第20話 白い伏兵
雪は、音を持たないはずだった。
けれど、その朝の雪は、かすかに焦げた匂いを運んできた。焦げというには甘くなく、木でも毛皮でもない。鼻腔の奥で、薄い弦がひとすじ震える。干した腱(けん)をねじり、弓に貼るときに立つ匂い――楓麟(ふうりん)は塔の上で目を細め、風の高さをひと段下げた。
「雪が焦げる匂いだ。乾いた弓弦の匂いが混じっている」
都の北東、古街道からさらに山陰に折れ入った尾根筋。補給路を止められた紅月は、雪原に“白い伏兵”を散らしていた。頭から足先まで白布で覆い、背中の弓に白粉を叩き、雪面に貼りつくように伏せた軽歩兵。白と雪の境は、目を凝らしてもほとんど読めない。彼らの目的はただひとつ。白風の妨害隊の足を止め、“白樺の坂”の強行突破のために時間を稼ぐこと。
雪の匂いを嗅ぎ分けてから間もなく、楓麟は丘の陰に伏せた藍珠(らんじゅ)へ合図を送った。音ではない。風紋の向きと、雪煙のわずかな濃淡――ふたりにだけ通じる、鈴を鳴らさない高さの合図だ。
「囮をやる。影は俺が刺す」
藍珠は迷わず決めた。妨害隊を二手に分ける。一手は“囮の白”。真っ白な外套と頭巾で尾根を走り、あえて足跡を残す。もう一手は“影の灰”。灰色の外套で風下の窪みに伏し、追尾してくる伏兵の横腹を刈る。合図は、雪玉を一つ、空に投げ上げるだけ。
白布の背がひらりと光った。囮の白は、わざと重心を深く掛けて、雪の上に幅のある足跡を残していく。足跡の間隔は一定より少し広い。焦りに見せるためだ。白は、ときどき尾根の端に寄って、転びそうに見せた。伏兵は食いつく。雪面がわずかに動く。白い紙の上で、白い墨が静かににじむみたいに。
藍珠は灰の影とともに窪みの底に身を伏せた。手は柄に置き、刃はまだ抜かない。雪は刃より冷たく、しかし、刃より静かだ。息は喉の奥にとどめ、肩の筋肉だけで間合いを測る。合図の雪玉が空を切った。
――いまだ。
白い伏兵の弓が起きた。目に見えない線が、雪の上を滑って尾根へ伸びる。囮の白に向けて第一射。弦の音は低く、風の底に潜って消えた。次の瞬間、藍珠は雪から跳ね出ていた。灰の影が横腹へ突き込む。刃を寝かせ、柄で足を払う。雪が散り、白の肩が沈む。喉を柄頭で打つ。打撃音は雪に吸われ、叫びは立たない。
作戦は半ばまで、見事に成功した。
だが、紅月の将も緩くはなかった。伏兵の列の中に、さらに“影の影”が潜んでいたのだ。灰が抜刀したその瞬間、別の角度から矢が飛ぶ。狙いは、突撃の中心――藍珠。
宙に白い線が走った。
肩口が熱い。
藍珠の視界は一瞬、白だけになった。雪ではない。痛みの白だ。右肩の上を矢羽根が掠め、外套の厚い布の下で肉が裂けた。足元で密偵がひとり、短く呻いて倒れる。腹に黒い丸。雪の白の上で、黒はあまりに小さく、しかし深い。
楓麟が斜面の上から短く息を吐いた。詠じるような、歌の最初の一文字のような息。右足で斜面の微細な吹き溜まりを蹴る。雪塊がばさばさと落ち、砂のカーテンみたいに矢の軌道を遮った。風の高さが一段だけ下がり、弦の音が嫌う帯域に雪が満ちる。藍珠は左手で肩の血を押さえながら、前へ踏み出した。痛みが二拍遅れて追いかけてくる。柄で弓手の足を払う。崩れた肩に刃を入れるのではなく、喉へ、鈍い一撃。喉の奥で舌が鳴るだけ。白い伏兵の目がひとつ、雪の陰に沈んだ。
三呼吸の間に、距離は詰まった。白と灰、風と矢。静かな大気が、途端に肉の匂いを持ち始める。矢はもう役に立たない。近距離の格闘だ。伏兵の一人が短刀を抜く。藍珠の柄が先に手首を叩く。骨が鳴り、刃が雪に落ちた。楓麟は吹き溜まりを次々に崩し、視界を乱す。密偵が二人、足と腹に矢を受け、雪に血が咲く。赤は小さい。小さいのに、目が逃げられない。
短い静寂のあと、白い伏兵は退いた。雪面に滑り、背を低く、姿を消すのが早い。追わない。追えば、坂の上で待たれている。楓麟はその場で負傷者の搬送を即座に指示した。
「撤収は“白樺の坂”ではなく、谷の小川沿いに切り替える。坂は敵の待ち場だ。水は彼らの目にない」
