赤い服の女
久遠
第1話 赤い服の女
下校のチャイムが校庭の向こうで鳴り終わるころ、空はみかん色に染まりはじめた。
いつもの公園、それはぼくらが下校のたびに必ず寄る、歩道脇のちょっとした広場だ。ここで少し遊んでから、それぞれの家に分かれるのが、いつもの流れ。
さっきまで横断歩道まで誰が先に着くか競争して、ぼくとタケとユミは、息を切らしてベンチに倒れ込んだ。
そのとき、公園の柵のすぐ向こうの車道を、自転車が通り過ぎた。
赤い。目に刺さるような、遠くからでも見える赤いワンピース。前かごは空。スピードは妙に遅く、ぼくらの歩く速さとたいして変わらない。女の人はまっすぐ前を見ていて、顔には影が落ちている。
「昨日も見たよ、あの人」ユミが言った。
「時間、だいたい同じだ」タケが手首のキッズGPSバンドをちらっと見せる。親に渡されたやつだ。画面には簡単な時計と現在地が出る。
翌日も、その次の日も、赤は同じ道を、同じ速さで通った。この時間にだけ現れるみたいに。ぼくらは見送る側だった。
四日目の夕方、ぼくの中の何かが、歩幅を半歩だけ前に出した。
「どこに行くんだろう」
ユミは首を振る。「やめておこうよ」
タケは口の端だけ上げて、小さく言った。「でも、気になるだろ?」
ちょっとだけヒーローになれる気がした。ぼくはうなずいた。
歩道の端へ出る。女は振り向かない。ペダルは一定に回り、夕陽の反射が白いふくらはぎに跳ねる。
ぼくらは距離をあけてついていく。角を一つ、二つ。水の匂いがする。川だ。
ぼくらの町には川が一本流れているが、このあたりに橋はなかったはずだ。子どもの足でも覚えている、地図の空白。
けれど、夕陽に切り抜かれた河面に、細い橋が横たわっていた。
欄干は低く、古い石を思わせる灰色。雑草が絡み、表面には黒い斑点。
昨日まで、ここには何もなかったはずだ。目を凝らせば凝らすほど、違和感が増していく。
なのに女は、その橋へ迷いなく進んでいった。
女は速度を落とさず、ブレーキがきゅっと鳴って橋に乗り、対岸へ。小さくスタンドが「コトン」と立つ音がして、自転車のタイヤが砂利を踏む音が続いた。
ぼくらは一歩、二歩、距離を詰める。見失ったら、もうどこへ消えるのか分からない。焦りが足の裏に火をつけた。
橋の表面は乾いているのに、靴底は湿った石を踏んだみたいに冷たかった。
川を渡り切ると、知っているはずの道があった。
ベージュ色の外壁のマンション。その一階は吹き抜けの小さな遊び場があった。
滑り台、シーソー、ブランコ、砂場。
でも、テレビで見た外国の町の映像を思い出した。色は似てるのに、なんだか違う。滑り台の赤はトマトじゃなくて、乾いた血の色に見える。砂の粒は乾いているのに、歩くと靴跡がじわりと沈んだ。
誰も座っていないのに、ブランコはゆっくりと戻っては離れ、戻っては離れを繰り返している。
タケは手首のバンドに目を落とした。「あれ……」小さくつぶやく。画面は光っているのに、時刻表示が点滅を繰り返し、現在地を示す地図は真っ黒だった。
そのことを二人に伝えようとした時、上の方から階段を上がる靴音が、トン、トン、と遠くで重なって聞こえ、ぴたりと止んだ。
顔を上げると、四階あたりから、赤い影が一瞬横切った気がした。
冷たいものが頬に当たった。雨?と思って、女が消えていった方を見た。
手すりの影から、頭だけが覗いていた。表情はない。目はぼくらじゃなく、ぼくらの背中のもっと向こうを見ているみたいだ。
一拍おいて、周りを見回す。風はこっちから向こうに吹いているのに、水滴は横に流れていない。風の向きと水滴の向きが、噛み合っていなかった。
「帰ろう」ユミの声は、遠くから聞こえるラジオみたいにかすかだった。
ぼくはうなずく。タケは一歩だけ前に出かけ、靴の先を止めた。
次の瞬間だった。
雨風の小さなざわめきの奥から、異質な足音がいきなり割り込んできた。
ダダダダダ!
