第26話「帳簿を燃やす声」

 朝の掲示板の前は、いつもよりざわついていた。

 影負債帳、名の帳、影市帳——三枚の板を正面に、布を頭に巻いた若い男が柵の上で朗々と叫んでいる。

「帳簿は鎖だ! 数字は首輪だ! 名は杭だ! お前らの足に繋がる影を、紙に縫い付けて動けなくしている!」

 拍手がいくつか、やじがいくつか。人垣の後ろで、油の入った壺が小さく当たって鳴った。嫌な音だ。


 ユイが袖を引く。「おじさん、油の匂い……」

 リクは無言で群衆の外周を回り、壺を持つ影を目で追った。

 エリシアが商組の札を掲げ、ひと呼吸置いて声を出す。

「帳簿は“鎖”じゃない。“取っ手”よ。影に取っ手がなければ、誰も重みを持ち上げられない」

 だが、若い男は更に熱を上げた。

「取っ手を掴めるのは、腕の強い者だけ! 弱い者は“見られる側”に残る! 見られることは、支配だ!」


 群衆が二つに割れていく気配。

 ディールが小声で告げる。「昨夜から出回っている煽り札です。“灰の旗”と名乗る一団が、『帳簿を燃やせ』と」

 影術師がいつの間にか背後に立っていて、短く言った。

「燃やせば、影は戻る。——“なかった”ことになる。だから燃やしたいのだ」


 俺は柵の上の男に近づき、声を抑えて言った。

「下りろ。話そう」

「話したいなら、紙を破ってからだ」

「破れば、重みはどこへ行く。誰が担う」

「担わない自由がある」

 男の目は、渇いていた。怒りというより、長い飢え。

「名は、俺を縛る。俺の過去も、俺の失敗も、帳簿が“ここだ”と指差す。消したい。灰にしたい」


 灰。

 胸の痣が低く鳴った。忘却帳簿に沈める、と俺は幾度も言ってきた。だが“公開の板”は消さない、とも。

 自由と記録。互いに噛み合わない歯車が、今日、正面からぶつかる。


「燃やすな!」と誰かが叫び、別の誰かが「燃やせ!」と応じた。

 押し合う肩。油壺が割れ、石畳へ黒い円が走る。火種を待つ円。

 ユイが影を伸ばして油の縁を束ねる。「ほどけ!」

 黒い縁が縄のように結ばれ、広がりが遅くなる。だが、火は言葉より速く走る。煽り札の端がたいまつに触れ、燃えた火が油へ落ちようとした、そのひと瞬間——


 俺は王位影紋の箱に触れ、影を起こした。

 影は風になる。油の面に沿って、火の舌を横へそらす。

 炎は帳簿を避け、柵の横の石に舐めつく。

 群衆が息を呑み、若い男が思わず言葉を失う。

 火は止まった。だが、声は止まらない。

 「影路監が王の影で言葉を踏みつけた!」「祈祷と同じだ、力で封じるつもりだ!」


 押し寄せる言葉の刃。

 俺は高く掲示板の前に立ち、はっきり告げた。

「燃やす自由は自由じゃない。燃やすのは“他人の記憶”だ。言葉は燃やさない。——板を増やす」


 ざわめきが止まる。「増やす?」

 エリシアが目を見開き、頷いた。

「反論板を隣に立てる。影負債帳、名の帳、影市帳に対する意見を書けばいい。灰の旗も、名を記せば掲げていい」

 若い男が鼻で笑う。「名を記せ、だと。名が鎖だと言っている」

 ディールが静かに筆を持ち上げた。

「昼の名でなくていい。印でも良い。詩でも良い。反論は残す。残せば誰かが読み、読みは次の秤の重みになる」

 影術師が口の端だけで笑った。「言葉を祈祷にせず、記録にするのか。——人の式だ」


 その時、柵の影で火花が散った。

 別の壺から火が走り、板の脚へ這い寄る。

 リクが飛び込み、靴で火を払い、反対の足で油の縄を蹴った。

 ユイが叫ぶ。「“冷めろ”!」

 影が井戸の涼を引いてきて、火の下から吸い上げる。じゅ、と小さく音がし、火は酸欠で沈んだ。


 俺は若い男に向き直る。

「お前の詩を、残せ。燃やすのではなく、貼れ。俺が読む。王も読む。子どもも読む」

「お前が許す言葉は“いい言葉”だけだ」

「違う。悪い言葉も残す。悪い言葉は次の悪い刃を鈍らせる。隠れて研がれるより、光に鈍る方が安全だ」


 若い男の肩の力が僅かに落ちた。

 群衆の端で、老婆が杖で石を叩いた。「燃やすのは、冬越しの薪だけでいい」

 笑いが一筋、広がる。火は言葉に弱い。


 午下がり、掲示板の横に反論板が立った。

 最初に貼られたのは、灰の旗の詩だった。


鎖は鈍い

紙は鋭い

名は杭

声は風

風で紙を裂け

影は灰へ

 下に小さく、印が一つ。名ではない、灰印。


 ディールが淡々と隣に短い注を添える。

「注:『鎖』の語に対し、『取っ手』という比喩あり。併記し、次回の公開計測に“疼”と合わせて討議」

 エリシアは商組の札で「反論板は“燃やさない”」と明記した。

 ユイは板の上部に木札を数枚吊す。「声札。読み上げたい人はここから札を取って、夕暮れの“風読み”で順に声にするの」

 リクは板の脚に鉄の輪を打ち込み、下へ水甕を埋めた。「火の速さより速く、影の風と水で消す。人の足が遅れても、火は遅れる」


 夕刻。

 広場の中央に小さな台が置かれ、俺は王位影紋の箱を台の下に据え、灯の影を短く保つ。

 最初の風読みは、灰の旗の詩から始まった。若い男が読んだ。声はよく通り、夕凪を割って飛んだ。

