第22話「王の影、秩序の代価」

 大裂け目を“返した”翌日、王都の空気は明らかに変わっていた。

 パン屋の前の列は短く、路地の囁きは細く、祈祷の鐘は一拍遅れて鳴る。誰もが昨日の光景を目に焼き付け、いまも胸のどこかで手を合わせている。

 それでも、影は動いていた。濃淡を揺らしながら、次の問いを用意するように。


 午前、王宮の呼び出しが来た。政庁ではなく、再び玉座の間。

 俺、リク、ユイ(昼名)、エリシア、そして影術師が並んで入ると、王はすでに玉座の前に立っていた。宰相の姿もある。神殿からは司祭ではなく、灰衣の老女——“観測院”の長と呼ばれる者が来ていた。喉元の印章は布で覆われ、眼だけが鋭い。


 王は正面から言った。

「影路監。お前は裂け目を返した。王都はお前に喝采を送る。——ゆえに、代価を定めねばならぬ」


 代価。胸の痣が、小さく鳴った。

 宰相が巻物を開き、硬い声で続ける。

「“返す秩序”は“裂く秩序”より、記録と負担が重い。返した重みは誰が担保するのか、返す行為によって生じる痛みは誰が受けるのか。王都は祭りでは動かぬ。帳簿で動く」


 観測院の長が口を開いた。

「そして、返す行為は“呼び水”となり得る。器が返すほどに、影は返してもらうことを学ぶ。秩序は前提を要する。前提なき返還は、いずれ破綻する」


 エリシアが前に出て、細い声を通した。

「だからこそ、秤が必要です。返した重みを記録し、返すために払われた痛みを等価に置く秤が」


「等価とは何だ?」と宰相。

「数字です」とディールが(いつのまにか背後に来ていた)小さく咳払いし、さらりと帳を差し出した。「パンの秤・二版。重(返還重量)、回(修正回数)、時(効力時間)に加え、疼(とう:疼痛負担)の列を設けます。返還担当者が引き受けた痛みと疲弊を定量化し、王都の共同負担に振り替える影負債帳を作る」


 玉座の間に低いざわめきが走った。

 王は眉をわずかに上げ、観測院の長を見た。長は薄く目を細めて言う。

「痛みを数字に? 愚かに見えて、愚かでない。痛みを数えると、人はようやく他者の痛みを“借りる”ことを覚える」


 宰相は巻物の端を整え、「王都財務は逼迫している」と呟いた。

「返す秩序」の費用は税に跳ねる。誰が払うのか。

 王は玉座から二歩降り、影の短い午前の光の中を進んだ。

「——征税ではない。“影賦”だ。影で救われた区域ごとに、重みの一部を“返礼”として納める。貨幣でも、労働でも、米でもよい。負債帳は公開し、忘却帳簿とは別に保管する」


 忘却と公開。二つの帳の置き所がはっきりした瞬間、痣がわずかに温かくなった。

 影術師が続ける。

「返す側にも枠がいる。影を扱う者は輪番とし、一定以上の疼を背負った者は必ず休む。休む時間を昼名で記録して、夜名の仕事に混ぜない。——影は、『自分の名で休む者』を好む」


 ユイが小さく笑う。「よかった。休むときに、ちゃんとユイって呼ばれる」


 王は玉座へ戻りながら、ふいに手を上げた。

「それで、代価のもう一つだ。——器、いや、影路監。王はお前に“王の影”を預ける」


 空気が動いた。

 宰相が顔を上げ、観測院の長が眉を寄せ、影術師でさえ視線を鋭くした。

 王は玉座の背後の壁に触れる。そこには古い亀裂が金で縫われている。金の線が一瞬だけ光を増し、壁が薄く開いた。

 現れたのは、小さな石の箱。合わせ箱に似ているが、違う——王紋が裏返しに刻まれ、その窪みは黒く、底が見えない。


「王位影紋(おういえいもん)」と王は静かに言った。

「王位に連なる影を、この箱が受け持つ。災厄のたび、王は影を“一度だけ”借りる。代価は王の記憶の一部……王は王であることの痛みを箱に置く。箱は重みとして保ち、次代へ渡す」


