第31話 謝罪わんこと、正夢の誤算
沙霧に腕を引かれ、胸がドキドキと痛いほどに高鳴る。そうしてたどり着いたのは、屋上へと続くドアの前だった。
屋上といえば、普段は立ち入り禁止の場所。今いるのはその手前であり、生徒が来ることなんて滅多にない。俺自身も、ここに足を踏み入れるのは初めてだった。
昼休みの喧騒は遠ざかり、ここだけ別世界のように静まり返っていた。
沙霧はドアの前で立ち止まり、俺に背を向けたまま小さく肩を震わせた。その背中から伝わる緊張が、空気をピンと張り詰めさせる。
「あの、ご主人様ぁ……」
その一言で心臓が跳ねた。
さっきは寸前で踏みとどまっていた『ご主人様』呼びを、他に人がいなければ良いと判断したらしい。わんこモードを解禁した沙霧は、尻尾を揺らしながらゆっくりと振り返る。
ふわりと広がる髪が、ドアの小窓から差し込む陽射しにきらめいた。頬をほんのりと赤く染め、潤んだ瞳で俺を見上げる姿は──どうしようもなく、反則的に愛らしかった。
「お弁当、ありがとうございました。とっても、美味しかったですわん♡ それで私、思ったのですが──」
恥ずかしそうに目を伏せながら、沙霧は両手で俺の右手を包み込んだ。指先からじんわりと熱が伝わり、鼓動がさらに速くなる。
ここまでくると、俺の期待は確信に変わっていた。
もしかすると俺は、予知夢の力に目覚めてしまったのかもしれない。昨夜見た夢が少しだけ形を変え、また現実になろうとしているのだ。
……なら俺は、どう返えすのが正解なんだろう。
夢をなぞるように、わんことして愛情を示すべきか。それとも、一人の女の子として真剣に受け止めるべきか。
本気で悩み始めたその直後。
沙霧が勢いよく頭を下げた。
「すいませんっ! 私としたことが、すっかり忘れていましたわんっ!」
「うん、俺もす──って……なんだって?」
危うく好きだと言いかけて思いとどまり、半目になって問い直した。
すいませんって、なにが?
忘れてたって、なにを?
……え?
まさか今の流れって、告白じゃなかったの……?
思考が停止した俺をよそに、沙霧は犬耳をへにゃんとさせながら続けた。
「散々美味しいごはんをごちそうになっているというのに……私、ご主人様に自分の分の食費をお渡しするの、忘れていたんですわんっ!!」
「はぁ……? もしかして……それを言うために、こんなとこまで連れてきたの?」
「実は……そうなんです。ご主人様ぁ、お願いです……ごはん抜きだけは、許してほしいですわんっ……!」
涙目ですがりついてくる沙霧に、俺の中にあった期待と確信が、音を立てて崩れていく。それが、あまりにもショックだった。
ぷちんと、頭の中で音がした。今回は紛れもなく、堪忍袋の緒が切れる音だった。
「そんな話なら家でしたらよくないっ?!」
「きゃんっ……♡ さすがご主人様ですわん……♡ 鋭いツッコミ、ありがとうございます。そこに気が付くとは、やりますわんね」
身体を縮めつつもどこか嬉しそうな沙霧に、一瞬にして怒りは鎮火されてしまう。怒る気も起きないとは、まさにこのことだろう。叱り飛ばしたところで、沙霧は喜ぶだけなのだ。
まったく、困ったわんこである。
「……で、それがわかっててわざわざ連れ出したのは、なんでなの?」
「それはですね……私、おうちに帰ったらまた忘れてしまうと思ったのですわん。ご主人様になでなでされたら、頭空っぽになっちゃうのですわん♡ きゃっ♡」
片手を頬に当て、沙霧は照れくさそうに身体をくねらせた。
あ、またなでなでさせられることは確定なのね?
まぁ、してほしいって言うなら、いくらでもするけどさ。
というか、理由がポンコツすぎやしない……?
さっきまでの完璧な優等生面はどこにいってしまったのやら。
俺は静かにため息をついた。
「っとに沙霧は……いらないよ、食費なんて。どこに愛犬から食費を受け取るご主人様がいるって言うのさ?」
「……でも私、わんちゃんにしては結構食べますし。たくさん食費がかかってしまいますわん……」
「わんこがなにを気にしてるんだか。いい、沙霧? よく聞いて」
「……わふん」
沙霧は申し訳なさそうに尻尾を丸めて頷いた。
「俺一人だと食材を余らせちゃうこともあるし、沙霧がいてくれて助かってるくらいなんだよ。それにね、食費は母さんから十分にもらってるから、沙霧が心配することはなにもないよ」
母さんから支給されている食費は、余ったらそのまま俺の小遣いとなる。それが減るのは少しばかり痛手だが、可愛い愛犬のためだと思えばなんてことはない。
それよりも大事なのは、沙霧が余計なことを考えず、美味しそうに食べてくれることだ。あの幸せそうな笑みが、俺へのなによりのご褒美になるのだから。
「……でも」
「でも、じゃないのっ! 俺がそう決めたんだから、文句は言わせないよ。迎えたわんこのお世話をするのは、当然のことでしょ。これくらいの見栄は張らせてよ」
「はぅっ♡ ご主人様ぁ……♡」
俺を呼ぶ沙霧の顔が、ぱぁっと輝いた。犬耳はピンと立ち、尻尾はぶんぶんと元気よく振られている。
うん、そうそう。
俺が好きなのは、こういう沙霧なんだ。
沙霧が嬉しそうだと、俺も嬉しい。
告白でなかったのは残念だが、学校でもこれが見られたのなら悪くない。つい、頭を撫でようと手を伸ばした──次の瞬間。
沙霧が俺に向かって、勢いよくぴょんと跳躍した。
「ご主人様ぁっ♡ 大好きですわんっ♡」
両手を大きく広げた、見事なダイブだった。着地のことなんてまるで考えていない、完全に俺に身を委ねるような。
不意打ちの『大好き』にときめいてしまった俺は、わずかに反応が遅れた。気が付けば、顔面で沙霧を受け止めていた。
ふにゃんと柔らかい感触が、顔を包み込む。沙霧を支えきれなかった俺はバランスを崩し、そのまま後ろ向きに倒れていった。
時間の流れが、とてつもなく遅く感じる。肺を満たすのは、沙霧の甘い香り。柔らかく温かな感触が押し付けられる、至福の時間。
けれど、そんな時間は長くは続かなかった。
「……ぐえっ?!」
後頭部にゴンっと衝撃を受け、視界が暗転する。目から火花が散るような痛みが走り、徐々に意識が遠のいていく。
薄れゆく意識の中──
「はわわっ……! ご主人様っ?! ご主人様ぁっ……?! 死んじゃイヤだわんっ……!」
沙霧の悲痛な叫びだけが、頭に響いていた。
──いや……勝手に殺さないで……。
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