第27話「虚空の無拍、消える輪の記憶」
海の潮が引いた翌夜、王都に“不在”が降りた。
風もなく、太鼓もなく、鈴もなく。
それだけなら静寂で済む。だがこれは違った。
——音が、最初から存在しなかったかのように消えていく。
祠の火が揺れた。だが「ぱち」とも鳴らない。
カイルが太鼓を叩いた。皮は確かに震えた。だが音は出なかった。
レイナが剣を抜いた。鋼が空気を裂くはずだった。だが無音。
イリスが灯籠を記録する。炎は刻まれるが、秤は“空白”を指した。
ミュナが揺枝を振る。芽吹きは光った。だが風は吹かなかった。
セレスティアが声を発した。
「……声が、残らない」
確かに彼女の口は動き、喉も震えた。それでも音は、輪に届く前に消えた。
広場の空が裂けた。
そこから現れたのは「虚」。形を持たない影。
深淵のようであり、透明な膜のようでもある。
耳を澄ませても、そこには“何もない”が満ちていた。
『第十二天の使い——虚空(こくう)のノクト』
声がした。だがそれは音ではなく、心の奥に刻まれた「欠落」として伝わった。
『輪は音で繋ぐ。迎えも、影も、群も、海も、すべて“音”に依った。
ならば、その音を消そう。拍を“無”にしよう。
——無拍に耐えられるか?』
その瞬間、街全体から記憶が消え始めた。
「昨日歌った詠」を思い出そうとした者は、口を開いた時点で忘れた。
「今刻んだ三拍」を確かめようとした者は、数えた瞬間に零に戻った。
人々の顔から希望が抜け落ち、ただ空白の瞳が並んだ。
「だめだ……」
カイルが太鼓を叩き続ける。だが打つほどに「叩いた記憶」が消える。
「音がしない……叩いたことすら忘れる……」
レイナは剣を振り、歯を食いしばった。
「斬った、はず……でも、斬った感触が残らない」
イリスの手から灯籠の記録札が落ちる。
「記録が……消去されていく。書いても、読もうとした瞬間に消える」
ミュナは芽吹きを抱いて震えた。
「芽の名が消える……ひとつひとつの芽が、区別できなくなる……」
セレスティアが膝をつき、唇を震わせた。
「街が……輪が、消える」
その時、胸の刻印が熱く脈打った。
ルミナの声が、無の奥からかすかに届いた。
『音を奪われても、残るものがある。
——“身体”だ。
音は消えても、動作の“痕跡”は消えない。
無拍に抗うには、“記憶ではなく痕跡”を刻め』
俺は立ち上がり、拳を握った。
「みんな、声も音も頼るな! 動きで拍を残せ!」
カイルが即座に理解し、太鼓を叩くのをやめた。
代わりに拳で自分の胸を三度打つ。
「——ドン、ドン、ドン」
音はない。だが胸の骨が共鳴し、身体が覚えた。
レイナは剣を振らず、足で三度地を踏んだ。
「——一、二、三」
音はない。だが震えは石畳を伝い、隣の足裏に届いた。
イリスは札を落とし、指先で炎に三度触れた。
「熱は消えない。……拍は、熱で記録できる」
ミュナは芽を抱き、葉に三度唇を寄せた。
「匂いは残る。芽が拍を覚える」
セレスティアは胸に手を当て、俺と同じ動きをした。
「記憶が消えても、身体が覚えている……」
街の人々がそれぞれの方法で三拍を刻んだ。
拳を打つ者。足を踏む者。火に触れる者。水を掬う者。
音も記憶もなくても、“痕跡”は街に残った。
ノクトの虚空が揺れる。
『……無音の中でなお、拍を残すか。
だがそれは“記録”ではない。痕跡は曖昧だ。やがて風化する』
「風化させない」
俺は答えた。
「痕跡を“連鎖”させる。俺が刻んだ拍を、隣が受け取り、また隣へ渡す。
記憶ではなく、伝染として輪を守る!」
人々が互いに動作を真似始めた。
拳を打つ拍が隣に伝わり、足を踏む拍が広がり、炎を触れる拍が列を作る。
街全体が一つの巨大な“動作の輪”になった。
ノクトの虚がきしむ。
『……無を裂いたか。
音も記憶もなく、ただの痕跡で輪を回す。
——それもまた、拍だ』
虚空が裂け、ゆっくりと閉じていった。
夜が明け、王都は静かだった。
しかし石畳には無数の足跡が残り、祠には触れられた炎の痕があり、芽吹きには唇の跡があった。
それは無拍に抗った街の“痕跡”だった。
セレスティアが俺の手を握り、囁いた。
「音も記憶もなくても……輪は、残る」
俺は頷いた。
「痕跡が、輪の根になる」
胸の刻印が静かに震え、ルミナの声が響いた。
『虚空を超えたか。……ならば最後の試練が来る。
第十三天、“天空”。
輪を越え、街を越え、国を越え——すべてを包む“空”そのもの。』
空を見上げると、雲ひとつない青が広がっていた。
その広さは、今までのどの試練よりも遠く、深く、そして恐ろしかった。
――――
次回:第28話「天空の和音、全てを包む空」
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