第24話「帳簿に刻まれぬ痛み」
影負債帳が掲示板に貼られるようになってから一週間。
王都の空気は、少しずつ「影を数えること」に慣れ始めていた。
麦の戻りは数字で、疼きは数字で、昼の名も数字の列に載る。
人々は数字を読むことで安心を得、秤の上に自分の生活を重ね合わせていた。
だが——帳簿にすべてが載るわけではない。
数字にならない痛みが確かに残っていた。
南市の掲示板の前。
一人の女が、影負債帳を睨みつけていた。
腕には赤子を抱いているが、顔は険しい。
「重も、回も、時も、疼も……全部ある。けど、ここに“名前”がない」
呟きは俺の耳に届いた。
通りかかったユイが女の足元に影を撫で、小声で教えてくれたのだ。
女は俺を見るなり、赤子を差し出してきた。
「夫が裂け目に呑まれた。あなたが返してくれたと聞いた。けど……帳簿には“人三十七”としか書かれていない。彼の名が、ない」
胸の痣が熱を帯びた。
ディールは確かに“返還人三十七”と記録した。だが、誰の名かまでは載せなかった。
エリシアがそっと女に寄り添い、震える声で言った。
「帳簿は、数字しか許さないの。名を載せれば、誰かが“漏れた”と責められる。だから、全体で記すしかない」
女の目が濁る。
「数字じゃ、子に父を伝えられない……」
ユイが赤子の小さな手を握り、真剣な顔で言った。
「昼の名をつけようよ。お父さんの影に、帰る道ができるように」
女はしばし黙ったあと、涙を拭った。
「……“葵”と。彼はいつも庭の葵を摘んで、私の髪に差してくれたから」
俺は胸の痣に触れ、影にその名を刻んだ。
赤子の影がふわりと揺れ、女の肩が少しだけ軽く落ちた。
——数字に載らない痛み。だが確かに返すことのできる痛みがある。
詰所に戻ると、ディールが難しい顔で帳面を睨んでいた。
「数字は秩序を保つ。だが、今朝だけで“名を求める声”が十件。帳簿に載せない痛みが溢れている」
リクが腕を組む。
「じゃあ載せりゃいいだろ。人の名前を一人ずつ書けばいい」
ディールは首を振る。
「一人だけ漏れたらどうする? 誰が責任を取る? 帳簿は“等価”を前提とする。個別は等価を崩す」
エリシアが口を開いた。
「だったら、数字とは別に“記憶の帳”を作ればいい。公開じゃなく、共有でもなく、残すだけの帳」
影術師が静かに言った。
「それは“祈祷”の代わりになる。祈祷は慰めで、観測は記録だ。——器、お前はどちらを選ぶ」
痣が疼き、影獣が低く唸る。
返す秩序は数字を必要とする。だが、数字に載らない痛みを放置すれば、人は秩序から零れ落ちる。
「両方置く」俺は言った。
「数字の帳と、名の帳。数字は公開し、名は影路監が預かる。公開すれば秩序が保たれ、預かれば痛みが消えない」
その夜。
詰所の扉を叩く音がした。
入ってきたのは、昨日捕らえた刃賦衆の若い兵士だった。
手枷を外され、怯えながらも言った。
「俺を……帳簿に載せてくれ。捕らえられた兵の名として。夜の帳簿じゃなく、昼の帳簿に」
俺は頷き、羊皮紙の片隅に小さく書いた。
「兵士・ロイ。影に刃を振るい、影に返される」
ディールが眉を寄せた。
「公式には残せません。だが……“名の帳”なら」
影は静かに波打ち、痣の痛みがわずかに和らいだ。
翌朝。
掲示板には影負債帳と並んで、新しい帳簿が一枚貼られた。
題はただ一言——「名の帳」。
そこには数字ではなく、昨日返った者たちの名前が並んでいた。
「葵」「ロイ」……
人々は声を失い、やがて小さく口に出して読んだ。
数字のざわめきとは違う、静かな共鳴が広がった。
そのとき。
掲示板の影が揺れ、誰かが鋭い声を上げた。
「名を晒すな! 影は“呼ばれた名”を喰う!」
影の中から、再び刃が光った。
刃賦衆の残党だ。
だが今回は群衆が逃げなかった。
「返せ!」「名を奪うな!」
人々の声が石畳を震わせ、刃の影を鈍らせた。
俺は痣に触れ、影を縫った。
「名は奪われるためにあるんじゃない。帰るためにある」
刃の影が裂け、男たちは地に倒れた。
群衆は一斉に息を吐き、掲示板の前で「名」を口にした。
名は数字ではない。だが、確かに痛みを支える秤になっていた。
その夜。
王位影紋の箱が静かに震えた。
蓋の隙から一筋の光が漏れ、影の囁きが耳に届く。
『数字を置け。名を置け。秩序を置け。——次はどこに置く?』
痣が熱を帯びる。
俺は静かに答えた。
「街角に。人の口に。帳簿に。……全部に置く」
影獣が喉を鳴らした。
返す秩序は、新しい形を得た。
第24話ここまで
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