第21話 冬宮の断頭台

 未明の都は、音を持たない。

 雪雲は低く、城壁の火床はほの赤い輪郭だけを残して縮こまり、風は鈴を鳴らさない高さで冬宮の尖塔を撫でていく。灯の落ちた書庫塔は、氷柱のように暗く立ち、脚部の石は夜気の重さを吸って、ささやかな吐息さえ拒んでいる。


 その沈黙を、革の擦れる音が破った。

 法務卿・玄檀(げんだん)が衛兵を伴い、石段を上ってくる。上衣は分厚い緋の外套、襟には黒狐の毛。歩幅は一定だが、節目ごとに指先が外套の裾をわずかに握り直す。その癖が、彼の昂りを暴いた。


「王命文の緊急押印だ」


 塔の扉を守る書記頭は、起居の姿勢のまま目を見開く。彼は夜番の薄衣に黒い肩掛けを重ねただけで、指は凍えて青い。机上の砂盆には、昨夜のうちに研いだ砂粉がまだ乾かずに寄っている。


「どの文にございますか」

「紅月との講和再交渉。その全権委任だ。戦の火が山で燃え広がる前に、印を。速度こそが国を救う」


 玄檀の声音はいつも通り整っている。だが、その整いに、砂利が混ざっているのを、書記頭は聞いた。

「王の直命なくば不可」

 書記頭は答える。

「規に照らしても、夜明け前の押印は許されませぬ」


 玄檀は一歩、机に近づいた。外套の裾が机角にかかり、布の重みで置いた紙がわずかに滑る。

「王は甘い。民に耳を寄せるのは結構だが、戦は血だ。躊躇(ためら)う間にも血は流れる。法の条は生者のためにある。死者に何が護れる」


 書記頭は、砂盆を両掌で押さえた。掌の下で砂がきしむ。

「法の条は王の条、王の息が紙に入らねば、ただの粉です」

 玄檀の目が細くなる。衛兵が二歩、じりと寄る。墨の匂いが寒に薄まり、弓弦のような乾いた香が、どこからか紛れ込んだ。


 書記頭は退かなかった。塔の陰影は彼の背を大きくしたが、指の震えは隠せない。震えは恐怖の徴か。それとも、凍えた冬の徴か。彼自身にも判別がつかない。

「王の直命なくば不可」

 同じ言葉を繰り返す。繰り返しは、刃になりうる。鈍いが、深い。


 玄檀は息を吐いた。白くもならず、空気だけを揺らす息。

「……夜明けを、待つ」


 外套の裾を払って踵を返す。衛兵がひとり、未練がましく塔の奥を見た。そこには歴代王の巡幸記録、租税の台帳、そして古の地図が眠る。眠っているものに触れたくて、触れてはならないと知りながら、彼は固く握りしめた手の中指をほんのわずかに動かした。


     ◇


 同じ時刻、城下の裏通りでは、夜の温度がすぐに変わるような小部屋で、密偵たちが図と帳面を広げていた。悔悟令で出頭した青年の供述の裏取りが進む。古書肆(ふるほんや)の帳面には、玄の字を含む符丁が四度記されていた。二は別人の玄であることが糸口からすぐに既知と判明、一は虚偽の線だった。残る一つ――未判明の符丁が、玄檀の私邸の近くでふっと消えている。

 密偵頭は、報の匂いを嗅ぐように文を一読し、短く頷いた。紙の縁に指を当て、冷たさを確かめ、封をして楓麟へ送る。封蝋に押された印は白風の小印。溶けた蝋は、途上で曇らずに固まった。


