第38話 食いしん坊わんこと、お出汁の香り

 沙霧が俺の膝の上で微睡み始めてから、どれくらい経っただろう。陽はすでに沈み、窓の外のオレンジ色が、ゆっくりと薄闇へ溶けていく。


 俺は絶えず沙霧の頭を撫でながら、次なるミッションに備えて考えを巡らせていた。


 この甘やかしタイムが終わればたぶん──


「ところでご主人様ぁ……今日のお夕飯はなんですわん?」


 ほーら、きた。

 ごはんの催促だ。


 甘えん坊モードから食いしん坊モードへの華麗なジョブチェンジ。さすがわんこ、実に本能に忠実である。


 しかし、そこは俺の得意分野。しかも、すでにメニューの方向性は決まっている。


「二日続けて洋食だったから、今日は和食にしようと思ってるよ」


「わふっ! ご主人様の和食、期待大ですわんっ♡」


「なら、そろそろ作り始めようかな──と言いたいところなんだけど……」


「わん? どうかしましたか?」


「いや、先に着替えてこようかなって」


 からかいわんこがすぐに甘えわんこになってしまったせいで、着替えそびれた俺は、いまだに制服のままなのだ。


「はわわんっ! す、すいませんっ、私だけ……!」


「いいよ、気にしなくて」


 慌てて跳ね起きる沙霧に、俺は苦笑をもらす。ズボンに少々シワがついてしまったけれど、その代わりに──


「俺も沙霧にたくさん癒してもらったからね」


 学校での大騒動で疲弊していた心は、今やすっかり回復している。むしろ、お釣りを出さなくてはならないくらいだ。


 それはまぁ……美味しい夕飯をご馳走して返すとしようか。


 俺はもう一度だけ沙霧の頭をポンと撫で、立ち上がる。向かう先は俺の部屋──ではなくキッチン。


 水を張った鍋に昆布を放り込み、タイマーを三十分でセット。


「あれ? お着替えしないのですわん?」


「するよ。でもその前にちょっとだけ下準備をね。せっかくだから、今日は出汁を取ろうと思っててさ」


「お出汁ですわんっ?!」


 沙霧は目を丸くして叫んだ。


「そんなに驚かなくても……意外と簡単なんだけど?」


「ご主人様の簡単は、あまり一般的ではないと思いますわん……」


「あはは。とにかく、今度こそ行ってくるから。いい子にしてるんだよ?」


「わんっ♡ かしこまりですわん!」


 ようやくラフな服装に着替えた俺は、すぐにキッチンへと舞い戻った。エプロンを装備すると、身が引き締まる。


 さて──ここからは本気モードで。


 まずは、タイマーが鳴るまでの間に、他の食材の用意を済ませてしまうことに。冷蔵庫から各種野菜と、鶏もも肉を一枚取り出した。


 すると、キッチンカウンターの向こうから沙霧がぴょっこり顔を覗かせる。ちょこんと両手を置いて、犬耳を忙しなく動かしているのがたまらなくキュートだ。


「わんわんっ! ご主人様っ、まだなにを作るのか、ちゃんと聞いてませんです!」


「ん? あぁ、そういえば和食としか言ってなかったっけ。今日は炊き込みご飯と天ぷら、それから唐揚げを作る予定だよ」


「豪勢ですわんっ! とっても楽しみです!」


「炊き込みご飯と唐揚げは、また明日の弁当にも入れるからね」


「本当にご主人様は私の心を掴むのがお上手ですわん♡」


 果たして、俺が掴んでいるのは本当に沙霧の心なのか。たぶんだが、正解は胃袋だろう。もしかすると、そのあたりの機微はわんこには少々難しいのかもしれない。


「ところで沙霧、今日は見てるだけなの?」


「あっ、それは……改めてご主人様との格の違いを思い知ったと言いますか、お邪魔してしまわないかなぁ……なんて。わふん……」


キッチンは、いわば俺の聖域みたいなものだ。たとえ相手が母さんであろうと、基本的には調理中に誰かを招き入れることはない。


 けれど、これから作るのは澄んだ黄金色の出汁。その一番良い香りが立ち昇る瞬間を、誰よりも先に、誰よりも近くで沙霧に嗅がせてあげたい。


そう思ってしまった自分に気付き、苦笑する。


「いいから、こっちにおいでよ。俺一人だと大変だし──一緒に作った方が楽しいじゃん」


