第45話 恥ずかしわんこと、仔犬の冗談
「ふーーっ…………」
俺は細く長く、息を吐き出した。
ゆっくりと湯につかり、身体は芯まで温まった。思わぬハプニングに騒がしかった心臓も、かなり落ち着いている──
と言いたいところだが、まだ少しだけドキドキ感が残っていた。目を閉じれば、うっかり見てしまった沙霧のお尻が頭に浮かんでくる。
小振りで形が良くて、ふっくら柔らかそうなお尻が。
……って、思い出しちゃだめだろうがっ?!
沙霧は去り際に言葉を残していった。あれはたぶん、この後気まずくならないようにという配慮。なら、俺もそれに応えるべきだろう。
「……よし!」
ざばっと湯から上がった俺は、タオルで身体を拭き、ドライヤーで髪を乾かす。なるべく、いつも通りの流れをなぞるように。
リビングに戻ると、沙霧は居眠りをするわんこのようにソファで丸くなっていた。ちらりと覗いて見えているその耳は、先端まで真っ赤に染まっている。どうやらまだ、恥ずかしさが抜けきっていないらしい。
「……沙霧」
名前を呼びながらそっと歩み寄り、沙霧の頭に手を置く。沙霧はピクリと身体を震わせた。
「ただいま、沙霧」
「ご主人様ぁ……おかえりなさいませ。わふん……」
いつもより声が小さい。犬耳はしゅんと垂れ下がり、尻尾は感情の行き場を求めるみたいに持ち上がっては下がってを繰り返していた。
そんな姿に苦笑して、俺は沙霧と目線を合わせるようにソファの前にしゃがみ込んだ。
そしてゆったりと、慈しむようにその髪を撫でる。
「あれからは、いい子にしてたみたいだね? 偉いぞ、沙霧。それに……背中洗ってくれたの、すごく気持ちよかったよ。ありがとね」
「くぅん……♡ いつ──ご主人様は、本当に褒めるのがお上手ですわん……♡ そんなこと言われたら私、調子に乗ってしまいますわんよ?」
「いいよ。むしろそれくらいの方が、沙霧らしいし」
照れくささは、今は全て飲み込んだ。しゅんとしている沙霧よりも、元気にわんわん言っている沙霧の方が好きだから。
「……もう、ご主人様は。こんな気持ちにさせて、ずるいですわんっ♡ 仕返し、してやりますわんっ!」
沙霧は勢いよく起き上がると、なんの迷いもなく、一直線に俺に飛びついてきた。首に腕が回され、頬と頬がぴったりと触れ合う。
「……っとに、甘えん坊なわんこだなぁ」
「えへへ……ご主人様が、私をこんな風にしたんですわん♡ 責任、取ってくださいね?」
首筋に、ほんのりと熱を帯びた沙霧の吐息がかかる。それがくすぐったくて、心地良い。その気持ちを形にするように、俺はしっかりと沙霧を抱きしめた。
「じゃあ、責任を取ってたくさん甘やかすことにするよ。でもその前に──」
「……わん?」
「沙霧も先に、風呂入っておいでよ。あとは寝るだけにしてからの方が、ゆっくりできるでしょ?」
そう言うと、沙霧は少し考える様子を見せ、それから名残惜しそうに俺から離れた。けれど、その瞳はなにか企むように弧を描いている。
「そう、ですね……ご主人様は、ナイトわんちゃんスタイルがお好きでしたわん♡ そんなに早く見たいのですわん?」
「ぶっ……! べ、別にそれで急かしてるわけじゃ……!」
「わん? 別に素直になってもいいんですわんよ? どの道、着るのですし」
「ぐっ……まぁ、可愛いとは、思うけどさ……」
な、なんだこれ……?
恥ずかしがってるのを慰めようとしただけなのに──いつの間にかおもちゃにされてるじゃん……。
いや、でも……いいのかな?
沙霧が楽しそうだし。
これも惚れた弱みというやつなのか、くすくす笑う沙霧を見ていると、なにもかも許してしまう。とはいえ、ほどほどにしておいてもらわないとこっちの身が持たない。
「なんでもいいから……冷める前に入っちゃってよ」
「はぁいっ♡ 私が戻るまで、ご主人様は決して中を覗いてはだめですわんよ?」
「それは……フリかな?」
というか、鶴の恩返し的な感じか……?
布でも織ってくれるつもりなのか、もしくは、覗けばたちまちどこかへ去ってしまうのか。
なんにせよ、さっきの意趣返しをしてやると、沙霧はぽっと頬を赤らめた。
「……ご主人様、意地悪ですわん♡ でも、いいですわんよ、フリと受け取っていただいても。ただし──」
沙霧はそこで一呼吸置き、にやりと口元を歪めた。さらに、するりと身を寄せてくると、耳元でぽしょりと囁く。
「その時は、仔犬が産まれてしまっても構わないという覚悟を持って、来てくださいませ……わんっ♡」
その瞬間──ぞわりと、全身の皮膚が粟立ったのを感じた。
こ、ここ、仔犬って……?!
なんてこと口走ってんのっ?!
わんこモードで濁せば、なに言っても許されるとでも思ってるわけぇっ?!
俺は頭が沸騰しそうになりながら、沙霧の肩を掴んで強引に引き剥がした。
「バカなこと言ってないで、早く行ってきなさーーーいっ!」
叫びと一緒に心臓が口から飛び出そうで、声が上ずった。なのに、沙霧は嬉しそうに身体をくねらせる。
「きゃんっ♡」
「きゃんっじゃないのよっ!」
「あはっ、やっぱりご主人様は冗談の通じない人ですわん♡」
「冗談でも言っていいことと悪いことがあるだろがいっ!!」
「きゅーん……♡ これですわん♡ 楽しいですわんね、ご主人様?」
もう無理っ……!
これ以上は、まじでっ!
心臓、壊れちゃうからぁっ!!
にっこりと微笑む沙霧を前に、もはや白旗を掲げるしかなかった。それと一緒に、囮のエサをぶら下げる。
「はいはい、楽しい楽しい……だからほら、さっさと行っといでって。戻ってきたら、また髪乾かしてあげるから」
「わんっ♡ ご主人様に可愛がっていただくために、早急に全身きれいきれいしてきますわんっ♡」
沙霧がたっとリビングを飛び出していって、階段を駆け上がる足音が聞こえてくる。たぶん、俺の部屋に置きっぱなしの着替えを取りに行ったのだろう。
それからしばらくすると、今度は階段を降りてくる足音。なぜか風呂場のあたりで止まらずに、どんどん近付いてくる。
やがて、リビングのドアが開き、ぴょこんと沙霧の顔が覗いた。その顔は、ほんのりと赤く、どこか恥ずかしげだった。
「……どうしたの?」
「えっと……えへへ。行ってきますね、樹くんっ♡」
「えっ、うん、いってらっしゃい────んんっ?!」
違和感に気付いた時には、沙霧の姿はドアの向こうに消えていた。一人残された俺は、首をひねる。
なんで今、このタイミングで……。
俺のことを『樹くん』って呼んだの……?
わからない。わからないけれど──
沙霧との心の距離が、ぐっと近くなったような気がして。
裸を見られた時とも、見てしまった時とも違う動揺と、穏やかな幸福感が胸に満ちていった。
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