 次に、粉だらけの手のパン屋が立ち、「取っ手」の話をした。袋を持ち上げるには取っ手が要る、指が痛むとき、隣の手が必要だ、と。

 老婆が最後に短く言う。「燃やした紙は暖かいが、読み直せない」

 笑いとため息が混ざり、空が群青へ落ちた。


 終わり際、灰の旗の男がそっと近寄ってきた。

「詩は貼る。だが、俺の“過去の名”は貼らない」

「貼らなくていい」

 男は一瞬驚き、そして少し笑った。「拍子抜けだな」

「お前が“昼の名”で戻ると決めた日、貼ればいい。その時まで、灰印で生きろ」

 男は頷き、灰印を板に強く押した。印は不思議なほど、人の輪郭に似ていた。


 夜更け、詰所に戻る道すがら、影術師が言った。

「お前は祈祷をしない代わりに、壇を作る。板を増やし、声を増やす。影の秩序は、場で保たれるのだな」

「場を失うと、影は裂ける」

「だから燃やしたい者は、場を燃やす。——気をつけろ。次は板ではなく、人を燃やしに来る」


 言葉の重さは火より重い。胸の痣が小さく疼く。


 翌朝、反論板には新しい詩と、新しい注と、新しい声札が増えていた。

 その下に、小さな紙片。拙い字で書かれている。

「ミチの母です。名の帳にありがとう」

 ユイがそれを指でなぞり、にっこり笑う。

「声、増えたね」


 昼過ぎ。

 政庁からの使者が駆け込み、息を切らして巻紙を差し出した。

「王より。“声の秤”を公認。掲示板の管理を政庁と影路監と商組で輪番とし、夜間は兵が灯を守る。——ただし、刃賦の取締強化」

 ディールが小さく頷いた。「秤が増え、秩序の卓が広がる」

 エリシアが安堵の息を吐く。「“燃やさない”と王が言うなら、街は従う」

 リクが視線だけで周囲を巡り、低く言う。「従わない連中が、夜に来る」


 その夜は早かった。

 灯が三つ目に揺れた時、詰所の屋根に軽い音。ひらり、と紙が舞い、次の瞬間、油が窓に広がった。

 「来たぞ!」

 リクが外へ飛び出し、ユイが水甕の影を引いて窓へぶつける。

 火は一度上がり、すぐ重く落ちた。

 屋根の上の影が走り、細い影縄が二筋きらりと張られた。刃賦衆が屋根を駆けて逃げる軌跡。

 俺は痣を刺し、影縄をほどき結びに変えた。

 逃げ足がからまり、一人が落ち、二人が転ぶ。

 近づくと、顔布の奥の目が若い。昨日の兵と同じ年頃。

「帳簿を燃やせば、俺も無能じゃなくなると思った」

「燃えたのは、お前の“戻り道”だ」

 言いながら、俺は自分の言葉に胸を刺された。戻り道を誰が用意する。誰の費えで。


 詰所で朝を待つ間、王位影紋の箱が微かに熱を持った。

 触れると、遠い記憶のざわめき——王たちの痛みの帳が底で鳴る。

 数字にしにくい痛みを、彼らは“王の影”に置いた。

 街に必要なのは、王でなくとも置ける場所だ。

 俺は紙に書く。

「風読台:毎夕、声札を読み上げ、読み上げた言葉を“風の帳”に写し取る。——紙と板と声で、三重に残す」

 ディールが目を細める。「記録の冗長化。燃やされる速度より、残る速度を速くする」

 ユイが掌で影をすくう。「影も、覚えてくれるよ」

 影術師が頷く。「影の記憶は水に似る。流れが多ければ濁らず、澱みに落ちにくい」


 朝。

 反論板の横に小さな風読台が立った。

 鐘が一つ鳴るたび、子どもが札を一枚読んで返す。詩でも文句でも御礼でも、読み上げれば風の帳に残る。

 風の帳は紙ではない。詰所の壁に薄い影の膜を張り、読み上げられた言葉の「温」を記す。触れれば、ほんのり温かい。

 「燃やせない帳だ」とユイが胸をはる。

 老婆が手をあて、目を細めた。「湯たんぽみたいで良いねえ」

 笑いが広がる。火は、温かさに弱い。


 その日の夕暮れ、灰の旗の男が風読台に立ち、詩の最後を変えて読んだ。


風で紙を裂け

影は灰へ

———

風で火を消せ

影は場へ

 拍手は大きくなかったが、深かった。音に重みがあった。


 夜。

 窓の外の影が静かで、胸の痣は穏やかだった。

 俺は王位影紋の箱に指を添え、低く囁く。

「燃やす声は消さない。だが、燃えない場を増やす。箱よ、もう少し痛みを預かってくれ」

 箱は微かに明滅し、返事代わりに冷たさと温かさを順に返した。


 眠りに落ちる直前、ユイが布団の影から顔を出す。

「ねえ。“反論板”、字の書けない人はどうするの?」

「口の札を作ろう。誰かが文字にする。書いた人の名は載せず、口の主の印だけ残す」

「うん。じゃあ、明日は“字の教室”もしよう。影の学校!」

 エリシアが笑う。「商組の蔵を開けるわ。机と板、出せるだけ出す」

 リクが欠伸を一つ。「影のおまわりさんが、先生も兼ねるのかよ」

「秤は、置く場所を増やすほど軽くなる」俺はそう言って目を閉じた。


 ——燃やす声は消えていない。

 だが、燃えない場が増えた。

 影は、火より長い。声は、火より広い。

 次は“読むための手”を増やす番だ。

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