第46話 揺れるわんこと、正当なわがまま

 沙霧は光の速さで──と言うほどではないが、俺が想像していたよりも数倍早く風呂から帰ってきた。さっき一瞬だけ垣間見えた普通の女の子の顔なんてなかったみたいに、完全無欠なわんこモードで。


「ご主人様ぁっ♡ ただいま戻りましたわんっ♡」


「うん、おかえり──いぃっ?!」


 沙霧をソファで出迎えた俺は、思わず上ずった声で叫んだ。


 沙霧がまた、当然のようにナイトわんちゃんスタイルで俺の前に現れたのだ。


 胸元が相変わらず危うい。

 おまけにパタパタ走ってくるせいで、裾が揺れて太ももがちらちらと──


 いやいやっ、破壊力どうなっとるっ?!

 わかってたけど、目に毒すぎるんだがっ?!


 なのに目が離せない、悲しき男の性よ……。


 本人の宣言通り、今日も今日とて沙霧の寝間着はベビードールだった。昨日のピンク色から変わり、今日は水色──爽やかな色合いに反して、色気が反則的すぎる。何度見ても、これは慣れそうにない。


 けれど、服装と相反する無邪気さ満点の行動と表情。そのチグハグさがギャップとなって俺を襲う。


 頭、バグりそう……。


「あおーーーんっ♡ 約束通り、髪乾かしてくださーいっ♡」


 沙霧はドライヤーを片手に、濡れた髪を翻しながら、ソファに座る俺に見事なわんこダイブをかましてきた。

 

 一度これで俺を沈めているというのに、懲りないわんこである。


「ちょっと、沙霧っ?! 危ないから、ダイブ禁止っ!」


「くぅん……♡ 喜びが抑えきれませんでしたのっ♡」


「……いつか俺が死んでもいいの?」


「はっ……! それはいけませんっ、気を付けますわんっ!」


 なーんて言っているけどさぁ……。

 またやるんだろうなぁ、きっと……。


 俺は深くため息をついた。


 もちろん、沙霧にも賢い部分はある。それでも、根っこはポンコツわんこなのだ。俺もだんだんと、言っても無駄だと身に沁みてわかってきた。


「頼むよ、本当に……俺、まだ死にたくないから」


「そんなことよりっ、早くご主人様にお手入れしてもらいたいですわんっ♡」


 ほら見ろ、もう反省タイムが終わってるし。

 精神的にも物理的にもダメージを与えてくるとは、凶悪すぎる。


 そういえば、猛犬注意の札を用意するの忘れてるや。あれって、どこで手に入るんだろ?


