第44話 湯けむりわんこと、甘い結び目

「ご主人様ぁ、きれいに流し終わりましたわんっ♡」


 そんな声とともに、頭に浴びせられていたお湯が途切れた。背中を伝っていく温かな感触が消え、髪から床に滴る水音だけが、妙に大きく響いている。


 俺はまだ目を開けられずにいた。


 ヒタ、ヒタ、と足音が正面に回り込んできて──熱を帯びた気配がぐっと距離を詰めてくる。


 そして前髪が、指先でそっとかき上げられた。


「……もう、目を開けてもいいんですわんよ?」


「いや、でも……」


「まったく、往生際の悪いご主人様ですわん」


 そりゃそうだ。


 これまでの沙霧の行動を振り返れば、全裸で立っている可能性が高いことくらい、容易に想像できてしまう。わんこモードがデフォルト化して、羞恥心をなくした沙霧なら本当にやりかねない。


 正直に言えば──見たい。


 けれど、見たら最後、冷静でいられる自信がない。今だって、限界ギリギリなのに。


 身動き一つできずにいると、耳をふわりと吐息が撫でた。


「……気になってるくせに、ですわん♡」


 ぞくり、と背筋が震える。


 その挑発じみた囁きが、俺の中に残っていた理性をぐらぐらと揺るがし、簡単にヒビを入れた。


 そうかそうか……なるほどね。

 沙霧がそのつもりなら──


 それは怒りか欲望か。よくわからないなにかに突き動かされて、勢いよく目を開いた。一瞬、なにも見えなかった。湯気がゆらりと揺れ、やがて視界がゆっくりと形を映し出す。


 現れたのは真っ白な──


「……バスタオル?」


 呆然と呟きながら視線を上げていくと、沙霧がにんまりと微笑んでいた。その表情はまさに、「してやりましたわん♡」と言っているようだった。


「わふん♡ やっと見てくれました♡ えへへ……さすがに隠さずに突撃したら怒られるかと思いまして、バスタオルを巻いてきましたわんっ♡」


「あ、そうなんだ……」


 どっと安堵が押し寄せてくる。


 だが同時に──そこはかとなく漂う危うさに気付く。


 いや、一応隠せてはいるけど……。

 

 タオルの巻き付け、甘くないっ?!

 胸元、呼吸のたびに弾けそうだけど?!


 しかも、腰回りもギリギリなんだけど?!

 丈が……足りてない。絶対に足りてない。


 諸々アウトなところは見えていないはずなのに、全裸よりもむしろ危険かもしれない。


 動揺する俺をよそに、沙霧がもじもじし始めて──


 タオルの結び目がさらに緩んだのは、たぶん気のせいじゃない。


「くぅん……♡ そんなに見つめられると照れますわん♡ でも、仕方ありませんよね。ご主人様、興味がおありだと言ってましたもの。いかがでしたか? ドキドキしていただけましたわん?」


