第8章 春待ちの囲い
第22話 凍河の橋
北東へ延びる古い街道は、冬になると地図が書き換わる。
川が固まり、道が一つ増える。春には砕けて消える橋――氷の細い背骨は、冬だけ国境を越えて現れ、荷車の幅ぎりぎりを許す。紅月は、その一時の背骨に荷を載せようとしていた。押し込めるだけ押し込み、春の手前を力で渡りきる。それが彼らの読みであり、彼らの焦りでもあった。
白風の塔で、楓麟(ふうりん)は薄墨で川筋を描いた。紙の上で墨は冷え、指にひやりとした感触を残す。風向、日照、雪庇(せっぴ)の影、氷の厚みを変える岩の張り出し――冬の河は、地図では一本の線だが、実際は幾本もの見えない層でできている。
「橋を落とすのではなく、橋を『選ばせる』」
楓麟は細筆を立て、三本の渡し筋に小さな印を置いた。
「安全に見える二筋に印の枝を立てる。三筋目に“見かけの橋”を仕込む。荷車が乗れば沈む。落ちるほどではない。沈み、抜けず、列は自ら速度を落とす」
藍珠(らんじゅ)はその横顔を見、薄く頷いた。
「側面の森で“雪幕”を落とす。視界を白く塞ぐ。同時に対岸で偽の狼煙を上げ、“後方で火事”の嘘を見せる。足を遅らせ、心を乱す。……斬り結ばない」
「斬らない」
楓麟は反復し、筆を拭った。布は薄く、冬の指は太い。太い指が薄い布を丁寧に扱うとき、その丁寧さは刃より鋭い。
「戦は刃の音だけでできてはいない」
◇
都では、遥(はるか)が紙の束の前にいた。書記たちがしきりに帳面の端を撫で、墨の残りを気にし、算木を切っていた。
「春待ち策を前倒しにする」
遥は手短に告げ、机に地図とは別の線を引いた。
「冬借の返済に“公共工事の前貸し”をつける。城外の凍(し)み割れた道路を直す労役を募って、春の泥濘の前に石を入れる。仕立屋組合には裂き布税の免除。革手袋と草鞋(わらじ)の底当てを配る。外で働く足と手を守る」
書記の一人が怯えた顔で手を挙げる。
「帳が……合うでしょうか」
遥は即答した。
「春に工事が進めば、税も戻る。嘘の数字で冬を越した年は、春に倒れる。――嘘は書くな」
玄檀(げんだん)没収分の半分、紅月の斥候から押収した金粉の換金分。裏付けは薄くはない。薄くはないが、軽い。軽いものは、風で転ぶ。だから、多くの小さな釘を打つ。遥は財布の口ではなく、手袋の縫い目を確かめるような目つきで紙を見、署名する。
仕立屋組合の年配の女主人が呼ばれて入ってきた。肩には裂き布の束、指先は針で硬くなっている。
「税は本当に免除で?」
「免除する。代わりに納めるのは、手だ。縫う手。手袋の縫い目は薄いが、命に厚い」
女主人は、糸を切るように短く笑った。
「王さまは、針の目の話をするのね。……わかりました。縫い目を増やします」
◇
夜。凍った北路は月に照らされ、光ではなく温度で白くなっていた。楓麟と藍珠、密偵の精鋭十は凍河へ到達する。氷の上はぎしりと鳴り、月光が返り、呼気は短く、重い。
藍珠が針金を出し、氷に落とす。指先に伝わる振動は、木とは違う。ガラスでもない。水の呼吸が硬くなったものだけが持つ、均一でない均一だ。
「ここは薄い。穴を開ける。細かく、浅く」
「冷水を流す。表面だけ凍らせ、滑らかに見せる」
藍珠は膝をつき、細い穴を並べた。穴は音を立てない。そこに楓麟が皮袋から冷水を流し込む。風が水の上を撫で、瞬(またた)く間に表面が白く締まる。遠目には滑らか、近くでも滑らか。だが、芯は空。重みが乗れば、わずかに沈む。沈みは音を産み、音は心を乱す。