 まぁいいか。

 どうせ今からじゃ買いに行けないし。


「……はいはい。んじゃ、そこ座って」


「わんっ♡」


 ソファの前を指すと、沙霧は俺の脚の間にすっぽりと身体を収めた。火照った身体から、風呂上がりのいい匂いがふわりと漂う。


 シャンプーやコンディショナー、ボディソープまで俺と同じものを使っているはずなのに、不思議でしょうがない。しかし、今はこの猛犬わんこを焦らす方が危ない。


 俺は速やかにドライヤーをコンセントに繋ぎ、スイッチを入れる。温風を向けた途端にふにゃりと蕩けた沙霧は、くったりと俺に身体を預けてきた。


「ふあぁ……♡ 最高ですわん♡」


「そりゃよかったね……」


「わぅんっ♡」


 沙霧は短く返事をしながら振り返り、ほんのりと上気した頬をでれっと緩めた。


 うわぁ……やばい。

 わかってたけど、風呂上がりは余計に……。


「と、ところで沙霧……随分と早く戻ってきたけど、しっかり温まったの?」


「もちろんですわんっ! ちゃんと肩までお湯につかって、十まで数えましたっ!」


「早く風呂から出たいちびっ子かっ?! というか十秒って短っ! そんなんじゃ全然温まれてないでしょっ?!」


 たった一言で、俺に三つもツッコミを入れさせるとは、沙霧恐るべし。そんな沙霧は珍しく喜びの鳴き声を上げなかった。


「私、ちびっ子じゃないですし……今はお風呂なんかで時間を無駄にはできませんものっ!」


「え、なんで? 風呂くらいのんびり入ったらいいのに」


「あんまりのんびりしていたら、今日が終わってしまうじゃないですわん……」


 そう言って、沙霧は拗ねるようにちょこんと唇を尖らせた。


「私、もっとご主人様と一緒にいたいですわん……もっともっと、甘えたいんですわん……」


「あー……そういうこと……」


 なんて健気でいじらしいわんこだろう。


 その前から散々わがまま放題に甘えてきたくせにと呆れる気持ちもないでもないが、そんな可愛いことを言われたら俺だってたまらない。


「今日が終わったからって……沙霧のわがまま聞かなくなるなんてことはないよ?」


「ご主人様ぁ……♡ ──はっ?! だ、だめですっ、そういうことではないのですわんっ!」


「なにがだめなのさ……?」


 今の沙霧は俺の愛犬という体なわけだし、そうじゃなくても好きな女の子には変わりない。甘えたいと言ってくれるのなら、どこまでも甘えさせてあげるのに。


 けれど、沙霧はそれを拒むように、犬耳を揺らしながらぷるぷると首を横に振った。


「だって……これは私達の秘密を無事に守り通して、それで勝ち取った正当なご褒美なのですっ! ご褒美という名目があるからこそ、遠慮せずに甘えられるのですわんっ!」


「ご褒美じゃなくても全然遠慮してなかったよねぇっ?!」


 沙霧の言いたいことは理解できる。できるが、ツッコまずにはいられなかった。だって、前提条件が破綻しているから。


 そういうのは、ずっと我慢していた人が言うセリフであって、沙霧みたいにずっとやりたい放題やっていた子が言うものじゃない。


 だが沙霧は、どうやらこの部分に並々ならぬこだわりがあるらしい。小さく唇を噛み、わずかに俯いた。


「樹く──ご主人様から見たらそうかもしれませんが……全然違うのです。少なくとも、私にとっては」


 沙霧は前を向いたまま、照れ隠しのように前髪を指に絡めてもてあそぶ。


 ……全くわからん。


 それに、わんこモードに生じている綻びも気になる。考えあぐねた俺は、沙霧の髪を乾かしながら黙り込み──


 なんとなく、気まずい沈黙が流れた。


 それを打ち破ったのは、沙霧のかすかな笑い声だった。


「ふふっ……結果が同じでも、過程が違えば別物になるんですよ?」


「そういう、もん……?」


「そういうものなんです。そのプロセスこそが、なによりも大事なのです。まったく……ご主人様は、雌犬心というものがわかっていないですわん♡」


「なんで俺が呆れられて──って今、自分で雌犬って言ったっ?! それ、意味わかって使ってる?!」


 沙霧のワードセンスが独特なことは知っていたが──


 雌犬はだめだろっ、雌犬はっ!!

 色々アウトだよっ、女の子的にっ!


「もう、細かいご主人様ですわんね。乙女心とでも言えばご満足いただけるのですわん?」


「最初からそう言おっ?!」


「やれやれ、ご主人様には遊び心というものが足りていないと思うのですわん。でも、そんな真面目なところも──」


「……なに?」


 急に落ちたトーンを疑問に思い問い返すと、正面から目をじっと覗き込まれる。沙霧の瞳は大きくどこまでも澄んでいて、俺の全てを吸い込もうとしているようだった。


「…………なんでもないです。それより、そろそろ髪、乾いたんじゃないです?」


「えっ、うん……だいたい乾いた、と思うけど……」


 ひたすらドライヤーを当てていた沙霧の髪は、温風に吹かれてさらさらと流れていた。クセのない艷やかな黒髪。どこに出しても恥ずかしくない、美しい毛並みだ。品評会に出したら、きっと賞を総嘗めにしてしまうことだろう。


 そっと指を通すと、沙霧がくすぐったそうに身体をよじった。


「くぅん……♡ 髪はもういいですからぁ、次のお願い、聞いてほしいですわんっ♡」


「これ以上、俺になにをさせるつもり……?」


 三度も全裸を見られているのだから、それよりも過酷なことは起こるまい──なんて油断は決してしてはいけない。沙霧は俺の想定を軽々と超えてくるのだから。


 恐る恐る問うと、沙霧はひょいっと立ち上がる。


「わんっ♡ 寝る前には絶対すること、ですよ。ついでに、今の話を実証してさしあげますわんっ♡」


 俺からドライヤーを奪い取ってリビングを出ていき、そして、尻尾をふりふりしながらすぐに戻ってきた──


「ご主人様ぁっ♡ 歯磨き、してほしいですわんっ♡」


 そんなよくわからん要求とともに。沙霧の手には、しっかりと歯ブラシが握られていた。

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