 言葉の意味が胸に落ちるまでに時間がかかった。王の顔の“深さ”の理由を、ようやく理解した気がした。

「代々、痛みを貸し借りしているのか」


「そうだ」と王。

「秩序は、王の食卓にまず痛みを置くことで保たれる。神殿は祈祷で覆い隠し、政庁は条文で殻を作る。だが骨は、ここにある」


 観測院の長が低く頷く。

「王の影を器に預けるのは、記録にない。だが、昨日、王都は記録にないことを見た。等価だ」


 王は石の箱を俺に差し出した。

 冷たい。持ち上げると、重みが“増えたり減ったり”する。不思議な揺らぎは、箱が代価と等価を量る秤だからだと直感した。

「預かる。だが、王の記憶を勝手に抜き替えることはしない。必要な時だけ、“痛みの置き場所”として使わせてくれ」


「約束しよう」と王。

「そして最後の代価。——人が返ったなら、人の罪は人の場所で量れ。影の場で裁くな。裁きは昼に行う」


 司祭ではなく観測院の長が、ここで初めて笑った。

「それが秩序だ。神殿は祈祷の式を“人の式”に重ねる。今日限り、祈祷と観測は分ける。——祈祷は慰め、観測は記録」


 玉座の間の空気が、少しだけ軽くなった。

 代価は決まった。影賦と影負債帳、王位影紋の預託、昼の裁き。

 だが、軽さは長く続かない。影はすぐに次の問いを運んでくる。


 扉口で、駆け足の気配。

 兵が膝をつき、報せる。

「南市の小祠で、司祭が襲撃されました! 犯人は黒衣の一団——“無能神の使徒”を名乗っております!」


 影術師の目が細くなった。

「始まったな。返す秩序に対する、裂く秩序からの反撃だ」


 王は即座に命じた。

「影路監、行け。王は政庁に影賦の臨時布告を出す。商組は水と布を、神殿は祈祷を慰めに限ると触れ回れ。軍は夜間の灯火を増やし、影の長さを測る隊を置け」


 玉座の間を辞し、回廊を駆ける。

 ユイが影に足を半分沈め、「合図、たくさん送る」と短く言った。

 エリシアは商組の札を握りしめ、祠の位置を地図で示す。リクは剣を抜かずに走りながら、角で一度だけ深く息を吐いた。戦より難しいのは、刃を出さずに止めることだと知っているからだ。


