納得のいかないフミコは、怒りを募らせていった。
とはいえ、練習が行われているのは一般的には“常識的な時間帯”であり、他の住人からは苦情も出ていないらしい。
そのためフミコは、誰にも頼ることもできず、ただひたすら耐えるしかなかった。
── だが、その過酷な日々の中に、さらに追い打ちがかかる。
世界中に感染症が広まり、社会が混乱しはじめたのだ。
看護師であるフミコの職場も当然、大混乱に陥り、勤務体制は三交代制から夜勤ありの二交代制へと変更された。
ただでさえ眠れなかったのに、さらに不規則で過酷な勤務へ。
そして、相変わらず続くハルキのダンスの騒音。
フミコの睡眠は、ついに完全に奪われてしまった。
もはや、命の危険すら感じるレベルだった。
そしてある日── 夜勤明けの朝10時。
フミコはついに決意し、ハルキの部屋のインターホンを押した。
── 今は、世界中が非常事態。病院の過酷な現状くらい、彼にも分かるはず……。ちゃんと話せば、きっと分かってくれるはず……。
フミコはそう信じて、本気で訴えに行ったのだった。
「……はい。なんすか?」
ダンス練習で汗をかいたハルキは、面倒くさそうな表情で玄関から顔をのぞかせた。
フミコは何度も同じ話をしてきた手前、彼の表情を見ると少し躊躇いがあった。
── だが、もはや遠慮している余裕はなかった。
今日も眠れなければ、命すら危うい。
「……あの、申し訳ないのですが、ダンスの練習、控えていただけませんか?」
「……はぁ。またその話っすか?」
「今、感染症が蔓延していて、病院は本当に大変なんです。ご存知ですよね?」
「……はい。」
「私は、看護師として働いています。今は激務で、帰宅後の時間は本当に貴重なんです。」
「……はい。」
「あなたの練習音では、眠ることができないんです……。どうか、ご配慮いただけませんか?」
「……」
「お願いします。」
フミコは怒りを抑え、必死に冷静さを保って下手に出てお願いした。
……だが。
「嫌っすよ。」
その一言で、フミコの願いはあっさりと踏みにじられた。
「……え? どうして?」
「言わせてもらいますけど……看護師って、アナタが選んだ道っすよね?
だったら、俺はダンサーを目指すっていう、自分の道を選んでるんすよ。」
「……何を言ってるの、あなた?」
「練習の時間は俺にとって超大事な時間なんで。
自分の夢に向かって進む時間なんで。
でもアナタは、ただ休むための時間でしょ?
だったら、俺のほうが……貴重な時間じゃないっすか?」
「……は?」
「それにこの時間って、普通の人はみんな仕事行ってる時間っすよね?
俺、別に迷惑かけてるつもりないんで!」
「私にとっては……」
「もういいっすか? 俺、練習したいんで。……アンタも仕事、頑張ってくださいよ。」
必死に怒りを抑えながら訴えたフミコの言葉は、ハルキの自己中心的な理屈によって、無情にも踏みつけにされた。
「辛くても我慢? お互いに頑張れ?」
フミコは、これ以上一体何を我慢して、何を頑張れというのかと、沸々と怒りが膨れ上がっていくのを感じた。
「……そんじゃ、そういうことで。」
ハルキが話を打ち切ろうとした、その瞬間──
フミコの視界に、玄関脇に立てかけられた一本のビニール傘が映った。
細く、短く、先端が金属でできた安物の傘。
フミコは、怒りに任せてその傘を手に取り、金属の先端を──
ハルキの左目に突き刺した。
グチュッ
「あっ……!? 痛っ! 痛ってぇっ!!」
ハルキの左目からは、涙のように血が噴き出す。
よろめきながら後退し、ポカンとした顔でフミコを見つめた。
まるで、何が起こったのか理解できていないようだった。
「我慢しろ? 頑張れ?
……なんでアンタみたいなバカに、そんなこと言われなきゃいけないのよ!!」
「……え? あ……ちょっと……痛って!」
フミコは、よろめくハルキに合わせて傘をさらに押し込みながら、彼の部屋の中へと足を踏み入れていった。
「あれ!? なにこれ!? 待って、痛てぇ! すげぇ痛てぇ!!」
ハルキは玄関の段差につまずき、後方へ倒れる。
その拍子に傘が左目から抜け、ようやく自分が刺されたことに気づく。
「あっ……! 俺の目が……目がぁ……!」
血まみれの手を見て青ざめ、半泣きになりながら小便を漏らした。
「あ……ごめんなさい、ごめんなさい!
やめます! 練習やめますから! 本当に、もう……!」
だが、それはもう遅かった。
フミコの耳には、ハルキの懇願は届いていない。
彼女は、完全に“キレて”いた。
「私は……ただ眠りたかっただけ。
疲れた身体を、少しだけ休めたかっただけ。
あなたが何を目指してるとか、本当にどうでもいいのよ。
……ただ、静かにして欲しかっただけなの。」
「あっ! あっ! 待って! お願い、やめて!」
フミコは、再び傘を振り上げると、ハルキの顔に何度も突き立てた。
グシュッ グシュッ グシュッ グシュッ!
「あああぁーっ! ぐうっ! いひぃぃーっ!」
ハルキは苦痛にもがきながら、まるで踊るかのように体を震わせ、のたうち回った。
しかし、フミコはもはや一心不乱に、流れっぱなしのダンスミュージックに合わせるかのように、傘をリズミカルに振り下ろし続ける。
グシュッ グシュッ グシュッ グシュッ!
グシュッ グシュッ グシュッ グシュッ!
……
…
数分後、部屋のスピーカーから流れていた音楽が止まった。
アパートには、再び静けさが訪れる。
── 時刻は、まだ午前10時30分。
住人の多くは留守で、吹き抜ける風の音だけが、建物に優しく鳴っていた。
フミコはその静けさに、安堵の表情を浮かべながらハルキの部屋を後にする。
そして、自室に戻るとシャワーを浴び、かつてないほど穏やかな気持ちで── 深い眠りにつくのだった。
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