廊下を、階段を、地面へ向かって、一定の速さでこちらに落ちてくる。
胸の中で心臓がひとつ飛び、空気が一段冷えた。
ぼくらは反射で駐輪スペースへ走り、自転車をつかんだ。ペダルを踏む足が重い。チェーンが軽く鳴る。
振り向けば、女がいた。
赤い布が揺れ、顔は影に隠れたまま、確かにこっちを見ている。
ぼくらは全力でペダルを踏んだ。それなのに、女との距離は縮まりも広がりもしなかった。それに、橋までの距離が、思ったより縮まらない。
電柱を三本数えた。四本、五本。橋は来ない。
同じ角を何度も曲がった気がした。表札のない門柱を、何度も読み飛ばした気がした。
息が焼けつき、掌は汗で滑る。
やっと、橋が視界に浮かんだ。
欄干の灰色が、夕焼けに溶けそうに薄い。
背後の足音は近いのか遠いのか、判断がつかない。
水面は穏やかで、流れていないように見える。
それでも、ぼくらは踏み入れたときと同じ順番で橋に乗った。踏み出すたび、薄紙が剥がれるみたいに音が戻ってくる。
風が町の匂いを連れてくる。
自転車のタイヤが橋から舗装路へ乗り移るとき、小さな段差の衝撃が伝わった。
振り返ると、そこには川だけがあった。
橋は、こちら側からは見えなかった。赤い服の女も。
ぼくらは互いに顔を見合わせて、笑おうとしたが、笑い声は出なかった。
その夜、ぼくは眠れなかった。
夜ごはんのあと、勇気を出して父と母に話したけれど、うまく説明できなかった。
「危ないことしないで」
「知らない人のあとをつけちゃだめ」
言われた言葉は真っ当で、話の中身は作り話みたいに薄くなった。
布団に入っても、耳を澄ますと、天井のどこかで、ブランコのきしみが、遠くの波みたいに寄せては返した。
数日が経った。たまたま土日を挟んで、学校は休みだった。
ぼくは家にいる時間が多くなり、外に出るときは大通りだけを選んだ。
タケとユミとは会わなかったけれど、夕方になると、公園のベンチの冷たさがはっきり思い出せた。
月曜の放課後、タケとユミとぼくは、もう一度だけ確かめることにした。
「本当に、橋はあったのか」
「見間違いじゃないのか」
口にする言葉は勇気の形をしているけれど、中身はほとんど空気だ。
夕暮れの公園から、同じ道を辿る。川の音はたしかにある。
けれど、川に渡るためのものは何もなかった。
両岸は滑らかに削られ、対岸までの距離が読めない。
そこにあるのは、石でできた細長いモニュメント。
水面に浮かぶように置かれていて、説明のプレートはない。
ぼくたちはただ立ち尽くし、息を合わせるみたいに黙った。
帰り道、ユミが言った。
「追いかけなかったら、橋はできなかったのかな」
ぼくはうなずく。「橋を渡ったあたりから、変な感じがしたよね」
タケはしばらく黙っていた。
「……あの赤い人、なんだったんだろ。幽霊とか、そういうの」
言い終えてから、タケはモニュメントの方をちらっと見た。何かを思い出したような顔だったけど、ぼくは何も聞かなかった。たぶん、聞いても答えは出ない。
夕焼けは、いつもより早く沈んだ気がした。
家に着く直前、少しだけ振り返ってみた。
遠くで、赤が一瞬だけ揺れた。
夕焼けの残り火かもしれない。
あるいは、ぼくらの背中を見ている影の、色かもしれない。
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