冬の小川は凍っている。表面は鈍い灰色。夜に薄く融け、朝にまた凍り、氷の中に小さな気泡がいくつも閉じ込められている。足を置く角度を間違えれば割れるが、流れの緩い場所を選べば、雪よりも音が立たない。藍珠は肩を固定し、密偵の腕を掴んだ。掴んだ指に、じわりと痛みが移った。痛みは、確かさだ。生きていると告げる、遅い鐘。
◇
同じ時刻。都では評議が開かれていた。石の床は冷え、低い火鉢では足りない。法務卿・玄檀(げんだん)が声を強める。
「補給路を断つやり方は卑劣であり、紅月の報復を招く。講和の再交渉を。今ならまだ、都の一部と租税の割譲で済むかもしれない」
紙の端が微かに震えた。誰かの指が、冷えに負けて震えただけかもしれない。商務司の若い官は眉根を寄せ、しかし口を開かずにいた。遥(はるか)は黙って聞いた。黙っている時間は、刃より傷つけることがある。けれど、今日は黙ることが必要だった。玄檀の言葉が空気に根を伸ばし、壁に触れるのを待ち、そのあとで、ひとつだけ置いた。
「卑劣なのは、民の鍋を空にした者だ」
評議の空気がほんの少しだけ軋む。商務司の若い官が、誰にも見えないほど小さく頷いた。長く傾いた天秤は、遅く、だが確かに動き始める。遥はそれ以上は言わずに、紙を閉じた。言葉は多いと薄くなる。薄い言葉は、冬を渡れない。
◇
山へ戻る。藍珠隊が「石狐の祠」に戻ったとき、中継小屋は、もぬけの殻になっていた。焚き火の灰は冷え、壁に掛けてあった小旗は外され、床の板には靴の跡が何重にも重なっている。紅月は札の入れ替えに感づき、小屋を捨てて“移動中継”に切り替えたのだ。荷駄は小分けにされ、森の中の獣道を転々と移る。痕跡は薄くなり、追いは難しくなる。
楓麟は舌打ちしなかった。代わりに、風を嗅いだ。落ち葉の匂いに、麻の擦れる匂いが混じる。新しい縄の匂いだ。
「敵の将に学習がある。なら、こちらも学ぶ」
藍珠は負傷を押して言った。「次は『止める』ではなく『返す』だ。森の獣道を逆に“滑る道”にする」
密偵たちは手際よく散り、樹皮を薄く削って雪と混ぜ、勾配の緩い場所に帯のように延ばしていく。上から木の汁をこすりつけ、薄氷の膜を作る。目には雪だ。踏めば、滑る。さらに坂の途中、足をかける癖が出やすい位置に小枝を伏せる。急ぐ足はそこへかかる。ほんのわずかな高低差で、バランスが崩れる。馬は滑り、人は尻餅をつき、荷は落ち、列はまた遅れる。倒れても骨は折らない。折らせない。それが“返す”の作法だ。
密偵の若者が、藍珠の肩を見た。包帯の上から外套を引き寄せる仕草は、痛みを隠すためではない。痛みを寒さから守るためだ。藍珠はそれを気づかれたことに気づき、短く笑った。
「王は、怖いと言いながら前に出る。なら俺は、痛いと言いながら前に出る」
焚き火の影で、楓麟はじっと火を見ていた。薪が割れるとき、中の水気が小さく叫ぶ。声は低く、火はそれを抱いて消す。
「痛みは生の証だ。王は『怖さ』を言葉にした。剣は『痛み』を言葉にした。どちらも折れぬ」
藍珠は笑いを収め、視線を夜の森へ投げた。雪は降り足され、闇は白で薄まる。闇が薄くなると、遠くの音が近くに聞こえる。狐が一度だけ鳴き、風が白樺の樹皮をめくった。剥がれた皮はくるりと丸まり、雪の上を紙みたいに転がる。紙は、書ける。書けるものは、変えられる。
◇
都の城壁。狼煙番の若者が雪に濡れた袖で目を拭い、焚き火の火を守る。火は小さいほど強い。風に負けない。遥は彼の横に立ち、同じ高さで風を読んだ。城の内側と外側の空気は、どこかでひとつに混ざる瞬間がある。息を吸い、耳でなく骨で聞く。
「南東に一、北東に二……これは楓麟の線だ」
若者は頷き、狼煙の歌を短く区切った。短いほど、遠くへ届く。灯の向こうで、別の若者が「読み直し、完了」と声を上げる。遥は火の側で手を温め、しばらく空を見た。雲は低く、雪はまだ細い。細い雪は、朝に積もる。積もれば、道になる。
「王」
背から呼ばれて振り向くと、商務司の若い官が立っていた。昼の評議で小さく頷いた男だ。顔は赤く、息は速い。
「炊き出しの米、今日だけ多めに回しました。……勝手でしたら、叱ってください」
遥は首を振った。「叱らない。叱るべき勝手は、別にある」
男は安堵の息を漏らし、続けた。「倉の者が言っていました。狼煙が三つ上がる日は、鍋の列が短くなると」