 南市の小祠は、古い柘植の木の下にあった。

 境内の影は薄いはずなのに、今日は妙に濃い。祠の前に司祭が一人、血を流して座り込み、その周りを三人の黒衣が囲んでいた。

 黒衣の布は安物だ。だが胸の印はない——欠けた円すら、ない。

「使徒だ」とリクが低く言う。「あの“欠け”すら名乗らない」


 黒衣の一人が顔を上げ、俺を指した。

「器。秩序に代価を立てるとな。無能の痛みを帳簿に載せるのか」

 声音は若い。だが、言葉の重心は極端に低い。底に石を結びつけられたような沈み。

「痛みを数えられた者は、忘れられる」と黒衣は続ける。「忘却は救済だと? 違う。“覚えていない”ことは“なかった”ことになる。ならば正義はどこに置く」


 ユイが一歩出ようとして、俺の袖を掴んだ。

 俺は黒衣に言う。

「正義は“昼”に置く。影は返す場所だ。裁く場所じゃない」


「昼は、俺を無能と呼んだ」と黒衣。

「昼に裁かれ、夜に捨てられた者が、昼に戻れると?」

 彼の背後、祠の影がふっと揺れた。薄暗い中に、小さな影が三つ、四つ。子どもの背丈。

 エリシアの息が詰まる。「……子供を連れてる」


 使徒は袖を広げた。

「器よ。裂けは、痛みを均す。“返す”は、痛みを集める。王は痛みを食卓に置くと言ったな。——腹が膨れた王を、俺は信じられない」


 リクの目が険しくなる。「やめろ。王が痛みを箱に置いてるのは事実だ。飢えた腹と同じぐらい、痛みは重い」

 黒衣は嘲る。

「痛みは腹を満たさない」


 言い返せない真っ直ぐさがあった。

 ユイがそっと、黒衣の子ども影の方へ掌を向ける。

「ねえ。名は?」

 返事はない。影が小さく震えるだけ。

 ユイは小さな声で続けた。

「昼の名を、置いていい? “昼の名”はね、帰る場所を増やすの。夜の名は取らない。昼をひとつ、足すだけ」


 黒衣の若者の肩が、わずかに揺れた。

「……名前で、腹は満たない」


「パンを運ぶ口は、商組が作る」とエリシア。「今日から“影賦”が回る。返礼で出た重みは、まず子どもと病人に配る。帳に品目と重さが残るわ」

 黒衣の視線がエリシアの札と胸のユイの木札に移った。迷いが、一瞬、確かに浮かんだ。

 その刹那、祠の奥で影が裂け、別の手が伸びた。

 細いが、嗅ぎ慣れた匂い——印判の墨。

 俺は反射で影を縫い、手首を絡め取って引きずり出す。

 転がり出たのは、昨日協力者に据えた印判屋の弟弟子だった。目が充血し、笑いが張り付いている。

「帳簿に名が残るのが怖いんだよ!」

 叫びは祠を震わせた。「名さえ抜けば、俺は“無能”じゃない! 影の腹に名が落ちねえ限り、俺は昼に戻れねえ!」


 若い使徒が、一瞬で理解したように弟弟子を見、そして俺を見た。

 その目にあったのは、怒りではなく、諦めだった。

「器。お前の秩序は正しいのかもしれない。だが“追いつかない”間、喰われるのはいつも俺たちだ」

 彼は袖で顔を拭い、子ども影の方へ振り返った。

「行け。昼の名をもらえ」

 子ども影が戸惑い、ユイの掌に寄る。ユイは一人ひとりに短い名を置く。「ミチ」「ハル」「コト」——簡単で、呼びやすく、昼の光に馴染む音。影がふわりと息をする。


 若い使徒は、倒れた司祭を見下ろし、ゆっくりと膝をついて肩を支えた。

「祈れ。慰めの祈祷は否定しない」

 司祭は驚いた目で若者を見たが、やがて指を組んだ。祈りは短く、静かだった。

 影術師が肩の力を抜き、微かに頷いた。


 祠の外に出ると、午後の光が石畳に白く降りていた。

 ユイが小さく囁く。「おじさん。“裂く秩序”は全部間違いってわけじゃないの?」

 俺は空を見上げる。針塔の影は短く、でも確かに伸びていた。

「裂く、返す。どちらも道具だ。問題は、それをどこに置くかだ。王は食卓に置くと言った。俺は……街角に置く」


 エリシアが笑った。「なら、帳簿は掲示板に貼るわ。影賦も、負債も、返礼も。見られる痛みは、独りに乗らない」

 ディールがすでに羊皮紙を広げ、判を押す場所を指で叩いた。

「公開の記録は、影を乾かします。濡れた言葉は腐るから」


 夕刻、王都の掲示板に最初の**影負債帳(こう読ませる者もいたが、子どもは“えいふさいちょう”と声にした)**が貼り出された。

 “影路監調停三号 返還域:東区一の市、返還重:人三十七、荷八、疼:四、影賦:小麦百、布三十、労四十刻、返礼優先:孤児・病者・夜番”

 数字の横に、ユイの丸い字で小さな一文が添えられている。

 「痛み、残しません」


 群衆は数字を読み、短い文を口の中で真似してから、少しだけ肩を落とした。その落ち方は、安堵に似ていた。


 夜。詰所で、箱——王位影紋が静かに光った。

 蓋は閉じたままなのに、影が一筋、箱の縁から机へ垂れている。

 指で触れると、冷たさの奥に微かな温かさがあった。

 箱は問うている。代価を、等価を、置き所を。

 胸の痣が、ゆっくりと応えた。


 窓外、王都の針塔が夜を刺し、細い影が地に降りる。

 今日、俺たちは“返す秩序”の代価を置いた。

 明日、それを払えるかどうかが試される。

 影は、音もなく頷いたように見えた。

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