安全に見える二本の筋には、枝で印を立てる。印は低く、雪に馴染む角度に。遠目には“誰かが渡った”安心だけを与える。
楓麟が風を嗅ぎ、空を読み、密偵に短い指示を飛ばした。
「雪幕はこの稜線。狼煙は対岸の丘。風は右から左。幕が落ちるとき、煙は一拍遅れて舞う。――遅れは、焦りを喰う」
◇
都の夜も動いていた。城外の道に、木槌の音が低く続く。労役を募った男たちが凍った地面に石を打ち込み、女たちが鍋の蓋を叩いて時間を揃える。倉から出された革手袋は手の大きさに合わないことも多く、仕立屋たちは火のそばで指の付け根をつまんで縫い直す。
狼煙番の若者は、塔の上で火を育てた。薪は少ない。少ないからこそ、火はよく見る。風の向きを読む。空気の乾きを舌で確かめる。
遥は彼の隣に立ち、同じ高さの息をし、同じ早さで目を細めた。
「北東……一。北……一。遅滞」
若者が煙の切れを読み上げる。
遥は頷き、塔の下へ伝令を送る。
「粥を一釜増やせ。兵の鍋は厚く、民の粥は薄くしない。そのための嘘は書くな」
書記は苦笑し、紙に線を引いた。笑いの中に、ほんの少しだけ温かさが混じる。温かさは、冬においては贅沢でも甘さでもなく、武器だった。
◇
夜明け。紅月の荷駄列が現れた。斥候の男が氷上を長槍で叩き、音を聞く。
鈍い音。固い音。偽の橋は巧妙に「厚く」聞こえる。耳は風の音に慣れ、目は白に慣れ、経験は油断に変わる。
荷車が乗る。氷の表面がわずかに凹み、車輪の鉄が縁に食い込んだ。押せば抜ける。抜けるはずだ。押す。抜けない。
後ろから声が飛ぶ。「押せ!」
前から声が返る。「抜けん!」
声が氷の上を滑り、割れて散り、足元に戻る。
その時、稜線から“雪幕”が落ちた。白が視界に流れ込み、遠くと近くの境界が均される。斥候の耳が一瞬だけ頼りになりすぎ、目が間に合わない。
対岸で、狼煙が上がる。細く、すっと一本。続けて短い一本。
「後方、火事!」
それは嘘だ。嘘だが、火は嘘につられない。つられるのは人の心だけだ。
白風の襲撃はない。矢もない。刃もない。あるのは氷と雪と空気と、彼ら自身の重み。斥候は判断を変える。隊列を川上の“安全な橋”へ移す。だが、一度はまった荷車は抜けない。列は分断される。分断は不安を産み、不安は消費を増やす。
腰の乾菓子を、兵は早めに食った。甘さは一瞬で消え、喉の渇きだけが残る。上官は怒鳴る。怒鳴りは寒さに薄まり、怒りは自分の内側に戻る。戻った怒りは、自分自身を噛む。判断は短く粗くなる。
藍珠は陰でそれを見ていた。氷の上に膝をついている兵の指が紫色に変わっていくのが見える。頬に雪が張り付き、まばたきのたびに白が剥がれる。
「戦は、血だけじゃない」
藍珠は低く呟いた。
「塩と水と冷えだ」
楓麟はその言葉に頷いた。
「王は都で“暖かさ”を作っている。こちらは“冷たさ”で押し返す。――一本の線の両端だ」
◇
正午、氷上の列の後方で荷袋が破れた。白い雪に、白い塩がこぼれる。塩は雪の上でも塩のままで、味がある。拾おうとした手袋の指先が滑り、また塩がこぼれる。兵の顔が歪み、口の中に塩を入れる者が出る。塩は喉を焼き、焦りだけ残す。
密偵の一人が合図を送る。雪に刺した細枝がわずかに震え、対岸の小丘で煙が細く増える。焦りはさらに育つ。育つのは敵の焦りであってほしいと祈る間に、こちらの心拍も静かに速くなる。
楓麟は合図旗を小さく振り、藍珠に連絡を戻した。
「今は押さない。落とさない。――待つ」