「そうか」
「はい。……王、明日の狼煙も、三つ、上がりますように」
願いは幼い。幼いけれど、必要だ。幼いものは、冬に強い。
◇
森の獣道で、“滑る道”は静かに仕事を始めた。紅月の移動中継は小分けにした荷を背負い、獣道に体を寄せて進む。先頭の男が足を置く。置いた足が、思い出した場所より半歩だけ手前だ。小枝が沈み、踵が流れ、体が僅かに捻じれる。背の荷が遅れて揺れる。揺れは後ろへ伝わる。二番目が足を広げ、三番目が手を伸ばし、四番目が尻餅をつく。馬が鼻を鳴らし、滑って膝を折る。袋が落ち、ほどけ、粟が雪に散る。拾う手が冷えて、指の感覚が遅れる。遅れは怒りを呼び、怒りは焦りを呼び、焦りはまた足を誤らせる。
誰も死なない。だが、列は動かない。動かない時間は、刃より深く体力を削る。
楓麟は遠巻きにそれを見、風の向きがわずかに変わったときにだけ位置をずらした。藍珠は肩の痛みを数え、痛みが十分に温まってから短い突入を繰り返し、離れた。追い込むのではない。返すだけだ。彼らが自分の重さで沈むまで。
密偵の若いふたりは、治療のために谷の小屋へ下げられた。腹を射られた者は熱が出たが、傷口は浅い。足を射られた者は、矢が貫通していて処置が早かった。藍珠は彼らの額に布を載せ、火のそばに寝かせた。
「生きろ」
誰にも聞こえない声で言って、外へ出た。夜は降りてきており、雪は焚き火の光の縁でだけ銀に光った。
◇
紅月の本陣。薄い幕の内で、若い将が地図を叩いた。叩く音は、怒りの高さを持っている。
「白風は戦わずして止める。ならば、止められぬうちに、雪が固まる前に、一気に押す。――白樺の坂、強行突破。谷は工隊で埋め、“祠”は捨て、森を抜けて平原へ」
古参が「兵の腹が」と口にする。若い将は遮った。「腹は押せば黙る。押さねば、勝てぬ」
幕の外で風が鳴った。鳴るといっても、誰の耳にも聞こえない高さで。雪が固くなるのは、夜より朝だ。彼の決断は、朝を待たない。待てば、白風の“ずらし”がまた一枚、上に重なる。
――その決断が、次の“逆襲”の火種になる。
◇
夜半、山小屋。藍珠は包帯の上から外套を引き寄せ、背を壁につけた。眠らない。眠らなければ、痛みは目を覚まさないわけではない。けれど、眠らない痛みは、会話の相手になってくれることがある。
彼は短く、誰にも聞こえない声で、遥の名を呼んだ。呼んでから、自分で笑った。
「王は、怖いと言いながら前に出る。なら俺は、痛いと言いながら前に出る」
楓麟は火を見て、頷いた。「明日の風は、南東から少しだけ。坂の薄氷は、右寄りにずらすのがいい」
「肩は?」
「折れてはいない。切れただけだ。……生きてる」
焚き火の火は小さくなり、灰の中に赤い点がいくつも沈む。灰は温かい。温かい灰を手のひらで掬うと、指紋の線が浮き上がる。線は、ときどき傷で途切れる。途切れたところから、また線は続く。生きている限り、線は続けられる。
◇
都の夜明け。城壁の上で、狼煙番の若者が空を見上げた。雲は低く、白い息は出ない。遠く、北東の方角へ、短い煙が一本、ついで、もう一本。間を置いて、長い一本。
「楓麟の線だ」
遥は頷いた。
「坂、谷、森。……来る」
彼は倉の前で足を止め、炊き出しの列に目をやった。誰かが咳をし、誰かが笑い、誰かが匙で鍋の縁を叩く。音は低い。低い音は、冬を渡る。紙の端に、彼は印をつけた。今日、配る。明日、読む。明後日、決める。決めるとき、怖いと言う。言って、出る。
遠い山で、雪が固くなりはじめる。紅月の若い将の命で、白樺の坂に足がかかる。薄氷は右へずらされ、狼笛は半音下がり、樹皮の滑りは朝の湿りで増す。
白と灰、風と矢、鍋と札。
戦は刃だけのものではなく、遅いが深い、白の戦いを続けている。
白い伏兵はもういない。だが、白そのものが伏兵だ。
雪は降り足し、道を隠し、また新しい道を作る。
その道の名を、誰が先につけるか。
名をつけるものが、冬を渡る。
鈴は鳴らさない高さで、朝を越えた。
白風の旗は凍り、形だけが震えた。
震えは、恐れではない。
生きている印だ。
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