第9話
香織は、一瞬たりとも裕斗から目を離さなかった。
この状況。
たぶん、やるべきことはひとつ。
縮まった距離を埋める。接吻。――でも、そんなの、できるわけない。
古びた蛍光灯の白がまだらに揺れ、壁掛け時計の秒針がコツコツと音を立てていた。
「……」
――女性のことは、決して待たせるな。特に立場が上の相手には。
母の言葉が脳裏をよぎる。
時間がない。これ以上は待たせられない。
――もう、どうにでもなれ。
「いつかメイクしたみたいです」
「は?」
裕斗が観念したように、無意識で口をついた言葉がそれだった。
香織も、そして裕斗自身も拍子抜けする。
「あの、…その、こんな整った顔にメイクするのって、どんな感覚になるんだろうと思って……」
「なにそれ?!」
香織は一歩だけ下がって、ぱん、と軽く手を叩いた。
肩の力が抜けたように口元に笑みを浮かべる。その姿を見て、裕斗の体からも緊張がほどけていく。
「合格! 初めて会ったときから思ってたけど、独特よね、感性が。そこが気に入ってる点でもあるんだけど」
「これ、なんの試験ですか?」
「さあ、なんだろうね。
でも理性を失わなかったし、貞操観念も狂ってないことがわかってよかった」
「明らかにうさんくさかったです」
「でも、ドキドキしてたよね」
はぁ〜。思わずため息がこぼれる。
裕斗は机の端に置かれた紙コップを手に取った。
コーヒーの湯気はもうほとんど消えていて、ぬるさで口を潤す。
香織の一連の行動で、彼女が望む関係のとり方が、なんとなく見えてきた。
そして、どこかほっとする。
これくらいの距離感が合ってる――
そう思えたからか、自然体で接しても大丈夫だと思えた。
あの日、自分が感じた香織さんの切実さ。
今の香織さんには、その面影すら見えなかった。
「で、具体的な評価は?」
「半分正解で半分不正解って感じかな。
林田くんは、あまり経験がないってのはわかった」
「んな?!」
思わず声が漏れる。
「図星でしょ。反応を逐一見てたらわかるの。
でも、きっとそういう経験をするチャンスはたくさんあった。だけど逃してきた」
「教え子を解剖して楽しんでます?」
「うん」
純粋に楽しそうに、目尻が柔らかく下がる。
その無邪気な笑みに、つられるように裕斗の頬も少しゆるんだ。
「そうだ。連絡先、あの時はまた会うことがわかってたから交換してなかったけど、 今のうちに交換しておきましょう」
言われるままにスマホを取り出し、ふたりでLINEを交換する。
画面の緑色の光が、薄闇の中で静かに浮かんだ。
「私はビジネス用とプライベート用で分けてるけど、これはプライベート用だから。なんかあったら連絡して」
「わかりました」
「あと、それから時々個人的にやってもらいたいこと、連絡するから。引き受けてくれると嬉しいな」
「……できる限り引き受けます」
この“個人的にやってもらいたいこと”で、裕斗自身が少しずつ変わっていくなんて――
今の段階では、夢にも思っていなかった。
「ところで、隣人の人って女性でしょ?
それも、どこかしら異常な人」
「探偵でも雇ってるんですか?」
もう、抗うことは諦めた。
何をしても見透かされるなら、正直に答えるしかない。
「美人?」
「ええ」
「そうでしょね。林田くんくらい心を閉ざした人を、こんなにも変化させられる人って、どこかぶっ飛んでる人じゃなきゃ無理だからね」
「…はぁ」
「前にカフェでも言ったけど、わかる人にはわかるの。
あなたが抱えてるものが、どれだけのものか。隣人さんも気づいたから、管理人になってくれてるんじゃない?」
「管理人って言い方……」
「まあ、あなたの顔あってのことだろうけど。
でも、きっとこの学校にもいるはず。変装してても、あなたから何かを感じ取って、コンタクトを取ってくる人がね!」
「さすがにそれは……」
香織以外の人に言われたら完全に否定できる内容も、香織に言われるとそうとも言い切れなかった。
だけど、それでも裕斗は信じきれなかった。
「あなたの資料から顔写真は全て消しておく。
今後、昔の写真は誰にも見れないように私が上手くやっとくから、心配しないで」
「よろしくお願いします」
いくつか会話を交わしたあと、裕斗は準備室を後にした。
不思議だ。
たった2回しか会っていないのに、心を開いている。
そんなこと、今までなかった。
小林先生がいてくれれば、高校生活が少しは色づくかもしれない。
そんな期待が、胸の奥で静かに灯る。
合格って言われたから、大丈夫なんだろうけど――
何を考えてるのか、やっぱりわからない。ほんと、不思議な人だ。
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