第43話 シュレディンガーのわんこと、三度目の正直

 しぶとい残暑に負けじと稼働中のエアコンの風に、干した洗濯物がひらひらと揺れている。


「ふぅ……お仕事、完了ですわんっ♡」


「うん……お疲れ様」


 ソファに沈み込んだ俺の横で、沙霧が満足げに両手を腰に当てて胸を張る。


 なるべく見ないようにしているのに、ふとした瞬間に視線が吸い寄せられる。だが、これは不可抗力なのだと強く主張したい。


 動物というものは、本能的に動く物に注視する習性を持っている。人間とて動物の一種、その本能には逆らえない。決して、下心があるとか、沙霧の下着に興味津々というわけでは──


 ないこともないけどさぁ……。

 だって俺、沙霧のことが好きなんだもんっ!

 あんな堂々と干されたら、どうしても気になっちゃうっじゃん!


 立派なご主人様であろうとすればするほど、沙霧のポンコツ行動によって、理性が軋んで悲鳴を上げる。


 あぁもう……おかしくなりそう。


「……はぁ」


 ため息をつくと、沙霧も隣にちょこんと腰を下ろし、肩をくっつけてくる。


「ご主人様ぁ、お疲れですわん?」


「まぁ……そりゃ」


「そうですわんね! あれほど美味しいお料理を作ってくださったのですから、疲れるに決まってますわんっ♡」


「いや、料理は関係ないけど……?」


「じゃあ、なにが原因なんですわん?」


「……なんでもないよ」


 その原因は他ならぬ沙霧なのだが、言ったところで無駄なことはこの数日で身に沁みた。どうせ叱っても、喜ばせるだなのだから。


 『きゃいん♡』と鳴く沙霧は可愛いが──


 手に負えない。なのに、そんなところも含めて好きになってしまった自分に、またため息がもれる。


 沙霧は小首を傾げて、不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。


「おかしなご主人様ですわんね。でも、もし本当にお疲れなのでしたら、お風呂に入ってくるといいですわん。きっと疲れが取れますわんよ?」


「あー……そうしようかなぁ」


 このまま寝落ちでもしてしまえば、入るのが面倒くさくなりそうだし。


「わんっ♡ では、入れてきますわんっ!」


「あっ、もう栓はしてあるから、キッチンのパネルで給湯ボタン押すだけでいいよ」


「かしこまりですわんっ♡」


 たたっと駆けていき、すぐに戻ってくる。もちろん、またぴったり身体を寄せて。


「押してきましたわん♡」


「ありがと、沙霧」


 今は立ち上がるのも億劫なので、こうしてぱっと動いてくれるのはとても助かる。ご褒美に頭を撫でてやると、沙霧はふにゃっと頬を緩めた。


「えへへ……」


 沙霧は身体を擦り寄せながら見上げてきて──


「お風呂がわいたら、一緒に入りますわん?♡」


「うん、そうだね────えぇっ?!」


 いきなりなに言い出してんの?!

 つい普通に頷きかけたじゃん!


「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか。二度も裸を見た仲ですのに、ご主人様は恥ずかしがり屋さんですわんね♡」


「それ掘り返すのもうやめてぇっ!!」


「ふふっ、照れちゃって可愛いですわん♡」


 このわんこは本当にっ……!

 どこまで俺を振り回せば気が済むんだ!


 ここは一つ、ご主人様としてビシッと言ってやるべきだろう。


「沙霧、お座りっ!」


「わんっ♡ ──って、最初から座ってますわん」


「いいからよく聞くっ!」


「わふん?」


 沙霧はきょとんとした顔で首を傾げた。


 可愛すぎるだろ、ちくしょうっ!

 正直、たまらんっ!


 ……でも、今回は負けるわけには!

 なにがなんでも、ご主人様としての威厳を守るのだ!


