第8話


 まだ校内の案内すら受けていなかった裕斗は、とにかく国語科準備室を探すしかなかった。


 入学式は新入生だけで行われたので、2年生や3年生の姿はなく、校舎はどこもかしこもひどく静まり返っていた。窓から差し込む午後の光が廊下に帯のような影を落とし、遠くで木々のざわめきがかすかに響く。

 その静けさのおかげで、探す足取りは少し軽かった。


「……ここか」


 ようやく見つけた準備室の扉には、一枚の紙が貼られていた。


「ただいま担当教員不在。14時30分頃には誰かしらが来ますので、それまでお待ちください」


 腕時計に目を落とすと、針は14時25分を指している。あと少しで誰かが来る。


 そう思って廊下に立っていると、背後からコツ、コツ、と軽快な足音が近づいてきた。一定のリズムを刻むその音を――裕斗は知っていた。忘れられるはずがない。


「あの日、私が言った言葉の意味、わかった?」


 振り返った瞬間、視界に飛び込んできたのは、やっぱり――あの日、自分を救ってくれた才色兼備の女性。


「はい」

「話したいことがたくさんあるの。一度、中に入りましょう」


 香織は迷うことなく扉のノブを回し、軽い音を立てて開けた。

 貼り紙にあった「14時30分」を「15時」と書き換え、室内に入る。

 室内の灯りは点けないまま、鍵をロックする。


 薄暗い空間の中、ブラインドの隙間から差す光が床に淡い縞模様を描き、ほこりがゆっくりと舞っていた。香織はそのまま歩みを進め、近くの椅子を指さした。


「色々と、大丈夫なんですか?」

「問題ないわ。生徒も少ないし、私の行動を正確に追ってる教員なんていないもの。

それより――私はあなたと話したいの」


 差し出された紙コップには淹れたてのコーヒー。白い湯気がゆらゆらと立ちのぼり、苦みのある香りが薄暗い室内を満たす。


「まずは、久しぶりね、林田くん」

「お久しぶりです。……小林先生」


 はっきりと引かれた一本の線。

 その意味を裕斗は理解していて、自然に受け止めた。


「今後は、どんなときでも“小林先生”と“林田くん”。関係はこれで固定」

「わかりました」

「ところで――その顔。すごく凝ってるけど、どういうつもり?」


 香織は眉を寄せ、椅子に腰を下ろしながら、まるで異星人を観察するみたいに視線を正面から横顔へとすべらせた。


「よくもここまで……」

「見逃してくれませんか?」

「いいわよ」

「……え?」


 あまりにあっさり認められて、裕斗は一瞬拍子抜けする。


「林田くんのバックグラウンドは大体把握してるし、そうなるのも理解できる。

初めて会ったとき15歳って聞いて、本当に驚いたんだから。

あんな整った顔の15歳、見たことなかった。――間違いなくこの学年一のイケメンよ。もっと自信持ちなさい。……あ、ごめん。見た目を悪くするためにメイクしてる子に言うセリフじゃなかったわね」


 軽く笑う声は、肩の力が抜けたように自然体だった。


「元々色白だったのに、どうやって肌を暗く見せてるの?」

「隣人が芸能関係の人と知り合いで、舞台メイク用のクリームを特注してもらいました」

「へえ、メイクは誰かにしてもらったの?」

「自分でやりました。幼い頃から母にメイクを教わっていて、中学の頃には母のメイクも髪も全部やってました」

「なるほど。……見た目はすっかり別人だけど、頬も首も、ちゃんと肉がついてて安心した」

「隣人の方が色々と面倒を見てくれていて」

「へえ、そうなのね」


 香織は興味深そうに口角を上げる。


「資料には“対人恐怖症”ってあったけど、その方は悪化してるみたいね」

「どうしてそれを?」

「私を甘くみないで。バレないように観察するくらい、教員なら簡単よ」


 全く気づかれていないと思っていた。――やっぱりこの人は違う。


「……ところで、資料の不備って?」


 触れられたくない話題だったから、裕斗はすぐに話を切り替える。

 香織は気づいていながら、表情を変えずに続けた。


「不備なんてなかったわ。むしろ完璧。

作った人の性格が、いやってほど滲み出てた」

「皮肉ですか?」

「ちょっとだけ」


 口元がゆるみ、柔らかな笑みが浮かぶ。頬の影が和らぎ、視線に光が宿った。


 その変化を目の当たりにして、裕斗の胸はわずかにざわつく。さっきまで教室で見た無表情が、こんなに簡単に崩れるなんて。誰もが見たいと願う香織の笑顔を、自分だけが独占しているような、不思議な感覚だった。


「林田くんが何を考えているかはわからない。

でも、私はあなたを信用してる。だから、こうして2人きりで会ってるの。あの日の出来事は、私にも強い影響を与えた。副担任になったのも、きっと縁。

数年教員をやってきて、特定の誰かを“教え子”と思ったことはなかった。だけど――林田裕斗。あなたは私の初めての教え子にするって決めたの。だから覚悟して。私が大人にしてあげる」


 香織は手を伸ばし、そっと裕斗の手を包み込む。

 指先は温かく、触れた瞬間、空気がぴんと張り詰めた。


 あの時の感覚は……蘇らない。

 どうしてか、蘇らない。


 それでも呼吸は乱れ、体は硬直する。


「こういうシチュエーションになったら……どうするべきか、わかる?」


 甘い声が透きとおって、首をかしげながら距離を詰めてくる。香りと気配が一気に近づき、視線が絡まった。


「――あなたが思う正解を、やってみせて」



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