 手招きをすると、沙霧の姿がカウンターに沈み込むように視界から消える。その数秒後、今度は横から現れた。


「ご主人様ぁっ♡ 私も、ご主人様と一緒が楽しいですっ♡ お役に立てるかはわかりませんがっ!」


 わんこタックル──もとい、じゃれ付いてきた沙霧は俺の腕を取り、ぐりぐりと肩に額を押し付けてくる。


「はいはい、いらっしゃい。じゃあ、沙霧には出汁を取ってもらおうかな」


「いきなり難しいこと言われましたわん?!」


「大丈夫だって、ちゃんと教えるから」


「はぅ……緊張します……でも──美味しいごはんのために頑張りますわんっ!」


「うん、その調子だよ。ならまずは、その鍋を火にかけてくれるかな? 様子を見つつ、沸騰しそうになったら昆布を取り出してね」


「沸騰しそうになったら……はいですわんっ」


 沙霧は恐る恐るコンロに点火して、鍋の中をじっと覗き込む。その真剣な表情は、愛らしくて微笑ましい。


 俺はふっと笑みをこぼし、視線を手元に落とした。鍋はしばらく沙霧に任せて、他の食材の下ごしらえに取りかかる。


 ごぼうは泥を落として、ささがきと千切りの二種類に切り分ける。人参は皮を剥いて短冊と輪切りに、ナスも輪切り、レンコンは半月にして、ピーマンは縦に四つ割りにしていく。


 油揚げを刻み、鶏もも肉はしっかりと下処理をしてから一口大にして、その一部は炊き込みご飯用に細切れだ。


 一人分だと、余らせるのが怖くてこんなに種類を用意できないが、二人分なら話は別。沙霧を迎えて良かったと思うのは、もしかするとこんな瞬間なのかもしれない。


 そうこうしていると、沙霧の注視する鍋から湯気が立ち昇り、ゆらゆらと水面が揺れ始めた。


「ご、ご主人様ぁ……そろそろ、ですわん……?」


「そうだね、もう昆布は引き上げちゃっていいよ」


「わんっ!」


 沙霧は菜箸を構えて昆布を持ち上げ──


 ……ちゃぽんっ。


 水面から顔を出した昆布は沙霧の手を逃れ、再び鍋の底へと沈んでいった。


「あっ、やぁっ! なんで逃げるんですわんっ?!」


 つるつる滑る昆布と格闘する沙霧は、紛れもなくポンコツわんこだった。可愛らしいが、あまりモタモタしていると湯が沸騰してしまう。


「沙霧、落ち着いてやれば取れるから」


 俺は沙霧の手に自分の手を重ね、しっかりと狙いを定めて挟み込む。そして、ゆっくりと鍋から取り出した。


「えへへ、やりましたわんっ! さすがご主人様ですっ♡」


「これくらいで褒められてもなぁ」


 でも、やはり悪い気はしない。沙霧の瞳はキラキラと輝き、心の底から称賛を送ってくれるのだ。


 やがて、鍋のお湯はふつふつと沸き始め、俺はすかさず火を消した。


「これでお出汁は完成なのですわん?」


「ううん、まだまだ。次はここにかつお節を入れるよ」


「はわぁ……道のりは長いのですわんね」


「だから顆粒の出汁が売ってるんだし、俺も使うことはあるよ。でも──」


 鍋の中にかつお節を加えると、ふわりと昇る香りがキッチンを満たしていく。


「わっ、わぁっ! とってもいい匂いがしますわん……♡」


「でしょ? これが自分で出汁を取る醍醐味だよ」


 沙霧は鼻をひくひくさせて、うっとりと頬を緩ませた。沙霧のこの幸せそうな顔が見られるのはきっと、俺だけの特権だ。沙霧を拾い、餌付けて、懐かれた俺だけの。


「あとは、キッチンペーパーを敷いたザルでこせば──はい、自家製出汁の完成!」


 ザルの下にかませたボールは、黄金色で澄んだ出汁で満たされていた。それをお玉で小皿にすくい、沙霧に差し出す。


「ほら、味見してごらん。熱いから、火傷しないようにね」


 小皿を受け取った沙霧は、じっと俺の目を見つめ、甘えた声で鳴いた。


「ご主人様ぁ……私、犬舌ですのでふーふーしてほしいですわんっ♡」


 いやっ、ここでまたわがまま発動するんかいっ?!


 というか──

 

「犬舌ってなに?!」


 耳慣れない言葉に、思わず俺は叫んでいた。

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