ショクハツ

Tusk

第1話 屯

 子供のいない老夫婦、満島夫妻は、20年前に片田舎の新興住宅団地へと引っ越してきた。

 当時、その団地周辺はまだ開発が進んでおらず、バス停や駅といった公共交通機関も近くにはなく、自家用車がなければ生活できないような環境だった。

 バス停こそあったが、朝と晩に1本ずつしか運行していない。

 駅も無人駅で、ほとんどの電車は通過してしまう。

 コンビニやスーパーに行くにも車が必須で、はっきり言って「不便」としか言いようのない場所だった。


 だが、それも10年ほど前までの話だ。

 満島夫妻が越してきた後、周囲は徐々に開発が進み、住宅団地も活気を帯びていった。

 現在では公共交通機関も整備され、大型ショッピングモールや工業団地、小学校や中学校も揃っている。

 周辺の発展に比例するように、住宅団地にも新しい住民が次々と移り住み、今では「住みやすい町」と言えるほどになった。


 しかし、そんな快適な生活の中で、満島夫妻はある悩みを抱えていた。

 それは── 満島家の前でたむろする中学生たちの存在だった。


 満島家は団地の中心を走るメイン通りが十字に交差する角地にあり、中学生たちの通学路にあたっていた。

 しかも、敷地の角は斜めに削られたような形状になっていて、その部分には街灯が一本立っている。

 どうやら中学生たちにとっては、待ち合わせやたむろにちょうど良いスペースのようだった。

 中学生たちはその場所に座り込み、長々と喋ったり、駄菓子を食べ散らかしてゴミを放置していったりする。


 夫婦そろってこの状況に悩まされていたが、とりわけ妻のヒロコはもともと神経質な性格もあって、耐え難いほどにストレスを抱えていた。

 もちろん、これまでに何度も学校へ連絡したし、直接注意もしてきた。


 だが、中学生たちはたむろをやめるどころか、反発するように仲間を増やし、騒ぎ方もエスカレートしていった。

 挙げ句の果てには、ヒロコが下手に出て穏やかに注意をするため、「お願い婆さん」などというあだ名まで付けられる始末だった。

 ヒロコの精神は、もはや限界に近づいていた。


 ある日、ヒロコは近くのスーパーへ買い物に行こうと、家の駐車場に停めた軽自動車に乗り込んだ。

 だが、エンジンをかけようとしたその時── 車の前に中学生が座り込んでいることに気がついた。

 これでは車を出すことができない。

 ヒロコは仕方なく車を降り、前に座る中学生に声をかけた。


「……あの、今から車を出すから、ちょっとどいてくれる?」


 本音を言えば怒鳴りつけたい気持ちだったが、できる限り穏やかな声で、中学生が不快にならないように気を遣って話しかけた。

 だが、中学生はヒロコの気持ちなど察することもなく──

 まるで頭のおかしい人にでも声をかけられたかのように、ニヤつきながらヒロコをジロジロと眺めてきた。

 そして、次の瞬間――


「うるせぇよ、バーカ!」


 その中でもリーダー格と思われる少年が、唾を吐くような勢いで、下品で不快な声をぶつけてきた。


「……!!」


 あまりに不愉快なその態度に、ヒロコの中で、かつて感じたことのない“マグマのような怒り”が沸き上がった。

 悔しさと悲しさ、そしてその少年に対する激しい怒りが全身を駆け巡り、体が痙攣するように震える。


 しかし、気の弱い性格のヒロコは、そんな怒りを抱えながらも何も言い返すことができなかった。

 唇をきつく噛み、怒りを堪えて、ただ黙って再び車に乗り込む。

 そして、無言の抗議として、座り込む少年たちをよそにエンジンをかける。


 だが、それでも彼らは立ち上がろうとしない。

 それどころか、車の前にいなかった少年少女たちまでが、わざとらしく目の前に集まりはじめた。


「……! ……!!」


 ヒロコは言葉にならない怒りを噛み殺し、思わずアクセルを空ぶかしする。

 ── ブォン、ブォンッ!


 軽自動車とはいえ、強く踏み込まれたエンジン音は、住宅街にけたたましく響き渡った。

 さすがの中学生たちも驚いたのか、ヒロコを睨みつけながらも、しぶしぶ車の前から退いた。


 ヒロコはすかさず車を発進させ、気分の晴れぬままスーパーへと向かった。

 怒りを必死に抑え込むヒロコ──。

 バックミラーには、ヒロコを小馬鹿にするような目つきの中学生たちの姿。

 ハンドルを握る手に力が入り、ヒロコは腹の底から湧き上がる“何か”を必死に押しとどめた。


 ── 約1時間後。

 買い物を終えたヒロコは、再び車で自宅へ戻ってきた。

 怒りもようやく少しは収まりかけていた。


 ……だが。

 ヒロコは、家の前の光景に絶句する。


 なんと、あの中学生たちはまだ帰らず、満島家の前に屯していたのだ。

 しかも、今度は駐車スペースの中にまで入り込み、輪になって座り込み談笑している。


「はっ……! はっ……!」


 その光景を見た瞬間、ヒロコの下腹部から身体を引き裂くような衝動が湧き上がった。

 体が震え、呼吸が乱れる。


 そして――


 踏め! 踏め! 踏め!


 頭の中に、誰かが囁くような声が響き始める。


 踏め! 踏め! 踏め!


 ヒロコは、その声に抵抗しようと必死にもがく。

 だが、思考は次第にぼやけていき、やがてその囁きが全てを支配していく。


 踏め! 踏め! 踏め!

 ……

 …


 踏め!


 ── ヒロコの記憶は、そこで途切れた。


 次の瞬間、鼓膜が破れそうなほどの「踏め!」という声が、ヒロコの脳内を突き破る。

 そして、彼女はアクセルを踏み込んだ。

 ── 屯する中学生たちへ向かって。


 ゴトゴト! ガチャン!


 静かな住宅街に響く、衝撃音。

 少年少女たちの、悲鳴とも絶叫ともつかない声。


 後日、近所の住民が語ったところによれば──

 あの時、尋常ではない轟音と悲鳴が響いていたという。


 だがその瞬間、ヒロコの耳には、それらはまったく届いていなかったようだ。

 通報を受けて駆けつけた警官が目にしたのは、もはや“原型を留めていない”中学生たちの姿だった。


 そして――

 ヒロコは何度も車を降りて生死を確認し、何度も、何度も、車を前後に動かしていたという。

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