     ◇


 楓麟は、その報を山の端で受け取った。白樺の匂いと雪の匂いと火の匂いの間で封を割り、二度だけ目を走らせ、藍珠の包帯に目をやる。


「都へ戻る」

 彼は言った。

「補給路の妨害は一段落した。王の首のほうが危ない」


「俺も行く」

 藍珠は痛む肩を前に出すように一歩踏み出した。

「剣は前へ」「王の傍は私が守る」

 楓麟は短く制した。彼の声は火の上の鍋の蓋のように静かに鳴り、決して跳ねない。

「おまえの痛みは前線の痛みだ。王は、違う形の痛みを抱える。――痛みは分けるためにある」


 藍珠の視線が一瞬だけ遠くを見た。山と都の間、その白と灰の境を。

「王に伝えろ。俺は痛いと言いながら前に出る、と」

 楓麟は顎をわずかに引き、白の尾を翻した。風が匂いを変える。都の匂いが近づいている。


     ◇


 王宮の評議室。床の石は朝でも冷たく、冬の光は窓の影を細く伸ばす。丸卓の周りには重ねられた紙と封印の印、そして簡素な火鉢。

 玄檀が声を張った。


「王は優しすぎる。戦は血だ。潔く、首を差し出して講和せよ。――血は一度流せば止まる。だが飢えは止まらぬ」


 遥(はるか)は、卓に置いた両掌を見下ろしていた。掌の間に、夜の灰のざらつきがまだ残っている気がする。二度、ゆっくりと呼吸をして、顔を上げた。


「誰の首」


 評議の空気が一寸たじろぐ。玄檀は瞬きし、口の中で言葉を組み直す時間をほんのわずか求めた。

「……国の首」

 曖昧な語が空へ滑る。

「国の首を、誰が差し出す」

 遥は静かに重ねる。声は低く、石の目地に染み込む。玄檀は視線を逸らし、窓の白に逃がした。


 そのとき、楓麟が入室した。冬の風を背に連れて。外套の白にわずかな雪片、耳の先は冷たさで薄く色を失っている。

「法務卿」

 楓麟は正面から立ち、玄檀の前に小さな掌を差し出した。

「あなたの印章を」


 玄檀は笑った。口角が上がるが、目は上がらない。

「疑うと? 宰相。……よろしい」

 袖の裏から小印を取り出し、机に置く。石の上で印の金具が冷たく鳴った。


 書記が持ち込んだ白紙に、玄檀の印が軽く押される。押すときの力は揺れない。押された印は美しく、歪まず、均等。だが、印床の縁――薄金粉の痕跡が、灯の角度で微かに光った。紅月式の薄金。粉は極めて細かく、乾くと透明に近い。だが、乾く前の粘りが、縁に薄い膜を残す。


「印はすり替えられる。証拠は幻だ」

 玄檀は肩を竦める。余裕の姿勢。

 だが、書庫塔へ走った密偵が評議室に飛び込んだのはその直後だった。息を切らし、湿った雪の匂いを伴って。


「塔の緊急押印文案の紙縁に、紅月式断ち切りの微細な痕! さらに……古書肆の隠し引き出しにあった布片と同質の繊維が、法務卿の袖裏から――」


 言葉の最後は氷の縁で切れたように短くなった。評議室の空気が引く。玄檀の頬に、ほんのわずかな血の気が戻る。それは怒りの色に近い。


「証拠は……作れる」

 玄檀は笑いを薄くした。「宰相、あなたほどの手練れなら、印も紙も、いくらでも」


「では、ここでもう一枚、作られた証拠を積もう」


 楓麟の声は静かだった。静かさは、刃より遠く届く。

 その瞬間、玄檀は袖を払った。

 閃く。

 短刀が、光の帯を残して机に突き立った。木が悲鳴をあげ、刃が半分だけ沈む。衛兵がざわめき、椅子の脚が石を擦る音が重なる。

 藍珠はいない。彼女の剣は今、雪の襞の向こうにある。室に立つ刃は、宰相の手と、王の命しかない。


 楓麟は一歩、前に出た。風の音が室の四隅で低く鳴る。玄檀の手首を机に叩きつける。一切の躊躇がない。机が揺れ、短刀が床で跳ねた。金属音が石に散り、衛兵の視線が一斉に揺れる。

 遥は椅子から立ち上がり、喉の奥で短く声を整えた。

「武器を捨てよ」


 その声は震えていなかった。震えない声というのは、どこかで既に震えを受け止めきった声のことだ。衛兵は迷い、そして床に剣を落とした。落ちた刃は冷たく、音は低い。


 法手続きに即して、書記が罪状を読み上げる。「王命の偽造」「敵国への通牒」「国家反逆未遂」。玄檀はなおも舌鋒鋭く、「私は講和を望んだだけ」と叫んだ。唾が灯に濡れ、火は揺れなかった。