待つというのは、冬の最も難しい戦術だ。寒いから、足も心も動かしたくなる。動かすほうが、体は楽に感じる。だが、動きはミスを産み、ミスは損耗に直結する。楓麟は風を嗅ぎ、舌で空気の乾きを測る。乾きが増している。夜はもっと冷える。冷えは味方だ。今は、それを待つ。
◇
都の医の館は、昼も夜も灯が落ちなかった。凍傷で指の色を失った兵が、熱い酒を受け取り、震える手で口に運ぶ。医師は怒鳴らない。怒鳴らずに、命じる。
「指を揉むな。摩擦で傷む。温めるのは手のひらと肘の内側」
兵はうなずいて、またうなずく。意味は分かっていない。分かっていないのに、うなずく。
遥はその傍らで、もう一つの杯を差し出した。
「ゆっくり飲め」
兵は唇を添え、「王の手が温かい」と呟いた。
遥は笑わなかった。
「温かいのは、ここで働いている皆の手だ」
彼は知っている。前線の“冷え”と、都の“温さ”。違うもののようでいて、同じ一本の線。片端が冷えれば、もう片端は温める。温められれば、冷えにも耐える。耐えれば、春に届く。
鍋の蓋が叩かれる音が、医の館の奥からした。炊き出しが一釜増えた合図だ。
「薄くしない」と朝言った粥は、昼に本当に薄くならなかった。薄くしないための嘘も書かれなかった。
書記頭は塔の上で、緊張の抜けない手で、でも確かな線で、今日の帳を閉じた。
彼は覚えている。あの夜、玄檀が押印を迫ったときに砂盆を押さえた自分の指の震えを。震えは恥ではなく、覚悟の痕跡だ。
◇
夕暮れ。紅月の列は渡河を諦め、凍河の手前で野営を敷いた。篝火は低く、火の粉だけが白闇に散る。馬は鼻先を揺らして白い息を吐き、人は肩を寄せ合い、怒鳴りは囁きに変わる。食うはずだった塩は雪に散り、口は甘い乾菓子の残りを探す。甘さは喉を余計に乾かす。
白風は襲わない。夜襲もない。夜襲の不在が、夜襲より重い。重いものは、音を持たない。音を持たないものは、どこへでも入り込む。
翌朝、列は半日遅れで北路を戻り始めた。戻ることを決めるのは恥ではない。だが、恥だと教えられてきた者にとって、戻る決断は歯の裏を噛むほど苦い。苦さは怒りに変わり、怒りはまた判断を短くする。その短さが、白風の“囲い”の中へ、もう一歩入る。
◇
楓麟は凍った雪面に爪先で細い印を残し、藍珠は肩の包帯を結び直して笑った。
「王は、怖いと言いながら前に出る。俺は、痛いと言いながら前に出る。……今日も、痛い」
「痛みは生の証」
楓麟はいつもの言葉で返し、風の向きを確かめた。
「この寒さは、彼らの鍋を薄くする。王は都で鍋を厚くしている。――バランスは取れている」
藍珠は頷き、白い息を吐いた。吐く息で、視界がほんの一瞬だけ曇る。曇りが晴れるその早さが、今の白風の早さだった。遅いと見える策を重ねながら、必要なところでは一拍早く、先に曇らせ、先に晴らす。
◇
都に戻る報は、いつも塔の上から始まる。狼煙番の若者が新しい読み方を覚え、前日の読み違いを笑いに変える。笑いは短く、寒さにすぐ吸われる。だが、その短さが、冬に似合う。
遥は塔から降り、労役を終えた若者たちの手袋のほつれを見、針を持つ女たちの背を見、医の館の灯を見に行く。見て回ることは、王の仕事の中でいちばん時間がかかる。時間がかかるものは軽んじられがちだ。けれど、それなしには、紙の線は紙で終わる。
仕立屋組合の女主人が、腰をさすりながら言った。
「王さま、裂き布税の免除、本当に助かります。布は裂けば裂くほど手が悴(かじか)む。税のほうが痛いときもある」
「税は骨だ。骨は必要だ。だが、寒いときは布のほうが先だ」
「そうね。……春に骨を太くしよう」
