第五章 夢の檻
「全てを説明しましょう」
ウィルシャーの思考が私の脳に直接流れ込んでくる。
「一年前、プロメテウスの鉱山で作業中に巨大な空洞を発見しました。そこは旧文明の研究施設でした。百年前の大戦争で放棄されたと思われます」
私は敢えて黙って聞いた。
「施設の中央にこの機械がありました。経験機械――人間の脳に直接接続し、あらゆる感覚体験をシミュレートできる装置です。最初は恐る恐る動作確認をしただけでした」
「だが誘惑に負けた」
「ええ。最初の体験は衝撃的でした。私は若い頃の恋人との再会を体験しました。彼女は戦争で亡くなっていたのですが、機械の中では生きていました。そして私たちは完璧に幸福でした」
ウィルシャーの思考に哀愁が混じる。
「現実では私は老いた独身の女です。責任と重圧に押し潰されそうになりながら、毎日を生きている。だが機械の中では若く美しく、愛する人と永遠に共にいられるのです」
「だがそれは偽物だ」
「偽物? では現実とは何ですか? 脳が感じる電気信号の集合ではありませんか? 機械が作り出す信号も、現実が作り出す信号も、脳にとっては同じことです」
哲学的な問いだった。
現実と仮想の境界線は確かに曖昧だ。
この世界だって誰かのシミュレーションじゃないとは言い切れない。
「プロメテウスの市民たちにも提供したのか?」
「最初は私だけの秘密にしておくつもりでした。だがこの幸福は独り占めするには余りにも素晴らしすぎました」
ウィルシャーの思考に興奮が混じる。
「まず側近たちに提案しました。一時間だけでも体験してみないかと。彼らは一様に皆感動しました。そして一時間が一日になり、一日が一週間になり……」
「そして永続的な接続を選んだ」
「そうです。現実の苦痛と仮想の幸福、どちらを選ぶかは自明でしょう」
私は施設を思い出した。
培養ポッドで眠る数百の市民たち。
「皆自発的に選んだのか?」
「もちろんです。これはプロメテウス最大の社会実験でした。完全な自由意志による選択です。誰も強制されていません」
突然、警報が鳴り響いた。
どうやら侵入者――つまり私の存在が公式に発覚したようだ。
「残念ですが、あなたを生かしておくわけにはいきません」
ウィルシャーの思考が冷たくなった。
「この秘密が外部に漏れれば、我々の楽園は破綻します。他のコムが介入してくるでしょう」
オフィスのドアが開いた。武装した警備兵たちが乱入してくる。私は机を盾にして応戦した。まず倒すべき敵は五人の傭兵。
「侵入者を排除せよ!」
「女王を守れ!」
銃弾が空気を切り裂く。私は一人ずつ確実に仕留めていく。頭部への精密射撃。無駄弾は撃たない。
最後の一人を倒した時、私の肩に銃弾が掠った。血が滲むが、致命傷ではない。
「見事ですね」
ウィルシャーの思考に皮肉が込められている。
「ですが無駄な抵抗です。あなたがここで私を殺したところで、何も変わりません」
「エデンとの契約を履行しろ」
「不可能です。この機械の維持には膨大な水と電力が必要なのです。エデンに供給する余裕などありません」
私は生命維持装置を見つめた。確かに巨大な機械群が稼働している。その消費電力は相当なものだろう。
「それに」
ウィルシャーが続ける。
「あなたが私を殺し、このコムの資産を奪ったところで、眠っている市民たちはどうなりますか? 彼らはもう現実には戻れません。機械との接続を断てば死んでしまいます」
完璧な罠だった。私は絶望的な選択を迫られていた。エデンの正義を取るか、それともプロメテウスの市民たちの命を取るか。どちらを選んでも誰かの権利を侵害することになる。
「さあ、どうしますか? エンフォーサー・ノア」
ウィルシャーの思考に勝利の響きがあった。
「あなたが新しい女王になって、この空っぽの王国を統治するしかないのです」
私は銃を抜いた。そしてウィルシャーに繋がれた生命維持装置に狙いを定めた。
「待ってください!」
彼女の思考に恐怖が混じった。
「私を殺しても解決しません! 市民たちが死んでしまいます!」
「それは彼らが自ら選んだ道だ」
私は引き金に指をかけた。
「自由意志による選択なら、その結果も受け入れるべきだ」
「そんな……あなたには正義はないのですか?」
「私は正義の味方じゃない。ただの契約執行人だ」
私は装置を撃った。火花が散り、ウィルシャーの思考の声が途切れる。
しかし私は止まらなかった。次に経験機械のメインサーバーに銃口を向けた。これを破壊すれば、地下の市民たちは夢から覚めるだろう。だが彼らを待っているのは過酷な現実だけだ。あるいはこのまま永遠に目覚めないかもしれない。
私に彼らの運命を決める権利などあるのか。
刹那の逡巡。
私は銃を下ろした。代わりに通信機のスイッチを入れた。
私が連絡したのはエデンの長老ではなかった。私はこのフロンティアに存在する全てのコムに向けてオープンチャンネルで発信したのだ。
「こちらノア」
私は言った。
「プロメテウスで一つの鉱山が見つかった。水でも金でもない。新しい資源だ。それは『夢』と呼ばれる」
通信電波に雑音が混じる。各地のコムが受信し始めている。
「この鉱山の所有権はオープンだ。早い者勝ちだ。ただし条件が一つだけある」
「ここで採掘された富の一部は必ずエデンへと供給される。それがこの新しいフロンティアの最初の契約だ」
私は通信を切った。
これで終わりだ。
あとは野となれ山となれ。
欲望に駆られた無数のコムがここに殺到するだろう。
彼女たちは経験機械を巡って争い、新しいルールを作り、そして新しい社会を形成していく。
それは醜悪で混沌としたゴールドラッシュになるだろう。だがそれは少なくとも一人の女王に支配されるよりはマシだ。そしてその混沌の中からエデンを救うための水も生まれるかもしれない。
私のしたことは正しかったのか。
分からない。
私はただこのシステムの欠陥をハッキングしただけだ。
究極の個人主義が究極の共有財産を生み出すという皮肉なバグを。
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