 遥は首を横に振る。

「望んだのは椅子だ」


 その一言が、評議の空気を決定的に変えた。誰も、そこでまた反論の言葉をうまく見つけられなかった。言葉が見つけられないとき、人は自分の中の秤に視線を落とす。秤は、遅いが、動く。


     ◇


 裁きは即日ではなく、三日の審理を置くことに決まった。即刻の断罪を望む声もあった。戦時である。模範は必要だ、と。

 楓麟は耳をわずかに動かし、視線で王に問う。「王よ、甘さと見えるだろう」

 遥は答えた。

「剣で切るのは簡単だ。だが、切れ目は必ず“恨み”を残す。三日で事実を積む。恨みの根を薄め、線を戻す」


 断頭台は、まだ立てない。立てないと決めることは、立てるより楽ではない。

 三日の間に、都は不気味に静かになった。紅月は補給にあえぎ、一時押しが緩む。城外の雪は深く、狼煙は短く、しかし確実に上がっている。けれど、玄檀の配下だった文官の一部が沈黙し、書記机はいくつか空席になった。小さく見えて大きい空白。行政の手が鈍る危険。


 遥はそこで“臨時代行制”を布いた。若い官、そして悔悟令で出頭した者の中から識字の者を登用し、机に座らせる。座らせる前に、ただ一言だけ渡した。


「字はゆっくりでいい。嘘を書くな」


 ゆっくりは遅いのではない。遅いと言われないための、正しさの別名だ。

 初日の夕刻、若い代行官が泣きそうな顔で書記の机に寄った。「この字、間違っていないでしょうか」

 書記は首を振った。

「間違えるなら、声に出してからにしろ。声は、紙より早い」

 声は、紙より早い。だから、間違いを止められる。


     ◇


 二日目の審理。

 玄檀はしぶとく抵抗した。言葉は巧みで、法条の隙間を渡り歩く。彼の舌は戦の歴史を語り、講和の美徳を語り、王の優しさの危うさを語った。語れば語るほど、彼は雄弁になった。雄弁は、冬にはあまり似合わない。

 しかし、言葉以外のものが積み上がっていく。


 古書肆の老爺が病床で口を開いた。咳で言葉が切れ切れにしか出ない。

「玄の字は……玄檀の玄じゃよ」

 短い言葉が、長い糸を引く。

 書記補の青年が涙ながらに供述した。「母の薬の見返りに……印影を写しました。夜、玄の屋敷で……」

 青年の涙は、紙に落ちて丸く広がる。広がった水の跡は、乾くと薄い輪郭を残し、それは誰にも消せない。


 決定打は、玄檀の私邸の床下から見つかった紅月の金粉袋だった。袋の口は粗末な紐で結ばれ、内側には微細な金の粉が指先に付くほど残っていた。金粉は、印の縁を滑らせるためのものだ。さらに、未押印の“全権委任状”の束。それは、王の息を待たずに置かれた紙たち。紙はまだ白い。白いが、匂う。夜の匂いがする。


 玄檀は、口だけは最後まで乾かなかった。「私は講和を望んだだけだ。戦を終わらせたい一心で――」

 遥は、彼の言葉の間に短く息を置いた。

「戦は、終わらせたいと望む者の手にだけ、終わらない」

 言い切ると、玄檀の肩がほんのわずか落ちた。落ちた肩は軽くなったのか、重くなったのか、誰にも分からない。


     ◇


 三日目の夕刻。

 判決の瞬間、評議室の灯は低く、窓の外では雪が糸のように降っていた。

 遥は深く息を吸い、言い渡した。


「法務卿・玄檀。王命の偽造、敵国への通牒、国家反逆未遂の罪。免官。家産半没収。城外流し三年。紅月との通牒は国法に照らして重く、再犯あらば斬」


 処刑を避けた理由は二つ。ひとつは“恨みの根”を増やさぬため。もうひとつは、玄檀が握っていた行政の線を生かすため――罪を断ち、線は国家へ戻す。王が線を断ち切るのは簡単だ。だが、断たれた線の先に残る空白が、明日の机でどう響くかを、彼は三日間で骨に入れた。


