第39話 犬舌わんこと、出汁万能説
『猫舌』というは、熱い食べ物や飲み物を苦手とする人を指す言葉である。そもそも、猫は熱い物を口にする動物ではないので、苦手なのも頷ける。そしてそれは、犬とて同じことだろう。
つまり沙霧は、自分がわんこであることから、猫舌をもじって犬舌という言葉を生み出し──
「ご主人様にふーふーしてもらわないとだめなお口のことですわんっ!」
え……なにそれ?
俺が思ってたのと全然違うんだけど。
そんなわがままで甘えん坊なお口、ある?!
「ねぇご主人様ぁ……早くぅ……」
きゅるんとした瞳で見上げてくる沙霧に、俺は考えることを放棄した。
いや、それくらいするけどね……?
まったく、困ったわんこだ。
「しょうがないなぁ……」
俺は突き返された小皿に何度か息を吹きかけてみるが、その前からすでに湯気は立っていなかった。少量取り分けた時点で、かなり温度は下がっていたのだろう。
「はい、これでいい?」
とんだ茶番である。けれど、沙霧は嬉しそうに目を細めて受け取った。
「わんっ♡ ありがとうございます! いただきますわんっ」
小皿を傾けた沙霧の口の中に、黄金色の出汁が吸い込まれていく。そして、じっくりと味を確かめるように目を閉じた。
「……どう?」
「ほあぁ……美味しいですわん……♡ 香りが口いっぱいに広がって、旨味が舌の上で弾けましたわん……♡」
わん語を除けば、文句のつけようのない食レポだ。沙霧が気に入ってくれたことに安堵して、俺は短く息を吐いた。
「よかった。じゃあ今日は、これをベースに作っていくからね。まずは炊き込みご飯をセットしようか。沙霧はお米を研いでくれる? あっ、二合でね」
「わふんっ♡ お任せですわんっ!」
沙霧はゆらりと上機嫌に尻尾を揺らして頷き、米を研ぎ始める。その間、俺は調味料の準備。出来立て熱々の出汁に氷を当てて冷やしつつ、薄口醤油やみりんを計量していく。
そして、ふと思う。
あぁ……楽しいなぁ。
──って。
騒がしくて、ちょっとおバカで、でも温かくて。沙霧を拾ってからまだ三日目だというのに、驚くほどにこの関係に馴染んでしまっている。
俺のわんこだなんて宣言してしまったが、冷静になって考えれば、こんな時間が永遠に続くわけはない。
俺はたまたま、家出少女を拾っただけ。いつか原因の問題が解決すれば、沙霧は自分の家に帰ってしまうだろう。
その瞬間を想像すると、震えそうなほどの寂しさに襲われる。その後の俺達の関係性が、どんな形になるのかに関わらず。
だって沙霧は、本来一人きりだった俺の時間を埋めてくれたから。沙霧が転がり込んできてくれたおかげで、少しだけわかった。一人は、寂しかったんだって。
だからこそ──今という時間を大切にしたい。いつか振り返った時に、沙霧にも特別だったと思ってもらえるように。
差し当たっては、沙霧のほっぺが落ちてしまうような料理を一緒に作ることだ。
「ご主人様ぁっ、できましたわん!」
「うん、ありがと。優秀なわんこがいてくれて助かるよ」
ツヤツヤに研がれたお米の入った釜を受け取り、ご褒美に頭を撫でてやる。
「これくらいお安い御用ですわん。あおーーーんっ♡」
「こらこら、遠吠えしないの。近所迷惑になるし、料理中にふざけると危ないよ」
「わふんっ♡ 褒められたのが嬉しくってつい! えへへ……ごめんなさぁいっ」
謝りながらもくすくすと笑う沙霧に、俺もつられて笑みをもらす。
「真面目にやらないと、ごはんの時間がどんどん遅くなるよ。ほら、これをお米に注いで軽くかき混ぜて」
「わんっ!」
研がれたお米が、たっぷりと出汁を使った調味液に浸された。その上に鶏肉とごぼう、人参に油揚げを散らしたら、あとは炊飯器にお任せだ。
「さて、次は唐揚げの下味を付けようか。ここでも出汁を使っていくよ」
「唐揚げに、お出汁……ですわん?」
