第40話 揚げ物わんこと、垣間見えた素顔
しばらく、ソファの上で二人して動かなかった。
俺は膝に沙霧を乗せたまま、その髪をゆったりと慈しむように撫でている。沙霧はほんのりと熱を持った身体を俺の胸に預け、ただ静かに目を閉じていた。
ずっとこうしていたい──そう思うのに、沙霧の甘い香りを上書きするように、炊飯器が吐き出す炊き込みご飯の匂いが部屋を満たしていく。
少し、のんびりしすぎたかな……。
たぶん、炊き上がりは近い。俺は頭を撫でる手を止めて、沙霧の頬にそっと触れた。
「……沙霧。そろそろ夕飯作り、再開しようか」
「わふん……もうちょっとだけ、このままでも……」
「だーめ。遅くなると、また沙霧のお腹が鳴っちゃうよ?」
「うぅ〜、それは恥ずかしいですわん……!」
渋々といった様子で膝から降りる沙霧。その尻尾が名残惜しそうに、ふわりと揺れた。
「この続きは、ご飯の後でね」
「くぅん♡ 約束、ですよ?」
「うん、今日はわがまま全部聞くって言っちゃったしね」
名残惜しいのは、俺も同じだ。けれど、二人でキッチンに立つ時間だって、特別なものに違いはない。愛おしさすら感じるほどに。
キッチンに戻ると、炊き込みご飯の匂いがより強くなる。コンロの横には、仕込んでおいた野菜達と、下味をつけて寝かせておいた鶏肉。
まずは鶏肉の袋に薄力粉と片栗粉を加えて、沙霧に手渡した。
「沙霧。これ、袋の上からよく揉んで馴染ませてくれる?」
「わんっ! お手伝いですっ! もみもみしますわんっ!」
唐揚げを沙霧に任せている間に、俺は天ぷら用の揚げ衣の用意。本来であれば、天ぷらの衣を作るのには結構コツがいるのだが、そこは便利な世の中。混ぜすぎても粘りが出ず、ふるいにかけなくても上手に揚げられる天ぷら粉がいくつも出回っている。
料理に手間暇を惜しまない俺だが、こういう物も必要に応じて使うことにしているのだ。
多めの油を鍋に入れ、火を点ければ準備は完了した。
「それじゃ揚げていくけど──ここからは俺がやるよ。油が跳ねると危ないから、沙霧は少し離れててね」
「わんっ! ご主人様の勇姿、後ろからしっかり見てますわん♡」
「いや……揚げ物するだけなんだけど?」
「だって、お料理中のご主人様、とっても格好いいんですわん♡」
うっ……。
料理、やってきて良かったかも……。
好きな女の子に格好いいと言われて、気分を良くしない男なんていないと思う。そこは俺も例外ではなく、浮かれそうになる気持ちをぐっと引き締めた。
沙霧にも言った通り、揚げ物は慎重にやらなければ大惨事を引き起こしかねないのだ。
俺は温度を確かめつつ、菜箸で天ぷら衣を数滴、油の中へ落とした。
しゅわっと音がして、鍋底まで沈んだ衣がすぐに浮き上がってくる。これが揚げ始めの温度になった合図。
ナス、ピーマン、人参。食材を衣にくぐらせ、そっと油の中に落とすと、パチパチと心地よい音が広がっていく。
キッチンの空気が、一気に変わった。弾ける泡と、鼻をくすぐる香ばしさ。その光景を、沙霧はまるで魔法でも見るかのように、瞳をキラキラさせて見つめていた。
「すごい……お野菜に花が咲いたみたいですわんっ!」
「実際、天ぷらって花を咲かせるって言葉を使うこともあるしね。こうすると、もっとそれっぽくなるよ」
スプーンで衣をすくい、鍋の中の野菜達に細くかけてやる。すると、その衣が本当に花を咲かせるようにぱっと膨らんだ。
「わぁっ♡ お店の天ぷらみたいになりましたわん。やっぱりご主人様はすごいですわん!」
「あはは、そりゃどうも」
くすぐったい。
ふわふわする。
もっと沙霧に褒めてもらいたいし、もっと嬉しそうな顔をしてほしい。
良い塩梅に揚がったナスを菜箸で持ち上げる。薄い衣の下から、紫色の皮目が透き通るように輝いていた。
バットに置いて油を切り、塩を一振り。
「ほら、揚げ立てだよ。味見してごらん」
「えっ……いいんですわん?!」