 評議室はざわめいた。重いが、理の通ったざわめきだ。声に怒りも安堵も混じる。混じること自体が、今の都の等温線だった。

 玄檀は拘束され、正面から遥を見た。

「やがてあなたも、断頭台を立てざるをえまい」

 遥は答えなかった。立てざるをえない日が来るかもしれない。彼はそれを否定できない。けれど、今日ではない。今日では、ないのだ。


     ◇


 夜、王宮の回廊。

 石柱の影は冷たく、灯の火は小さい。楓麟が足を緩め、宙へ向けて呟いた。

「断頭台を立てなかった王は、恨みを薄め、責任を濃くした」

 その声は、柱と柱の間で一度だけ跳ねて、雪の上に沈む。


 そこへ、藍珠が戻ってきた。包帯の上から外套を引き、胸に拳を当てる。

「王」

 彼女は短く言い、顔に笑みを作らない。「補給路は詰まりつつある。紅月は森を揺り動かしているが、列は遅い。次は“春待ちの戦”だ」

「春待ち」

 遥は繰り返した。響きは柔らかいのに、内側に硬さがある。

「春までに、どれだけ返し、どれだけ守るか。――断たねばならない首は、人の首ではなく、紅月へ繋がる“道”の首だ」


 楓麟が目を細めた。風が柱を鳴らす。都の灯が揺れる。

 断頭台は立たなかった。代わりに、道の首を断つ決意が、王と国の胸に静かに立った。立てたのは檜でも石でもない。誰の目にも見えないが、誰の足にも重い柱だった。


     ◇


 翌朝、城の高殿で、遥は書庫塔の書記頭に会った。夜明け前、緊急押印を拒んだ男だ。彼はまだ青い指で、朝の砂盆を撫でていた。

「昨夜は、よく守ってくれた」

 遥は言った。

 書記頭は頭を下げ、「規のとおりに」とだけ答えた。誇らしげではない。ただ、明かりの少ない部屋に光を持ち込まない者の慎みがあった。

「規は人の骨だ。骨がなければ、身は崩れる。だが骨ばかりでも、動けない」

 遥は言葉を結ぶ前に、窓の外の雪に視線を移した。「……動ける骨であれ」

 書記頭はわずかに笑った。

「王もまた、動ける骨で」


 塔を出ると、城壁の上で狼煙番の若者が朝の空を仰いでいた。南東の空にひとすじ、北東にふたすじ。細い煙が、細い風を刻む。

「楓麟の線だ」

 遥が言うと、若者は胸を張った。

「昨日、倉の代行に座った兄貴が、字を間違えないように声に出して書いてました」

「よくやってくれた」

「はい。……王、今日も、鍋をふやしますか」

「ふやす」

 短い返事が石に残る。残った言葉は、昼までに人の腹へ届く。


     ◇


 玄檀の城外流しは、夕刻に執行された。城門の前、雪を踏みならした道に、彼は黒の外套をまとって立った。手は縛られていない。彼は敗者だが、罪人の見世物ではない。左右に立つ兵は剣を抜かず、彼の足の向きを見守る。

 玄檀は一度だけ振り返った。王宮の白は遠く、冬の光に薄く溶けている。

「椅子は、王の背にあるものではない」

 彼は誰にともなく呟いた。「立つ場所の名だ」

 誰にも聞こえない高さで、彼は笑った。笑いは白い息にならない。彼は北門の外へ歩き出す。足跡はすぐ雪に埋もれ、彼の名もまた、雪の下で別の季節を待つ。


     ◇


 夜。

 王宮の屋根の上に、星がひとつ、ふたつと顔を出した。冬の星は遠く、音を持たない。楓麟は高殿の端で風を読み、藍珠は廊の影で柄を磨いた。

 遥は評議室で紙を広げ、石の上に、今日の線を一本引く。細く、濃い線。

 断頭台は立てない。――今は。

 立てないかわりに、道の首を断つ線を濃くする。狼煙の歌、薄氷の帯、札の入れ替え、滑る道。ゆっくりと、しかし間違えず、冬を王の方へ傾ける。

 窓の外で、風が鈴を鳴らさない高さで城を回った。


 雪は降り続く。

 白は、何も隠さない。

 隠さないからこそ、選んだ線が浮かび上がる。

 王の足裏に、石の目地の感触が、またひとつ増えた。

 目地は細く、確かだ。

 確かさは、罰ではない。

 明日の印だ。

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