女主人は笑った。笑うとき、彼女の目尻のしわが一本増えた。その線は、王の地図の線とは別の線だが、どちらも春へ向いている。
◇
凍河の上に残る車輪の跡が、夜気で硬く凍った。白い筋になって伸びている。筋はまっすぐではない。ところどころで揺れ、蛇行し、二股に分かれ、また合流する。そのどれもが、人が選んだ瞬間の跡だ。
遠くで狐が鳴いた。ひと声だけ。雪が音を吸い、空が息を返す。
楓麟は耳を傾け、風の高さを一つ下げた。
「春は、まだ遠い」
誰にともなく言う。
「遠いからこそ、囲いは広く。――“春待ちの囲い”は、冷えと温さでできている」
藍珠は、包帯の上からそっと肩を叩いた。痛みが、叩いた指に少しだけ移る気がする。移った痛みは、確かさだ。
「王に伝えろ。氷は割れず、橋は沈み、列は遅れた。……今日も斬ってはいない」
「斬らないことは、弱さではない」
楓麟は答え、丘の影に視線を投げた。
「斬らずに折る。折らずに返す。返した先で、春が押し返す。――そのために、都で鍋を厚くする」
◇
夜。王宮の回廊に、寒の匂いが深く染み込んでいた。石の柱は温度を持たず、灯の火は小さく、音は消える。
遥は評議室の窓辺に立ち、今日の線を一本引いた。紙の上ではなく、胸の内側に。
玄檀のいなくなった机には、代行の若い官が座っている。彼は字をゆっくりと書く。ゆっくりの字は大きくて読みやすい。読みやすい字は、嘘を隠せない。
遥は窓を開けて夜気を吸い込んだ。冷たい空気は、喉に短く触れ、肺に長く滞在する。
「……春まで」
声に出すと、言葉は白くならず、石に染みただけだった。
「春までに、返す。春までに、囲う」
遠く、城外の道で、木槌の音がやんだ。やんだ後の静けさは、音よりも重い。重さは眠りに似ている。眠りは、明日を連れてくる。
断頭台は立っていない。立てるかわりに、道の首を断つ囲いが広がっている。囲いは見えないが、足元の石の目地みたいに細く確かだ。
その囲いの外で、紅月の焚き火が一つ、また一つ、消える。
囲いの内側で、鍋の蓋が一つ、また一つ、静かに開く。
開いた鍋から上がる湯気は白く、星のない夜にだけ見える白だった。
◇
翌朝。狼煙番の若者が、空に短い煙を読み、塔の階段を駆け下りる。
「北東一! 北一! 遅滞!」
息は荒く、言葉は嬉しさを纏っている。
遥は受け取り、紙に一行書き足した。
「粥、もう一釜」
書記が笑う。
「王、鍋ばかり増やせば、倉が泣きますよ」
「泣かせない。春の石を打つ手が増えれば、倉は笑う」
言いながら、彼は医の館を振り返る。まだ指の色が戻らない兵が、湯気を見つめている。
「温かいのは、ここにいる皆の手だ」
小さく繰り返し、塔の上に視線を戻す。
空は低い。雪は細い。細い雪は、朝に積もる。
凍河の上、昨夜の車輪の跡が白い筋になって伸びている。春はまだ遠い。けれど、その白い筋は、雪の下で春に向かって硬く結びなおされる。
白風は、凍てつく地形ごと戦いを自分のほうへ傾けた。傾いた分だけ、都の鍋が厚くなり、兵の指に血が戻る。
冬の戦は、刃の長さではなく、息の長さで決まる。
息は、今日も続いている。
王の胸でも、宰相の背でも、剣士の肩でも。
そして、鍋の火の上でも。
白い世界に、線は増えていく。
囮の線、雪幕の線、狼煙の線、帳面の線、指の皺の線。
どの線も春へ向かっている。
春待ちの囲いは、今日も、誰の目にも見えない高さで、少しずつ濃くなった。
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