第三十三話『ヴォルガの「罠」』

 張り詰めた空気。 コウスケが提示した「諸刃の剣」――この区画全体の崩落という、最悪の『共倒れ』の可能性。 ヴォルガは、コウスケの目がハッタリではないこと、そして、目の前の男が、自分と同じか、それ以上に、この橋の構造を『理解』していることを悟った。


 ヴォルガの顔に浮かんでいた冷酷な余裕が、初めて、不快な苛立ちへと変わる。 やがて彼は、その苛立ちを隠すかのように、わざとらしく両手を広げてみせた。


「…ハッ。面白い。実におもしろい『ブラフ』だ。今日のところは、お前の『ハッタリ』に乗ってやる」ヴォルガは、部下たちに顎で合図を送った。


「今日は『現場調査』が長引いちまった。お前たち、一旦、引き上げだ」

 

 彼は、コウスケの『プロジェクト』という言葉を、あえて『現場調査』と、自らの言葉に言い換えてみせる。


 そして、ヴォルガは、隠し通路から撤退する直前、この場で最も屈辱に震えている男――レオを、嘲るように見据えた。


「残念だったな、脳筋ネズミ。お前のその自慢の『力』、披露する『出番』はなさそうだ」

「テメエ…!」

「せいぜい、その賢い『リーダー様』の後ろで、計算でも習ってな」 その言葉を残し、ヴォルガは部下たちと共に、まるでこの橋(アエリア)に溶け込むかのように、メンテナンス用の隠し通路の闇へと、姿を消した。


 嵐が、去った。 いや、嵐の中心が、移動しただけだった。


「…………」


  張り詰めていた緊張の糸が切れ、集落のあちこちで、「橋の民」がへたり込む音がする。


「待て、コラァァァ! 逃げんのか、テメエ!」 怒りのやり場を失ったレオが、ヴォルガが消えた通路に向かって吠えた。彼は、アドレナリンで小刻みに震えている。

「なんでだよ、コウスケ! なんで止めやがった!」 レオは、コウスケに掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。

「あそこでギムレットさんに命令すりゃ、あいつら空賊ども、全員、あのトカゲと同じ場所に叩き落とせたじゃねえか!」


「馬鹿を言え」 コウスケは、全身を襲う疲労感と、まだ残る冷や汗を拭いながら、冷静に答えた。

「本気で言ってるのか? あそこでアンカーブロックを破壊したら、どうなるか、わからなかったのか?」

「どうなるって…」

「この床(フロア)ごと崩落するんだ。俺たちも、クララも、ギムレットさんも、そして…」 コウスケは、震える長老たちを示した。

「俺たちの『クライアント』も、全員だ。あれは『脅し』だ。こっちも、お前と同じ『切り札(カード)』を持ってるぞ、と見せるためだけのな」


「うるせえ!」 レオは、その正論を、感情で拒絶した。

「ごちゃごちゃ『理屈』ばっか並べやがって! あいつらは、この人たちを苦しめてる空賊だろ! ぶっ飛ばせば、それで終わりだ!」


「待て、レオ!」 コウスケの制止が飛ぶ。

「だから、ここは敵のホームだと言っただろ! 奴らは、この橋の構造を知り尽くしている! 迂闊(うかつ)に追えば、罠だらけだ!」


「知るかよ!」 レオの堪忍袋の緒が、切れた。

「罠があるなら、その『罠』ごと、俺がぶっ飛ばしてくる!」


「あっ、こいつ…!」

 ギムレットの制止も聞かず、レオはヴォルガが消えた隠し通路の闇へと、単独で突撃した。コウスケの知性を、完全に無視した、単独行動だった。


「レオ! 戻れ!」


 コウスケは、最悪の事態を予期し、クララとギムレットと共に、慌てて彼の後を追った。 隠し通路は、すぐに、別のメインストリートへと繋がっていた。ヴォルガの部下らしい、数人の空賊が、わざとらしくゆっくりと逃げていくのが見える。


「見つけたぞ、ヴォルガの雑魚ども!」 レオは、獲物を見つけた獣のように、さらに加速する。


 そこは、一見、何の変哲もない、広い石畳の通路だった。 両脇の建物も、比較的、崩落が少ない。逃げる空賊たちは、その通路の中央を悠々と走っている。 レオは、最短距離で追いつくため、何の疑いもなく、その通路の中央へと、全力で踏み込んだ。


それは、まさに、ヴォルガが「読んでいた」通りの行動だった。


「レオ! 待て! その床(しょうばん)は…!」


 後方から追いついたコウスケが、その通路の構造の「違和感」――中央部分の石畳だけが、不自然なほど支持構造(ビーム)から浮いている――に気付き、叫んだ。


だが、遅かった。


バキィッ!


 レオの全体重が乗った瞬間、古代の床板(しょうばん)は、その「役割」を終えた。 ヴォルガの部下たちによって、あらかじめ、裏側から支持部材(サポート)が切り離されていたのだ。


「うわっ!?」

 

 轟音と共に、床が抜け落ちる。 レオは、なすすべもなく、暗い穴の底へと転落していった。


「レオ!」


 クララの悲鳴が響く。 幸い、それは峡谷の底ではなかった。抜け落ちたのは、この橋の「下層デッキ」…おそらく、古いメンテナンス用の通路か、ダクトスペースだろう。 コウスケたちが、崩れた穴の縁(ふち)に駆け寄ると、数メートル下で、瓦礫の山に叩きつけられ、受け身も取れずに呻いているレオの姿があった。


「…っ、いってえ…。なんだ、こりゃあ…」


 レオが、瓦礫をかき分け、愛剣を探そうと身を起こした、その瞬間。 カシュ、カシュ、カシュッ。 彼の周囲、暗闇の四方八方から、無数のクロスボウの矢先と、槍の穂先が、一斉に彼に向けられた。


 穴の上から、ヴォルガが、ゆっくりと姿を現した。 彼は、穴の底で完全に無力化されたレオを、冷たい笑みで見下ろしていた。


「言っただろ、脳筋ネズミ」 ヴォルガは、コウスケに向き直った。

「ここは、俺の『現場(テリトリー)』だ。…よそ者が、土足で踏み込んでいい場所じゃねえんだよ」


 コウスケの知性を借りることを拒否したレオの、それは、あまりにも完璧な、最初の「敗北」だった。

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