第27話「影の学校——読み書きと名の縫い目」
反論板と風読台が立ってから数日。
夕暮れごとに子どもが札を読み上げ、老婆や職人が自分の詩や不満を声にする光景は、もはや広場の日常となった。
だが、すぐに問題が浮かび上がる。
字が読めない。書けない。
多くの声が札に残せず、口のまま消えていく。
「声を風読みに乗せたいけど、書けない」
「口の札を人に預けると、違う言葉にされるかもしれない」
そうした不安が積もり、また裂け目のように広がりかけていた。
エリシアが詰所で帳面を広げながら言った。
「商組の倉を教室にしよう。机も板もある。読み書きを覚えれば、誰でも自分で札を残せる」
ディールが頷く。「数字だけでなく、文字の秩序も必要です。記録は読める者が増えるほど強くなる」
ユイは目を輝かせた。「影の学校!」
その名がすぐに広がった。
翌日、広場の脇に掲げられた新しい板に書かれたのは「影の学校・入学自由」。
子どもだけでなく、大人も集まった。
鍛冶屋の親方、洗濯場の女たち、兵士の若者まで。
みな字を覚えたくて、あるいは名を自分で縫いたくて集まってきた。
初めての授業の日。
倉の中に長机を並べ、炭筆と紙切れを配る。
ユイが影で小さな丸や線を描き、子どもたちが真似をする。
「“あ”は影を撫でる形、“い”は影を立てる形」
影を手本にすることで、字を絵として覚えるのだ。
大人たちは最初戸惑ったが、やがて真剣に影をなぞり始めた。
兵士の一人がつぶやく。
「……字を覚えれば、俺の名を自分で残せる」
洗濯女が笑って答える。
「名も残せるし、子に手紙も残せる」
ユイは嬉しそうに手を叩いた。
「名は帰る道。字はその道しるべ!」
だが、その場に現れたのは灰の旗の連中だった。
あの若い男を先頭に、数人が倉の入口に立ち、声を張る。
「学校も帳簿も同じだ! 字を覚えれば、監視が強まるだけだ!」
ざわつく大人たち。子どもが筆を止める。
俺は前に出て、静かに答えた。
「監視になるかどうかは、誰が読むかで決まる。影の学校は“読む力を分ける場”だ。読むのが一部の者だけなら監視になる。みんなが読めば、秤になる」
灰の旗の男はしばし黙り、やがて吐き捨てるように言った。
「……俺は字を覚えたくない。名を縫うのが怖い」
ユイが小さく呟いた。「縫わない名もあっていいよ」
その言葉に、男の肩が僅かに揺れた。
授業の終わり、老婆が炭筆で震える字を書いた。
「わたしの名は“澄”。澄んだ水の澄」
紙を掲げると、子どもたちが一斉に拍手した。
老婆は涙をこぼしながら言った。
「この歳で、自分の名を初めて書いたよ……」
胸の痣が温かく鳴った。
名の縫い目が増えるごとに、影は帰る道を太くする。
その夜。
王位影紋の箱が震え、囁きが届いた。
『名を縫う手が増える。ならば、“縫い違えた名”はどうする?』
痣が灼けた。縫い違えられた名は、別の人を傷つけるかもしれない。
だが俺は答えた。
「間違いも残す。消せばまた裂ける。残し、次に正す秤を置く」
影獣が低く喉を鳴らし、納得するように目を閉じた。
翌朝。
掲示板の横に新しい帳簿が貼られた。
題は**「影の学校帳」**。
そこには、昨日初めて自分で名を書いた者たちの字が、そのまま貼られていた。
曲がった字、震える線。だが確かに自分の手で刻んだ縫い目だ。
群衆は静かに見つめ、やがて一人が声に出した。
「澄……」
その声に重なるように、子どもたちが次々に名前を読んだ。
掲示板の前が、新しい教室になっていた。
夕暮れ。
風読台で、老婆が自分の字を掲げながら読んだ。
「澄。わたしは澄」
その声は震えていたが、広場中に響いた。
人々が拍手する。
灰の旗の男も遠くから見ていた。
表情は複雑だったが、その手には炭筆が握られていた。
第27話ここまで
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