「ちょっとだけね。ただ熱いから気を付けて──って、沙霧は犬舌だったっけ」
うずうずと身を乗り出してきた沙霧に、思わず笑ってしまう。食いしん坊で甘えん坊、そんな沙霧が可愛らしくて。
そして、箸先のナスの天ぷらを口元に寄せ、今度は言われる前に息を吹きかけた。
「ふー……ふー……はい、どうぞ。中はまだ熱々だと思うけど」
「さすがご主人様っ、よくわかってますわん♡」
「どうせしないと食べないんでしょ? ほら、あーんして」
「わんっ♡ あーん♡」
ぱくりとナスを咥えた瞬間、沙霧の頬がふっと緩む。衣のサクッという音が、小気味良く響いた。
「はふっ……! ふぁっ……おいひいれふっ♡」
「無理に喋らなくても、飲み込んでからでいいよ」
そう言うと、沙霧は黙ってもぐもぐと口を動かし、やがてこくりと喉を鳴らした。
「はぁ……♡ サクサクとろとろで、ナスも甘くて絶品でしたわん♡」
「よかった、犬舌わんこにも満足してもらえたみたいだね」
「これは自家製つゆで食べるのも楽しみですわん♡ でも──」
そこで一度言葉を区切った沙霧は、俺の目をじっと見つめて微笑んだ。
「ご主人様のふーふーが、一番のスパイスでしたわん♡」
「うっ……それは……」
「えへへ♡」
ふり、ふり、と尻尾を揺らす沙霧に、なにも言えなくなってしまった。
そんなこと言うの、反則すぎるだろ……。
俺は今すぐ沙霧を抱きしめたい衝動を振り払うように、ただ黙々と天ぷらを揚げることに専念する。
次々に揚がっていく野菜達を、沙霧は幸せそうに尻尾を振りながら見守っていた。そして、ごぼうのかき揚げまで揚げ終え、天ぷらが一段落したところで、俺は天かすをすくい取り、鍋の中を整える。
「次は……唐揚げね。沙霧は唐揚げ、好き?」
「大好きですわんっ♡」
今度は、心臓が止まるかと思った。
そういう答えを期待して聞いてみたのに、刺激が強すぎた。唐揚げのことを言っていると、頭ではわかっているはずなのに。
心が、沙霧の『好き』という言葉を求めていた。
「俺も……この唐揚げ、好きなんだよね」
言いながら、鶏肉を一切れずつ油に落としていく。天ぷらとは違う、少し重めの揚げ音が響いた。
本当は沙霧のことが好きだと言いたいのに、逃げ腰になって、唐揚げの話にすり替えた自分が情けない。わんことしては、言えたはずなのに。
でも──
「はわぁ……♡ この音、この匂い、たまりません! 早く食べたいですわんっ!」
そわそわと身体を揺らす沙霧を見ていると、今はこれでいいかと思ってしまう。沙霧のために、手料理を振る舞えることが、たまらなく幸せで。
「顔近付けると危ないって。きれいな肌なんだから、火傷して跡が残ったら大変だよ」
「えっ……?」
沙霧がぽかんとした顔をして、ようやく俺もはっと気付く。
やば……。
なんか変なこと言っちゃったかも……。
パチパチと油の弾ける音の中、沙霧と見つめ合うだけの沈黙が流れた。しばらくして、それを打ち破るように、沙霧はふっと笑みを浮かべた。
「……もしそうなったとしても、それも樹くんとの大切な思い出ですよ」
その瞬間、沙霧は紛れもなくただの女の子だった。呼び方も、喋り方も、わんこモードを完全に解いていた。
けれどすぐに──
「あっ、音が変わってきましたわんっ!」
「あっ、やべ……」
沙霧は元のわんこに戻ってしまう。その一言の意味をはかりかねながらも、俺は慌てて唐揚げを油から引き上げていく。
しゅわしゅわと音を立てる唐揚げは、こんがりと濃いめのキツネ色に染まっていた。
「それじゃ……だいぶ待たせちゃったけど、そろそろ食べようか?」
「わんっ♡」
沙霧が笑う。そのたびに、胸がざわつく。
それはたぶん、油跳ねよりも熱くて危ない。そんなことを思いながら、俺は盛り付けのために菜箸を握り直した。
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