第25話「王都を裂く影市」

 「名の帳」が掲示板に貼られて三日。

 昼の名を声に出す子供たち、数字の横に名をそっと書き足す老人、名を見て涙を流す母親……王都は、確かに変わり始めていた。

 しかし同時に、別の変化も芽吹いていた。


 夜の路地で囁かれる新しい言葉——影市(かげいち)。

 人の影や名を、数字や銀貨の代わりに取引する闇の市。

 影負債帳が秩序を支える一方で、そこからこぼれ落ちた「記録されない痛み」が、裏で売り買いされ始めたのだ。


 その報せを最初に持ってきたのは、エリシアだった。

「商組の耳に入ったの。南堀の倉で、影そのものを担保に貸し借りする連中がいる。帳簿に載らないから、金より動きやすい」

 彼女の顔は険しかった。

「名の帳に載るはずの名が、“売れる”と囁かれているわ」


 ユイが机を叩いた。

「名は帰る道でしょ! 売り買いなんて、影を迷わせるだけだよ!」


 リクは剣の柄に手を置き、低く呟く。

「つまり、“帳簿に書かれなかった痛み”を食い物にしてやがる。放っとけば、次の裂け目は影市の真ん中にできるだろうな」


 ディールは帳面に線を引きながら言った。

「数字の秩序は秤で守れる。だが、数字に載らないものは……別の秤が要る」


 俺は痣を押さえた。熱はまだ静かだが、影獣が胸の奥で落ち着きなく動いている。

 「行こう。影市を見つけて、秤を置く」


 南堀の倉に近づくと、夜なのに明かりが漏れていた。

 中では十数人が集まり、布の下に影を重ねている。

 「この名は三日の食に値する」

 「いや、五日の労働だ」

 耳に飛び込んでくるのは、影と名を物のように値踏みする声。


 その中心にいたのは、かつて牢で見た印判屋の弟弟子だった。

 顔はやつれ、だが目は熱に浮かされていた。

「帳簿に載らない名は“無主”だ。無主の名は、誰のものでもない。だから売れる!」


 群衆が笑い、銅貨を影に投げ込む。影が揺れ、名が引き抜かれていく。

 その様子に、ユイが震える声をあげた。

「やめて! 名は帰る道なんだよ!」


 俺は前に出て、声を張った。

「影市は裂け目を呼ぶ! 名を売れば、影は帰る場所を失う!」


 だが、弟弟子は狂ったように笑った。

「帰れない者はどうする? 帳簿に載らない痛みを、誰が拾った! 器よ、お前は全部拾えるのか!」


 その言葉は鋭かった。

 俺はすぐに答えられなかった。

 確かに、名の帳に全員を載せることはできない。

 数字と名のあいだでこぼれる痛みがある。


 その隙を突くように、倉の影が軋んだ。

 裂け目だ。

 影市の取引が呼び水になり、倉の中央に黒い穴が開いた。

 名を売り買いする声が重なり、裂け目は膨らむ。


 リクが剣を抜き、エリシアが商組の札を掲げる。

 ユイは影に飛び込み、糸を広げて叫んだ。

「おじさん! “名の秤”を置いて!」


 俺は痣に触れ、影の奥を覗いた。

 聞こえる声は二つ。

『売れ……値をつけろ……』

『返せ……帰りたい……』


 裂け目の中で、名が引き裂かれていた。


 俺は深く息を吸い、叫んだ。

「名は売り物じゃない! 名は帰るための秤だ!」


 痣が灼け、影獣が吠える。

 俺は帳簿の余白に大きく書き付けた。

「名の秤・初版。売買を無効とし、帰還を優先する」


 その瞬間、裂け目が軋み、人々の影が押し戻された。

 売られかけた名がユイの糸に結ばれ、子供の影が母の胸に戻る。


 弟弟子は膝をつき、声を震わせた。

「……それでも、帳簿に載らない名はある! どうする! どこに置く!」


 俺は答えた。

「街角に。掲示板に。人の口に。忘れない場所に置く」


 群衆は静かに頷き、誰かが名を声に出した。

 その声が波のように広がり、倉を包んだ。

 裂け目は小さくなり、やがて閉じた。


 翌朝。

 掲示板には「影負債帳」「名の帳」に続き、新しい帳簿が貼られた。

 題は——「影市帳」。

 そこには昨夜売られかけた名が並び、横に大きな一文が添えられていた。


 「名は売り物にあらず。帰る道にあらずして何か」


 群衆は声を失い、やがてその言葉を口にした。

 数字ではなく、名でもなく、言葉が秩序を守る秤になる。

 痣が温かくなり、影獣が喉を鳴らした。


 ——影市は、一度は裂け目を呼んだ。

 だが、同時に「新しい秤」の必要を教えてくれた。


第25話ここまで

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