第5話 香織と裕斗 3
10分ほど歩くと、小さなカフェにたどり着いた。外観はモダンというより、どこか昭和の雰囲気を残す古びた喫茶店といった感じだった。
喫茶店に行ったことのなかった裕斗は、それだけでも軽く口を開かせ、こと細かく観察していた。
「裕斗くんって、アーティスティックな雰囲気あるよね。関心があったりするの?」
「あまり考えたことはないです。ただ、周りに人がいなかったら細かく見ちゃうってるかもしれないです」
「周りに人がいないなら、私の顔をこと細かく見てもいいのよ??」
わざとらしく声を変えて首を傾げる香織。
わざとだとわかっていても、裕斗は体から力が抜けていきそうになる。
「そういうのは、……ダメです」
「ふふ。ごめんなさい」
中に入ると、客の姿はなかった。
落ち着いたジャズが小さく流れ、磨かれた木のテーブルが規則正しく並んでいる。外観だけでなく、内装にも強いこだわりが感じられる空間を、裕斗は一目で気に入った。
香織が店員に軽く声を掛けると、すぐに入口の札が静かに「close」に返された。
「この店。実は私がオーナーをしてるの」
「ええ」
「っていっても、本業は別にあるから、働くことはないし、やることっていえば、時々来て、経営面に関してああだこうだ店長と話し合うくらいなんだけど」
「香織さん、一体何者ですか?」
「得体が知れないって感じの顔してるけど、私からすれば裕斗くんの方が何者って感じがするけど」
裕斗は自己評価が低く、自分を大したものではないと思う節があるが、本人が思っている以上に、そのポテンシャルは並外れていた。
「じゃあ、店の外観とか内装を決めたのは……」
「私であって欲しいって顔してる」
「そんな顔はしてない……と思います」
(お隣さんと似て、この人の考えを見透かす人だ)
裕斗は、自分のわかりやすさについては、無自覚であった。
「ごめんなさい、勝手に注文しちゃったけど……コーヒー、大丈夫?」
「はい。毎日飲んでます」
「やっぱり。毎日飲んでそうな顔してる」
「初めて言われました」
「わかる人にはわかるの。とりあえず飲みましょ」
やがて、黒々と湯気を立てるカップが運ばれてきた。
香織はまず深く香りを吸い込み、それからそっと唇を寄せる。
香織は飲み始めてからの数分間を、コーヒーのためだけに捧げるのをルーティンとしていて、そのまま自分の世界へ入っていった。
一連の動きを目の前で見た裕斗だったが、特に口出しをすることなく、ぼんやりと見ていた。
そして思わず息を吐く。香織からの視線もなくなり、ようやく自分のひとりの時間ができる。店内に流れるジャズのリズムと、コーヒーの温もり。緊張で固くなっていた呼吸が、少しずつほぐれていった。
(外観、内装、使われているひとつひとつの器具に至るまで、芸術色が強いけど、一番の芸術は……)
視線を店内に向けても、結局最後に行き着くのは目の前の女性。
明るい場所で改めて見る香織の顔は、まるで芸術品だった。逆三角形の輪郭は鋭すぎず、アーモンド型の瞳は光を受けて艶やかに揺れる。通った鼻筋、形の整った唇。
ここまで黄金比に近い顔を見るのは、15年の人生で初めてだった。
「でも引っ越して来た日に死にかけるなんて、数奇な運命ね」
そう言いながら、香織はカップをソーサーに静かに戻した。
「呪われてるのかもしれないです」
「……その発想、否定できないかも。でもね、きっとあなたはこれから良くも悪くもたくさんの出会いを経験するはず。その先で判断しても遅くないと思うの」
「経験、ですか」
「あまり深く考えなくてもいいの。普通に学校に通ってれば、自然とそうなるから」
香織の声には、不思議なほど強い確信がこもっていた。
「複雑な家庭環境なのはよくわかったけど、だからこそ、ここならまたやり直せるんじゃない?」
「何度もそう思ったんですけど、でも……」
「もちろん不安なのはわかる。でも、リセットしなきゃ何も始まらないでしょ」
正論だった。けれど。
「一体、どうやってリセットしたらいいんですか?」
裕斗の言葉には、思わず鋭さがにじんだ。香織はその表情を、若さを懐かしむように、そして裕斗の運命を憐れむように見た。
「お客様、そろそろ閉店のお時間です」
店員の声に、香織は軽く頷いた。
「わかりました。……行きましょう」
一番聞きたかったことを聞けないまま、時間は来てしまった。
曇りがちな表情を浮かべた裕斗は、ポケットから財布を取り出して、ぽつりと呟く。
「あの、お金は」
「大丈夫。もう払ってあるから。私が誘ったんだもの、払うのは当然よ。それに年下に奢る経験もしてみたかったし」