「うん、あんまり一般的ではないかもしれないけど、これが結構美味しいんだよ。まぁ見ててよ」
鶏肉を小袋に放り込み、出汁と生姜、塩を少々加えてよく揉み込む。それを見て、沙霧は目を丸くした。
「えっ、それだけですわん?!」
「うん、これだけだよ。味は保証するから、安心してよ」
「別に疑ってはいませんが……」
そもそも鶏もも肉は旨味の強い食材なので、唐揚げにするのであれば、醤油と酒、生姜やニンニクなんかを使用するものが多いだろう。
俺も、普段はそっちをメインに作る。
ただ今回は、さらに旨味を追加することで塩味を控えめにして、さっぱりしつつも味わい深い唐揚げにするのが狙いなのだ。
「よし、これは少し寝かせておいて──さらに天つゆを作っておこうか。ここでもまた出汁の出番だよ」
「またお出汁ですわんっ?!」
「天つゆに出汁は普通でしょ?」
「それはそうかもしれませんが……お出汁の万能さに驚きを隠しきれないだけですわん……」
「大袈裟だなぁ……でも、今日はそれを主軸に献立を考えたから当然かもね。そもそも和食は出汁を使うものが多いし」
そんな会話をしながら、小鍋に出汁を注ぐ。醤油とみりんを加えて、一煮立ちさせたら出来上がりだ。
「わふん……♡ ずっと美味しそうな匂いを嗅いでたら、お腹が空いてきましたわん」
さっきから鼻をひくひくさせっぱなしの沙霧が、お腹を押さえて呟いた。沙霧の腹の音を思い出して、俺もつい笑ってしまう。
「あはは、もう少し我慢してよ。ご飯が炊けそうになったら、天ぷら揚げるからさ。それまで待っててね」
「はぁい……楽しみに待ちますわん」
「ん、いい子いい子」
沙霧の頭を撫でると、調理中の真面目さは一気に霧散していく。代わりに、沙霧の顔がでれっと崩れた。
「きゅーん♡ ご主人様のよしよしも、私にはご馳走ですわん♡」
「いや、これを食べ物と同列にされても……」
「どちらもご主人様に与えていただいているものという点では同じですわんっ♡ ご主人様っ、ご主人様ぁっ♡」
叫びながら飛びついてきた沙霧を、どうにか受け止める。その拍子に鍋の取っ手にぶつかりそうになって、ヒヤリとした。
「わっ?! ちょっと沙霧っ?! 危ないって!」
「あっ、ごめんなさい……」
「もう……キッチンで暴れたらだめだよ。そういうことがしたいなら──ほら、こっちにおいで」
俺は沙霧の手を引いてキッチンを抜け出し、リビングのソファに腰を下ろした。そして、沙霧を横抱きにして、膝の上に乗せる。
「はわわっ……?! ご、ご主人様ぁっ?!」
「なに? 甘えたかったんじゃないの?」
「そうですけどぉ……重く、ないですわん?」
「沙霧は軽いし平気だよ。それに──俺も大事な愛犬を可愛がりたいから」
普段の俺なら、恥ずかしくてとてもこんなことはできなかっただろう。たとえ、沙霧をわんことして認識していたとしても。
でも、さっき別れを想像してしまったせいか、少しでも沙霧を近くに感じたかった。抱きしめて、髪を撫でて、その甘い香りで胸を満たして、俺の中に沙霧を強く刻みつけたかった。
「あぅ……今日のご主人様は、甘やかし上手ですわん……♡」
「……いやだった?」
「んーん、そんなことないですわん。こうしてもらっていると安心して、でもとってもドキドキしますわん♡」
そう言って、沙霧はくてっと俺に身体を預けた。
しばしの時間潰し。けれど、なによりも大切な存在が腕の中にいる、幸せな時間。
炊き込みご飯の匂いが漂い始める中、俺と沙霧は少しだけ速い心臓の鼓動を重ね、静かに寄り添う。
付き合ってもいないのに、こうして好きな女の子を抱きしめられる『わんこモード』を発明してくれた沙霧に感謝しながら。
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