「するに決まってるわぁっ!! 沙霧が入ってきてから、ずっとしっぱなしだよっ!」


 あぁ……どうあがいても勝てない。

 このわんこ、まじで手強すぎるって。


 がっくりとうなだれると、ぽんぽんと頭を撫でられる。嬉しい。嬉しいけど──


 やっべ。俺、まだ丸出しのままじゃん。


 ……でも、もういいか。


 だって三日連続で見られてるし。

 通常時から、フォームチェンジまで全部……。


 全てが今更すぎて、隠す気も消え失せてしまった。それをどう誤解したのか、沙霧は楽しそうに尻尾を揺らす。


「わふん♡ それでは、改めてお背中流させていただきますわん♡」


 沙霧はボディソープを手に取り、泡立てネットでふわふわできめ細かい泡を生み出していく。


「ご主人様ぁ、失礼いたしますわんっ♡」


 泡にまみれた沙霧の手が、俺の背中の上を滑る。タオルは使わないらしい。


 大切なものを扱うように、優しく触れてくる指先が少しくすぐったい。でも──


「気持ちいいですわん?」


「うん……すごく、いいかも」


 好きな女の子が、背中を洗ってくれている。その心地良さだけで、なにもかも許してしまいそうだ。


「それはなによりですわんっ! たくさん癒されてくださいね♡」


 沙霧は調子に乗ったのか、だんだんと動きを大胆にしていく。


 首筋を、それから肩を、揉むように洗ってくれる。さらに、背中を隅々まで余すことなく。


「んしょ、んしょっ! ご主人様の背中は大っきいですわんね」


「そう、かな? 普通だと思うけど……」


「そんなことないですわん♡ なんだか逞しくて、素敵ですわん♡」


 沙霧が言葉を発するたびに背中にかかる吐息が、やけに甘い。見えていないのに、沙霧が微笑んでいるのがわかる。


 洗われているうちに、じわじわと緊張が解けていく。凝り固まっていた疲れが、肩のあたりからするりと抜け落ちていくようだった。


 沙霧に疲れさせられて、沙霧に癒される。


 あれ?

 これって……マッチポンプっていうんじゃないの?


 …………。


 まぁなんでもいいか、気持ちいいし。


 快楽の前には、些細な疑問なんてすぐさまかき消される。俺はただ、背中に触れる沙霧の手の感触だけにひたっていた。


「わふんっ! こんなもんですかね? ご主人様、痒いところはないですわん?」


「うん、ないよ。ありがと」


「わんっ♡ では、このまま前も洗いますわん♡」


「じゃあお願いしようかな──って、そうはなるかいっ!」


「きゃんっ♡」


 うわぁ、あっぶねぇっ……!


 なに、この自然すぎる誘導は?!。

 頭ゆるゆるにさせておいて、丸洗いするつもりだったのか?


「もう……ご主人様ってばぁ♡ 冗談に決まってますわんっ♡」


「もてあそばれた?!」


 いや、冷静になれ!

 もしここで頷きっぱなしだったなら、沙霧は本気で洗いにきたはずだ。


 寸前で気付けた俺、偉いっ!


「というわけで……泡、流しますわんっ♡」


「……了解」


 シャワーからお湯が降り注ぐ。温かい水流が背中に当たるたび、泡が排水口へと流れていく。


 沙霧の手がボディソープを落とすように、肩や背中を撫でる。くすぐったいような、落ち着かないような感覚が全身を駆け巡った。


「──はいっ、流し終わりましたわんっ!」


 仕事をやり遂げて、満足そうな声。そして、なぜか声が弾んでいる。


「では、私は戻りますわん。ご主人様はゆっくり温まってくださいませっ♡」


 そう言って、軽やかな足音を立て離れていく沙霧。


 カチャリとドアが開き、ようやく天国と地獄が入り混じった時間が終わろうとした、まさにその瞬間──


「にゃんっ……?!」


 にゃんこが鳴いた。


 おかしいな……。

 うちにはわんこしかいないはずなのに。


 振り返って見れば、結び目の解けたバスタオルがひらりと揺れる。白い肩と半ばまで露出した背中、そして、ふわりと丸みを帯びた──


「あわわわんっ……?!?! ご主人様ぁ、見ちゃだめですわんっ!!」


「えっ、いやっ、ごめっ……!!」


 慌ててタオルを抱きかかえて背中を丸める沙霧、俺も反射的に顔を背けた。けれど、すでに記憶にはっきりと焼きついてしまっている。


 あれは──沙霧のお尻だった。


 背後でぱたんとドアの閉まる音。一人取り残されて、俺は途方に暮れる。


 あのポンコツわんこめ、最後の最後でやらかしやがった……。

 なるべく見ないようにしてたのに。


「はぁ……」


 ため息をつくと、再びドアが開いて沙霧が顔だけ覗かせた。耳まで真っ赤にして、拗ねるように唇を尖らせて、ぽつりと呟く。


「ご主人様の、えっち……♡ でも、事故ですので、気になさらないでほしいです。それに、これでお相子……ですわん♡」


 潤んだ瞳に見つめられて、俺は激しく首を縦に振る。沙霧は少しだけ視線を泳がせながらも、ふにゃりと微笑んで──


 今度こそドアの向こうに姿を消した。かすかな衣擦れの音がして、パタパタと駆けていく足音が続く。


 俺は無心で残った部分を洗い、湯船に身体を沈めた。そしてそっと、心の内を吐き出す。


「なんだ、沙霧も恥ずかしかったんじゃん。なのに無理して……馬鹿だなぁ、本当。でも、可愛かったな……」


 くすりと、笑い声がもれた。それは浴室に反響して、やがてゆっくりと湯気の中に溶けていった。

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