「……ありがとうございます」
「少し店長と話すから、先に出てて」
促されて先に外へ出た裕斗は、夜空を仰ぐ。
先程までの時間と過去の時間を同時に思い出す。
「これもこれで俺らしいか……」
どこか物足りなさを残す終わり方だった。一番聞きたかった答えを聞けず終わってしまった。
けれど、これまでも人生はそうやって続いてきた。
夜空から地面に顔を移した裕斗は思う、
――やっぱり自分とあの人たちは、違う世界を生きている。
香織にしても、お隣さんにしても、今日が最初で最後の関わりになるのだろう。
理性的に考えれば、それは当然のことだ。
自分なんかとはまるでレベルが違う。住む世界も、見えてる世界も。けれど同時に、もう少しだけ一緒にいたいとも思ってしまう。
「お待たせ」
やがて香織が店から姿を現した。
ヒールの音を軽く響かせながら、ふいに問いかけてくる。
「この近くで一人暮らしなら、通う高校も近いの?」
「はい、XX高校です」
「……そう」
その瞬間、香織の声色がわずかに変わる。
艶やかな笑みが浮かべ、何回か裕斗の肩をぽんぽんっと手を当てるも、そこで何かに気づいた。
「っていうか、その薄着は見てられないわね」
裕斗は東京の感覚で外に出たため、目に見てわかるほどの薄着だった。
香織は自分のコートを脱ぎ、迷いなく裕斗に差し出す。
「いや、自分は大丈夫なんで香織さんが着てください」
「いいから、着るの」
その口調に裕斗の拒否権は用意されていなかった。促され、裕斗は申し訳なさそうに袖に手を通す。
コートを脱いだ香織の身体には、レースのトップスが浮かび上がっていた。肩から腕にかけてのラインが透け、細く艶やかな体すらも見えてしまう。
悪魔的な美しさに、裕斗は思わず目を背ける。なんとか平静を装う裕斗を、香織はピュアだなと微笑ましげに見つめ、間を置いて言葉をかけた。
「そのコート、メンズもレディースも着れるんだけど、まだあなたには不釣り合いね。でもその方がいいのかも。そのコートが似合う男になりなさい。そして、似合うようになったら返しに来て。それまでは貸しておくから
あ、このネックレスも。これは……返さなくていいから。あげる」
香織は一方的に裕斗と約束を交わした。
その意味を裕斗が正確に理解する時間すら与えず、香織は自ら裕斗の首にネックレスをかけた。
さきほどまで香織が身につけていたものが、ひんやりとした鎖ごと裕斗の首に触れる。ネックレスを付けたことは何回かあったが、そのどのネックレスとも、このネックレスは何かが違った。
「もう一度言うね。そのコートとネックレスに釣り合った男になること」
「でも、どうやって?」
裕斗の口から出たのは単純な疑問だった。
どうやって釣り合える男になるのか。どうやって返すのか。
「大丈夫。また会えるから」
そう告げると、香織は返事を待たず夜道を歩き出した。
裕斗は何か言おうとするも、声にはならなかった。香織のその圧倒的なオーラに、街ゆく人たちが皆魅了される。そんな姿を見てしまっては……
その後ろ姿を、ただ見つめるしかなかった。
(……この世界にはあんな人が実在するんだな)
裕斗も歩き出そうとしたときだった。
香織はふいに足を止め、思い出したように振り返ると、まだその場にいま裕斗の元へと向かう。
今の今まで自分が身に着けていたコートとネックレスを、裕斗が纏っている。歩きながらも、自分が裕斗にしたことを自分でも驚く。
こちらに向かってくる香織に、裕斗は当然その場に留まっていた。
「さっき言ってた、リセットの方法だけど、私と会ったことがリセットになるんじゃない?」
「え…それは…」
言葉を遮るように、香織は裕斗をそっと優しく抱きしめた。
「あ…あの」
「うるさい。黙って」
「……」
それは数分間にも及ぶ長さで、ただひたすら抱きしめ続けた。その日、月が新月を迎えるように、裕斗にも新しい生活が始まることを、香織は祈った。
最初の方こそ、状況を飲み込めずテンパっていたが、次第に香織に身を委ねた。何も考えずに、ただ香織の温もりの中で、数分の幸福を味わう。
やがて、香織は体を離すと、
「大丈夫。また会えるから。あ、でもどうしても辛くなったらこのカフェに来て。最後の避難所だと思って。来たら、私に繋がるようにしておいたから」
そう微笑んで、今度こそ夜の闇に消えていった。
呆然としながらも、裕斗はその言葉の意味を理解できないまま立ち尽くす。
だが、この言葉の意味を知るのは、そう遠くない未来のことだった。
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