第12話


「次って古典だっけ?」

「そそ。これで全科目初回授業を終えたから、7限は教科員決めになるみたい」


(早いような、遅いような……入学式が昨日のように感じる)


 聞こえてきた、クラスメイトたちに会話から、裕斗は入学から1週間が経過したことを実感した。


 春はもう旬を過ぎ、季節はゆるやかに晩春の気配へと移ろい始めていた。

 咲き誇っていた桜はすでにほとんど花を落とし、校庭の片隅にかたまりとなって集められた花びらが、色を失ったまま風に揺れていた。


 古典の授業前ということもあり、教室は大いに盛り上がっていたが、教科書の準備を済ませた裕斗は、そそくさと席に着きながら何気なく隣の校舎を眺めていた。


 気兼ねなく外の景色を眺められることは、窓側の席に座る生徒だけに許されたひとつの特権。

 暇で特にすることがない時間は、決まって窓越しに外の景色を眺めている。


 4階からの景色は思いのほか悪くない。校舎全体が見えるだけでなく、広大な空も拝むことができる。


 裕斗が教室に視線を戻した辺りで、授業開始のチャイムが鳴り、扉が開いた。

 1年D組に古典の担当教員であり、裕斗たちのクラスの副担任でもある小林香織が入ってきた。誰もが彼女に強い視線を送り、見とれる。


「では、はじめましょうか」


 入学式から、既に1週間が経ったが、日を追うごとに香織がこの高校の中で、どのような立ち位置でどのような存在なのかが、裕斗の中で見えてきた。


 近づく気なんてそもそもなかったが、近づける存在ではなかった。

 香織が校内を歩けば、誰かしらが香織の傍にやってきて、その人数は自然と増えていく。それこそ、アイドルと熱烈なオタクの関係に似ているのかもしれない。


 教員側もそのことを考慮してか、授業以外では香織は滅多に校内に姿を現さない。

 朝・放課後のホームルームにも来たことは一度しかない。だから、副担任といえど、姿を目にするのは久しぶりだった。


「今日は初回の授業なので、軽く授業の説明と、勉強方法について少し話して終わりにします」


 そう言って、香織は静かに話し始めた。

 前に立つその姿は、どこまでも落ち着いていて、話し方に無駄な抑揚はなかった。

 けれど、だからこそ、言葉の一つひとつが教室の空気に静かに染み込んでいく。


「……今の所は『大鏡』や『蜻蛉日記』を取り扱う予定ですが、変更される可能性もあるので、そのときは、授業でお知らせします」


 香織の話に耳を傾けている生徒は、数人ほどしか見受けられない。

 皆、それぞれ教科書を開いたふりをしながら、意識の大半を前に立つ香織へと向けていた。内容はろくに頭に入っていない。

 なかには教科書すら開かず、綺麗に背筋を伸ばして強い視線で存在を誇示しつづける生徒も見受けられる。


 それでも、授業は淡々と進んでいく。


 香織の美しさは本能に訴えかける。

 裕斗もまた、香織から目を離せずにいた。


「じゃあ今日はここまで。これから1年間、よろしくね。……号令お願いします」


 声のトーンも話す速度も変わることなく、香織は最後まで穏やかに語り切り、授業が終わると、誰とも目を合わせることなく足早に教室をあとにした。


 その背中が見えなくなるのと入れ替わるように、教室のあちこちで香織の名前が飛び交い始めた。


「やべーー!!」


 一貫された香織が淡々とした態度が、むしろ授業後の余韻をより強いものとした。


「古典だけは頑張ろう」

「当然だろ」

「こんなに何かを頑張りたいって思ったの、初めてだ」

「……俺の、生きる理由」


 裕斗がロッカーに古典の教科書を戻していると、すぐ近くから男たちの声が聞こえてきた。


 この授業を通して、裕斗は改めて香織との出会いの意味の深さを実感した。


 どんな辛いことがあっても、香織の姿を目にすればなんとか精神を保つことができる。

 もう一度頑張ることができる、そう思わせる存在だ。まさに、最後の避難所。


 そんな出会いに恵まれただけでも、裕斗はこの上総という土地に越してきたことに大きな意義を感じることができた。



 その日の7限。

 予定通り教科員を決める時間が設けられた。


 教科員とは、それぞれの教科担当の先生を手伝う係で、配布物を配ったり、提出物を集めて職員室へ届けたりと、こまごまとした仕事を担う。


 前日、同じ時間に行われたクラス目標の決定と係分担と同様、今日も学級委員が中心となって進行することになっていた。


 誰もがわかっていたことだが、古典以外の教科員は競争が起こることなく、スムーズに決まっていった。


「世界史の教科員、2人。誰かやりたい人いますか?」


 教室はひときわ静まり返った。


 担当の教員が厳しいことで有名な世界史、誰ひとりとして手を挙げない。


 少しの間をおいて、裕斗は静かに手を上げた。

 厳しい教員とはいえ、やるべきことをこなせば文句は言われないだろうし、無駄な気疲れをする争いよりは、よほどましに思えた。


 当然、裕斗はその場で教科員に決定した。


「あと1人、誰かいませんか?」

 

 再び教室が静まりかえる中、ひとりの女子生徒が手を挙げた。


「私やりたいです」


 斜め後ろの席から聞こえてきた声に、裕斗は思わず振り返る。

 彼女が立候補したことで、教室に小さなどよめきが広がる。みなが一斉に彼女に視線を注ぐ。


(なんでこうなった……。この人とは関わりたくなかった)

 

 杉原真由。平和を乱す存在。

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