第6話 入学式
引っ越してから、ちょうど1ヶ月ほどが過ぎ、ついに入学式の日を迎えた。
眠い。とにかく眠い。
鬱陶しいアラームを止めた裕斗は、ベッドの上でしばらく天井を見つめる。
「入学式……」
半年前、同じように天井を見つめていた自分は、正直なところ、この日を迎えられるなんて思ってもいなかった。
なんのプランも立てずに、ただ時間だけが過ぎていった結果、今ここにいる。
ぼんやりとした時間が流れる中、薄いカーテン越しに差し込む朝の光が、まだ冷たい空気の中に淡く広がる。
ようやく身体を起こし、重い足取りで床へと足を下ろす。
ささっとシャワーを浴びて、曇り気味の鏡の前でひと呼吸。
若干の緊張の中、練習してきた“学校用メイク”を手慣れた手つきで仕上げる。
指先で髪を軽く整え、制服に袖を通したら、一度全身鏡の前に立ち止まった。
「……こんなもんか」
小さく呟いて、鞄を肩にかける。中身はほとんど空っぽ。
これくらい自分の心も軽ければいいのに――なんて思いながらも、表情は以前より明るかった。
ピンポーン。
ひんやりした海風が頬に触れるなか、裕斗は隣の部屋のインターホンを押す。
――数十秒ほどして、金属音とともに扉が開いた。
春らしい淡いフルーティな香りをまとった橘結衣が、顔を出す。
「おはよう」
「おはようございます」
少し伸びた髪を後ろで括った結衣は、すっぴん。
その顔は驚くほど幼くて、どこか小動物を彷彿とさせる。
「入学式。あれからもう1ヶ月経ったんだね」
結衣は自分の肩を指さして、視線で「見て」と訴えてくる。
(この服は……)
オフショルのニットから白い肩がのぞいていた。――あの日と同じ服装。
艶やかで、柔らかそうにも見える肩を見て、あの日の甘い天国がふっと蘇る。
「顔に出てるぞ〜、思い出すな」
結衣は裕斗のおでこをペチッと叩く。
煩悩を払い除けるように、裕斗は何回か首を振って現実へ帰ってきた。
「デジャヴです。不可抗力が働きました」
「不可抗力を現象みたいに言うな。
それとも、もう一回寝てみる? その姿じゃ絶対寝かせないけど」
「遠慮しときます」
「おい!」
軽く拳を握った結衣が、裕斗の腕へ軽めのパンチを入れる。
その仕草が、すっぴんだと妙に可愛く見えて、裕斗は思わずドキッとしてしまう。
「ほら、ちょっとこっち寄って」
言われるままに、裕斗は一歩、二歩と距離を詰めた。
「これ、変じゃないですか?」
「変! 全然似合ってない!」
呆れた顔をしながらも、結衣は裕斗の髪や制服の襟を丁寧に整えていく。
される側の裕斗は、なんともくすぐったい気分だった。
こんなこと、してもらう機会なんてそうそうない。
「まあ、これくらいでいいんじゃない?
素で行ったら大変でしょ。メイクも問題なさそう。初めてって言うから心配してたけど、よかった」
昨日の夜――「明日、学校行く前に一度寄って」と、結衣から連絡が来ていた。
カシャッ、カシャッ。
結衣はスマホを取り出し、眉をひそめながら数枚シャッターを切る。
「ちょっと、撮るならもう少しマシな写真を……」
撮るならせめて素顔にしてほしい。
本人ですらそう思うくらいに、メイク(という名の変装)をした裕斗のビジュアルはひどかった。
「どうせ祝ってくれる人いないでしょ。夜は私の部屋で入学祝いのパーティーでもやろ」
「だいぶストレートですね」
「私以外に祝ってくれる人いる?」
「残念でもないですけど、いないです」
「じゃあ決まり」
結衣の言葉に、裕斗はどう反応していいかわからず、ぎこちなく笑った。
そんな簡単に決まるものなのか。
その笑みの奥に隠れた何かを、結衣は見逃さなかった。
「裕斗、写真撮ろ」
「……え」
ヤンキーを彷彿とさせる勢いで、裕斗の肩に手を回した結衣が、自分の方へと引き寄せる。
至近距離で息づかいと体温が触れ合う。――これは……心臓に悪い。
「裕斗の方が背高いんだから、裕斗が撮って。入学記念に一枚ね」
「だから、もう少しマシな姿でも……」
拒否権がないことを悟った裕斗は、言われるままにスマホを構え、シャッターを切った。
朝の光に照らされた二人の姿が、鮮やかに残る。
「それじゃあ、頑張って」
「行ってきます」
二人は軽くグータッチを交わすと、裕斗は駐輪場へ、結衣は自室へと足を向けた。
*
自転車を走らせながら、裕斗はこの1ヶ月を振り返る。
――良い意味で、生活を狂わされた。
初めて自宅のインターホンが鳴ったのは、越してきた翌日。
ドアを開けると、どこか不機嫌そうな結衣が立っていた。
「これ、買いすぎて冷蔵庫入らなかった」
袋いっぱいに詰まった食料を押し付け、そのまま逃げるように自室へ戻っていった。
それは、今も続いている。時々やってきては、押しつけて帰る。
「ちょっと欲張りすぎて、全部食べられなそうだから、うち来て一緒に食べて」
一週間も経たないうちに、結衣の部屋に呼ばれるようにもなった。
信用がないのか、毎日必ず生存確認のメッセージはマスト。
「行くよ」――夜のランニングに付き合わされ、
「やるよ」――筋トレまで強制される。
気がつけば、完全に振り回される日々。
それでも、裕斗は一度でも拒むことはなかった。
結衣が相手だから。
結衣ほど魅力的な女性を前にして、拒めるほど裕斗は大人じゃなかった。
それに、少しでも悩む素振りを見せると、結衣はわかりやすく不機嫌になったり、睨んできたりする。
美女のそれは、もはや反則行為。
裕斗は完全に結衣の思うがままだ。
結衣は最初こそ態度も言葉も素っ気なかったが、「気を許した人には甘くなる」とのことで、あっという間に言葉も態度も雰囲気も甘くなった。
変わったのは結衣との関係だけでなく、裕斗の心身状態もだいぶ良くなった。
眠れない夜は減り、体にも少しだけ肉がついた。
更に結衣は、裕斗からメイクの相談を受けると、市場では見かけない舞台用の特殊なクリームまで用意した。
裕斗は今までの間で、少なくとも100回以上は考えていることがある。
「どうして、ここまでしてくれる??」
裕斗がいくら理由を聞こうと、結衣は絶対に答えてくれない。「しつこい」が結衣の地雷だとわかっているから、裕斗も深くは聞けなかった。
それでも、彼女に救われた事実。
その感謝を胸に刻みながら、裕斗は今日を生きている。
こんなにも恵まれた状況で高校生活を始められるなんて。
抱負はただひとつ――平和。
誰とも深く関わらず、トラブルとは無縁。
ただ静かで穏やかな日々を送りたい。
裕斗は心からそう願っていた。
――だが、その願いは入学式の朝からあっさり裏切られることになる。
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