第23話「影賦と刃賦――夜の刺客、昼の帳簿」

 南市の祠での一件から三日。

 掲示板に貼り出された「影負債帳」は毎朝人だかりをつくり、数字を声に出して読み合う者、昼の名の列を指でなぞる子どもたち、痛みを分かち合うように肩を寄せる夫婦の姿があった。

 街の空気は少しずつ変わり始めていた。影は恐怖の象徴ではなく、「返す」ための帳簿と共に人々の口に上る。


 だが、その変化を好まない者もいた。

 夜になると、影がやけに鋭く伸びた。井戸端や路地裏で「刃賦(じんぷ)」と呼ばれる新しい噂が囁かれ始めたのだ。

 曰く——「影賦に従わぬ者は、刃で払え」。


 詰所の窓を打つ石に気づいたのは、月が中天を越えた頃だった。

 外に出ると、木札が突き刺さっている。煤で乱雑に書かれた文字。

 『影路監よ、昼の帳簿を閉じよ。さもなくば夜の帳簿に刃を記す』


 リクが木札を握りしめ、低く唸った。

「暗殺予告だな」


 ディールは筆を止めず、冷静に言う。

「帳簿は閉じません。閉じた瞬間、公開された痛みが消え、また“なかった”ことになります」


 エリシアは唇を噛み、俺を見た。

「彼らは“公開”を恐れている。帳簿に名が残れば、隠してきた力も正義も崩れるから」


 ユイは影に片足を沈めて、静かに囁いた。

「おじさん。影が震えてる。夜の刃、近いよ」


 翌日、王都の掲示板にもう一枚の帳簿が貼られた。

 影負債帳ではない。誰かが勝手に貼り付けた紙だ。

 そこには「夜の帳簿」と題し、昨日の夕暮れに“殺された”とされる人々の名が並んでいた。

 だが、政庁にも商組にも、そんな記録はない。


 虚偽か。あるいは……予告か。

 群衆の顔に不安が広がり、ざわめきが街角を満たした。


 その夜、俺は詰所に残り、帳面を睨み続けた。

 痣は静かだが、影獣は落ち着かずに胸の奥を歩き回っている。

 窓の外、足音。

 リクがすぐに剣を抜いた。

 影の中から、三人の黒衣が現れる。昨日の祠の者たちとは違い、顔まで覆い、胸には細い銀の線。刃賦衆と呼ばれる連中だ。


 彼らは声を揃えて低く言った。

「帳簿を閉じろ」


「閉じない」俺は即答した。

「閉じれば、影も人も“なかった”ことになる」


 銀の刃が抜かれ、月明かりを弾いた。

 リクが前に出る。ユイが影を撫でて、足元に細い糸を走らせる。


 戦いは短く、だが鋭かった。

 一人が影を踏み砕き、俺の影を裂こうとする。

 痣が疼き、影獣が吠え、俺の影が逆に相手の足を絡め取った。

 リクの剣が弾き、銀の刃が石畳に火花を散らす。

 ユイが叫ぶ。「今!」


 俺は影糸を引き、相手の刃の影を奪った。

 刃の光は残っても、影を失った刃はただの鉄だ。

 黒衣が狼狽する。

「影が……抜かれた……!」


 残る二人は退き、路地の影に消えた。


 静寂の後、倒れた一人の黒衣を取り押さえる。

 顔布を外すと、現れたのはまだ若い兵士だった。

 震える声で呟く。

「……刃賦は、命令だった。影賦を受け入れぬ商会が……金で雇った。帳簿を潰せと……」


 エリシアが顔を曇らせる。

「やはり、商会の一部か」


 ディールは記録をまとめ、筆を止めた。

「影負債帳・付記。夜の帳簿と称する虚偽、ならびに刃賦衆の介入。公開するかどうか、影路監の判断に委ねます」


 俺は即座に答えた。

「公開する。夜の刃に屈して帳簿を閉じれば、昼の光は二度と戻らない」


 翌朝。

 掲示板には影負債帳と共に「付記」が貼り出された。

 そこには夜の帳簿が虚偽であること、刃賦衆が捕らえられたこと、そして影賦を拒んだ商会の名が記されていた。

 群衆は息を呑み、やがて一斉に声を上げた。

「見えるぞ! 影も刃も!」

「記録がある限り、忘れられない!」


 その声が、夜の刃の力を鈍らせた。


 その日の夕刻。

 詰所の机に、王からの伝令が届いた。

 封を切ると、短い文。

 「影路監。夜の刃は影を裂けぬ。だが、人の心は刃に裂かれる。次の秤を置け」


 痣が熱を帯び、影獣が喉を鳴らした。

 次の問いは近い。

 返す秩序と裂く秩序——二つの帳簿が、王都を舞台に交錯し始めていた。


第23話ここまで

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