第三十二話『プロジェクトの「定義」』

 全ての音が消えた。 ヴォルガの冷酷な「提案」と、クララの「破綻」を告げる悲鳴。 その二つが、薄暗い集落の空気に、絶望的な重さで満ちていた。


 レオは「ふざけるな」と怒りに震えながらも、床が軋む音に、無様に動きを封じられている。 クララは、コウスケの服の袖を掴んだまま、恐怖に呼吸が浅くなっている。 長老は、床に突っ伏したまま、希望が完全に断たれたことを悟り、微動だにしない。 ヴォルガだけが、この状況の支配者として、コウスケの「合理的」な返答を待っていた。


(……クララの言う通りだ)


 コウスケの脳内は、かつてない速度で回転していた。 彼の半身――日本で36年間生きてきた、一級建築士でありコスト管理士の『椎名圭介』が、冷徹に分析結果を叩き出す。


『クララの判断は、100%正しい。このプロジェクトは「調査」だ。今回の事態は、予算、リスク、リソース、全ての面で、当初の計画(スコープ)を逸脱した、致命的な「仕様変更」だ』

『プロジェクトマネージャーとして、ギルドマスターとして、今、最優先すべきは、これ以上の損失を防ぐこと。すなわち、「損切り」だ』


 ヴォルガは、コウスケの表情が、計算のためにわずかに動いたのを見逃さなかった。


「そうだ、『話』のできるネズミ。お前は賢い。そこの脳筋(レオ)とデカブツ(ギムレット)は、もはや『資産』じゃない。回収不能の『不良債権』だ。そいつらを『コスト』として切り捨て、残った『資産(お前と女)』だけで、俺と新しい契約を結ぶ。それが、お前にとっての『最適解』だろう?」


 ヴォルガの言葉は、コスト管理士の論理としては、完璧に正しかった。 レオとギムレットを失うことは、多大な損失だ。だが、全滅よりはマシだ。 「採算」だけを考えるならば、答えは、一つしかない。


(……そうだ。俺が、ただの『コスト管理士』ならば)


 コウスケは、ゆっくりと目を閉じた。 そして、目を開いた時。 彼の目に宿っていたのは、『椎名圭介』の冷徹な分析ではなく、『礎の谷』の未来をゼロから再構築した、ギルドマスター『コウスケ』の、静かな覚悟だった。


 彼は、ヴォルガを無視した。 そして、絶望の淵にいるクララに、静かに語りかけた。


「クララ」

「…な、に…」

「君の言う通りだ。今回の『調査プロジェクト』は、今この瞬間、『失敗』した」


「え…」

 クララも、レオさえも、その言葉に息を呑んだ。


「予算は、この空賊団と敵対した時点で、意味をなさなくなった。リスクは、俺たちの許容範囲を遥かに超えた。…だから、このプロジェクトは、ここで『完了(クローズ)』する」


「コ、コウスケ…お前、まさか…!」

 レオが、裏切られたかのような声を上げた。


 だが、コウスケは続けた。

「――そして、今、この瞬間。俺たちは、新しい『プロジェクト』を受注する」


 コウスケは、床に突っ伏す長老の肩に、そっと手を置いた。

「クララ。プロジェクトの目的は、利益を出すことじゃない。いつだって、ただ一つだ」 彼は、クララの目を、まっすぐに見据えた。


「『クライアントの課題を解決する』ことだ」


 コウスケは、長老と、その背後で震える「橋の民」たちを、ゆっくりと見渡した。


「俺たちの『クライアント』は、今、目の前にいる」


 その言葉は、どんな魔法よりも、強く、重く、その場の空気を震わせた。 クララは、掴んでいたコウスケの袖を、無意識に離していた。 ヴォルガの顔から、初めて、余裕の笑みが消えた。


「…面白い」 ヴォルガが、低い声で呟いた。

「採算度外視の『自殺』を、わざわざ『プロジェクト』と呼ぶか。酔狂だな、お前」

「コウスケ…!」

 レオが、歓喜の笑みを浮かべる。


「だが、どうする? お前らが一歩でも動けば、この床は、お前らの『クライアント』ごと、谷底だ」

 ヴォルガが、再び、絶対的な優位を突きつける。


「ああ、そうだな」 コウスケは、今度はヴォルガに向き直った。

「お前は、この床の『弱点』を知っている。大したもんだ」


 コウスケは、一歩、わざと強く床を踏み鳴らした。 「ミシッ」と、全員の足元が嫌な音を立てて沈む。 「ひっ!」 クララも空賊たちも、一瞬、動きを止めた。


「だがな、ヴォルガ」


 コウスケは、ヴォルガの目を見据え、そして、あえて天井…この巨大な橋桁を吊り下げている、遥か上方のメインケーブルの一本を指差した。


「俺は、『なぜ』この床が弱いのか、その『理由』を知っている」

「…何?」

「お前は、この床板(しょうばん)しか見ていない。俺は、この区画(ブロック)全体を『積算』した」 コウスケは、ギムレットに視線を送った。

「ギムレットさん。もし、あんたが、あの『第3メインケーブル・アンカーブロック』に、戦鎚を全力で投げつけたら、どうなると思う?」


 ギムレットは、コウスケの視線の先を追い、その一点に力が集中している構造を瞬時に理解し、ニヤリと笑った。


「フン。この床どころの話じゃすまんな。この区画(ブロック)全体が、そこの空賊どもごと、あのトカゲと同じ場所に『納品』されることになるわい」


 ヴォルガの顔が、初めて「恐怖」に歪んだ。 彼は、コウスケがハッタリではなく、本気で、そして正確に、この橋の「真の弱点」を指摘していることを理解してしまった。 自分たちが立っているこの床(トラップ)が、自分たち自身にも牙を剥く「諸刃の剣」であったことに、今、気付いたのだ。


 コウスケは、ヴォルガに「再定義」されたプロジェクトの名を告げた。


「『調査プロジェクト』は完了だ。これより、新規プロジェクト――『空中都市アエリア・システム改修工事』を開始する。クライアントは、『橋の民』。そして、あんたたち『紅の翼』は…」


コウスケは、冷徹なプロジェクトマネージャーの目で、断言した。


「――俺が『排除』すべき、最大の『不具合(バグ)』だ」

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