第7話
「新入生の方は速やかに受付を済ますよう、お願いします」
体育館の入口に、マイクを通した声が反響する。
裕斗が会場へ足を踏み入れると、熱気を含んだ空気と人が渦を巻いて押し寄せてきた。
保護者と一緒に歩く人もいれば、ひとりで所在なげに立ち尽くす人もいる。
誰もが知り合いを探すみたいに、落ち着かない視線を会場の隅々へ走らせていた。
だいぶくらう。
この1ヶ月、大勢の中に身を置いたことなんてなかったし、式典に出るのも久しぶりだった。
中学の卒業式は体調を崩して出られなかったのだから、なおさらだ。
裕斗は顔色を悪くしながらも、人の肩に触れそうな人波をかき分け、机に並んだ名簿へ手を伸ばす。
受け取った紙を胸に抱きしめ、視線を逸らすように受付を終えると、指定された席に腰を下ろした。
座面の冷たさが、ほんの一瞬だけ心を落ち着けてくれる。
式が始まるまでには、まだ少し時間がある。
裕斗は高い天井を見上げ、蛍光灯の白い光を目に映しながら、ぼんやりと考えを巡らせた。
上総には私立も公立も、多くの高校がある。ここはその中でも進学校のひとつ。
けれど、この学校を選んだ理由は、正直あいまいだった。
「決められないなら、俺の通ってた高校にでも行け」
父のひと言に従っただけ。
今思えば、選択肢の多さから、ただ逃げたかったのかもしれない。
あのときは、父に反抗する気力すら残っていなかった。
母の入院。恋人の浮気現場での遭遇。
もともと不安定だった心を壊すには、十分すぎる出来事だった。
ここまで回復したのは、ほんとうに奇跡のようだ。
「……すいません」
裕斗は俯き気味だった顔を、はっと上げる。
目の前に女子生徒が立っていた。
「そこ、私の席じゃないですか?」
「えっと……多分、自分の席で合ってると思います」
慌てて椅子の番号を何度も確認する。やっぱり間違いなく自分の席だった。
女子生徒は小首をかしげて前髪を揺らすと、小さく笑ってから前の列へ移動する。
「ごめんなさい。1列前でした」
軽い声色には、悪びれる様子なんてまったくない。
彼女はすぐに裕斗の1列前へ腰を下ろした。
何が起きたのか、裕斗自身もよくわからない。
与えられた番号がある以上、そう間違えるものではないはずなのに……。
やがて、その周囲に次々と人が集まり始めた。
(そういえば、けっこう顔が整ってたか……?)
たまたまコンタクトをつけ忘れてしまった裕斗の視界では、輪郭こそ掴めても細部は曖昧だった。
「杉原さん、久しぶりだね」
「真由ちゃん、インスタ交換しない?」
次々と声をかけられ、席の周りには人の影が絶えない。
裕斗からすれば、まるでアイドルとファンの光景にしか見えなかった。
平和を乱す存在。だが、自分から近づかなければ問題はない。そう結論づける。
「これより、令和X年、XX高等学校の入学式を挙行致します」
厳かな声がスピーカーから流れ、会場を包む。
裕斗は襲いかかる欠伸を噛み殺し、ただ早く終わることを願っていた。
やがて担任紹介の時間。
壇上にはA組からF組までの担任と副担任が並び、ひとりずつ挨拶をしていく。
そのあたりからだろうか。ざわめきが微かに広がり始めたのは。
「やば」
「可愛すぎ」
「……女優?」
周囲からこぼれる声に、裕斗も壇上へ視線を向ける。
照明を受けたひとりの女性が目に入り、心臓が跳ねた。
(まさか……)
鮮明には見えない。けれど、そのシルエットをどこかで知っていた。
こんな偶然が、本当にあるのだろうか。
「1年D組の副担任を努めさせていただくことになりました、小林香織です。担当科目は古典・漢文、場合によっては現代文を教えることもあります………」
あの日の記憶がよみがえる。握られた手の温もり。カフェで過ごした時間。
部屋に残されたコートとネックレス。別れ際に告げられた言葉――。
(別れ際に、香織さんが言っていたこと。
そういうことだったのか……それに、D組って……俺のクラス?)
*
「ということで、これから1年間よろしくお願いします」
入学式を終えたあと、教室でのホームルーム。
担任の隣に、副担任である香織の姿が並んでいる。
休憩の合間にコンタクトを装着した裕斗には、その顔立ちがはっきりと映る。
もう一生会うことはないと思っていた人と、こうして再会することになるとは。
裕斗の胸中は複雑だった。
気づいているのかどうかも分からないまま、ふたりの視線はまだ一度も交わらなかった。
「1年後、みながこのクラスでよかった! そう思って終われるよう、一丸となって素晴らしいクラスを作っていきましょう」
黒く焼けた肌に坊主頭が印象的な担任が、大きな声でそう告げる。
鍛え上げられた体つきと熱のこもった言葉が、裕斗には少し暑苦しく感じられた。
一方で隣の香織は、声援に混ざっても表情を変えず、淡々と立ち続けていた。
ホームルームが終わると、裕斗は荷物をまとめ、逃げるように教室を出ようとする。
距離を置きたかった。考える時間が欲しかった。
「あ!そうだ言い忘れてた。今から名前を呼ばれた人は、入学の際の手続き資料に不備があるので、各々、私が指定した教室に今から向かってください」
担任が次々と名前を読み上げていく。
(父さんのことだ、問題ないだろう)
資料などに対する、あの人の几帳面さだけは信用できる。
「ええと、あとは……林田裕斗・国語科準備室!」
「……はい」
思いもよらぬ名前を呼ばれ、小さな声で返事をして立ち上がる。
鞄の肩紐を握りしめ、裕斗は静かに教室を後にした。
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