「今日は、絶対に風呂に突入してこないこと! 俺が戻ってくるまで、ここでいい子にしてるんだよ?」


「わかりましたわんっ♡」


 顔の横に丸くした手を掲げ、わんこ式敬礼をする沙霧。ここまではっきり言ったのだから、たぶん大丈夫だろう。


 沙霧は本来、しっかりと言い聞かせればわかってくれる、賢いわんこなのだから。


「じゃあ、準備して行ってくるから、くれぐれも──」


「わかってますわんっ♡ ご主人様は心配性ですわんね」


「誰のせいだと……って、もういいや」


 ここでの問答は、あまり意味がない。それよりも今は、ゆっくり湯につかって疲れを癒やしたい。


「いってらっしゃいませーっ、わんわんっ♡」


 やけに楽しそうな沙霧の声を背中に、自室で着替えを取って風呂場に向かう。脱衣所で服を脱ぎ捨て、カゴに放り込んでドアを開けると──むわりとした熱気と湯気が俺を出迎えた。


「ふぅ……落ち着くなぁ」


 好きな女の子と二人で過ごす時間は、もちろん格別だ。けれど、振り回されっぱなしでは身が持たない。時には一人の時間も必要なのだ。


 俺は蛇口をひねり、頭からシャワーを浴びる。最初に頭を洗うのがいつもの順番だ。


 わしゃわしゃとシャンプーを泡立てていると気分が良くなってきて、つい歌なんか口ずさんでみたりして──


 すぱーんっ!


「ご主人様ぁっ♡ お待たせですわんっ♡」


「……は?」


 ドアの開く音とともに沙霧の声が浴室に響き渡り、俺は凍りついた。洗髪中で、目を閉じていたのも良くなかったのかもしれない。事態が、全く飲み込めない。


「えっと……沙霧?」


「わんっ♡ ご主人様のわんちゃんの、沙霧ですわんっ♡」


「……なんで、来たの? 今日はだめって──」


「えぇ、もちろんよーくわかっておりますわん♡ あれが、フリだったということは」


「フ、リ……?」


 …………。


 なんてこったい。


 きっちり言い聞かせたつもりだったのに、真逆の解釈をしていたって……?


「んなわけあるかぁーーーいっ!! だめって言ったらそのまんまの意味なんだよぉっ!!」


「わん? ですが、二度あることは三度あるとも言いますし、天丼は鉄板ですわん」


 だめだこのわんこ。

 笑いというものを熟知しすぎている。


「……三度目の正直であってほしかったよ」


「もちろんそちらもわかっておりますわん♡ 私ばかり見てしまっていますので、今回は……」


「や、ちょ……まさか」


 沙霧の言う三度目の正直って……。


 初めて見られた時、なんて言っていたっけ……?


『──裸には裸をもって償うのが』


 これかっ?!

 ということはつまり──


 沙霧も、脱いでるのっ?!


「気になりますわん?♡」


「え、いや……それは……」


「きゅーん♡ ご主人様のご立派が、さらにご立派になりましたわん♡」


「やめっ、そこは見るなぁーーーーっ!」


 視覚を自ら封じている俺は、またしても無防備に裸体を晒していたらしい。けれど、このパニック状態ではタオルがどこにあるのかもわからない。


 万事休す、いや、もう手遅れか。

 どう考えても終わってる。俺の全方向が弱点だ。


 うぅ……また、見られた……。


 恥ずかしいのに、なぜか嬉しくなっている自分もいて、強く怒れない。閉じたままの瞳から涙がこぼれ落ちそうになった瞬間──


「わかりましたわん♡ もう見るのはやめますわんっ」


 ポンと、肩に触れられた。


「沙霧……」


「わんっ♡ その代わりに、お背中ながさせてくださいね。わがまま全部、聞いてくれるって約束ですわんっ♡」


「うわ、それずるっ!!」


 ここでそのカードを切ってくるのは反則だろう。しかし、許したのは俺自身。沙霧を追い出すための手札は、なにも残されていなかった。


「私だって、お疲れのご主人様を癒してさしあげたいんですわん♡ ではっ、手始めに頭をすすがせていただきますわーんっ♡」


「そんないきなりっ?!」


 どこに向かっているのかは不明だが、沙霧の暴走が止まらない。俺の頭に、シャワーでお湯をかけ始めた。


 もう、逃げられない。


 今はまだ、シュレディンガーの沙霧。観測するまでは、どちらか定まらない。沙霧が動いた時の、ヒタヒタという足音が、俺の鼓動を速めていく。


 視界が戻ったら、俺はどうなってしまうのか──


 そんな不安の中、俺は固く目を閉ざしていた。

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