第30話 学校わんこの、突然の呼び出し

 やがて始まった、学校生活という日常。


 教壇には教師が立ち、黒板にコツコツとチョークを滑らせながら、淡々と授業を進める。そんな静けさの中、俺は胸中にわだかまるもやもやを抱えたまま、少し離れた席の沙霧にぼんやりと視線を向けていた。


 沙霧は優等生らしく姿勢を正し、真面目に板書をノートに写している。指先がペンを走らせるたび、肩にかかった黒髪がさらりと揺れた。その横顔は真剣そのもので、どこか近寄りがたく感じるほど。


 そんな沙霧を見て、ほんの小さな寂しさが芽生えた。沙霧は俺の言いつけをちゃんと守ってくれているのに、どこか空虚さを感じるのはなぜだろう。


 わんわんと騒がしい沙霧の声が、耳の奥でふと蘇る。無邪気にじゃれつき、尻尾を振っていた姿、嬉しそうに俺を『ご主人様』と呼ぶ声──


 授業中だというのに、思い出すたびに頬が緩む。緩んでは、今の沙霧とのギャップに心が軋んだ。


 一人の女の子として沙霧を好きになったはずなのに、こうして思い返すと、わんこモードの沙霧に恋しているみたいだ。


 そんな自分に、どうしようもなく罪悪感に駆られる。


 ……おかしいよなぁ、俺。


 胸の奥でぽつんと呟いた直後、沙霧がふいに顔を上げ、俺の視線に誘われるようにわずかに顔をこちらに向けた。


 ぱちりと目が合う。教室の静けさの中、確かに沙霧が俺を見ていたのがわかった。だってその顔には、愛くるしいわんこスマイルが浮かんでいたから。


 沙霧は右手にペンを持ったまま、胸の前で丸くした。さらにほんの一瞬、唇を動かす。


 ──わんっ♡


 声は聞こえない。

 けれど、はっきりと胸の奥に響いた。


 ちょっと待って……。

 俺のわんこ、可愛いすぎない……?


 そう思うと、すぅっと罪悪感が解けていく。もやもやが晴れて、心の奥がじんっと温もりが広がった。


 ……そっか。

 どっちも沙霧なんだよな。

 わんこだとか、そうじゃないとか、そんなのは関係ない。

 俺は沙霧の全部をひっくるめて、好きになってたんだ。


 自然と、肩の力が抜けた気がした。


 沙霧はすでに、何事もなかったかのように黒板に視線を戻している。俺も小さく息を吐き、それに倣った。


 ***


 授業の合間の休み時間になっても、沙霧が俺に話しかけてくることはなかった。これが、沙霧がわんこ化する以前の俺達の距離感。クラスメイトというだけで、深い接点はない。


 沙霧は男女問わず人気者で、机の周りには人だかりができる。男子からは憧れの視線を集め、女子からは質問攻めにされている。


「月島ちゃん、さっきの授業のここ教えてー!」


「わっ! 相変わらずノートきれー! 見せてもらってもいい?」


 そんな声が飛び交うたび、沙霧は丁寧に応じ、柔らかく微笑んでいた。


 完璧な才女。誰にでも優しく、そつがない。それこそ、別世界の人のように。


 そこに、俺が近寄る隙はまるでない。


 しかしもう、不思議と寂しくはなかった。さっきの授業中の一瞬のやり取りが、俺と沙霧がなにか特別なもので繋がれていると確信させてくれたから。


 ***


 午前中の授業を乗り切り迎えた昼休み。俺はいつも通り、健太と向き合い弁当を広げていた。


「おっ、今日は弁当作ってきたんだな。美味そうじゃん!」


「……やらないぞ?」


「んなケチくせぇこと言うなよ。ちょっとくらいいいだろ?」


「だめだってば!」


 健太と毎度おなじみな会話を繰り広げていると、離れたところから話し声が聞こえてくる。


「月島ちゃん、一緒にごはん食べよー!」


「あっ、はい。いいですよ」


 昼休みでも、沙霧は人気者だ。日々、誰が誘いをかけるのかを、牽制し合っているフシがある。


 箸を手にしながらも、気が付けば視線は沙霧に向いていた。


 沙霧は一つの女子グループに囲まれ、昼食をとることになったようだ。その輪の中にいる沙霧を見ていると、以前言っていた言葉が頭をよぎった。


『……家に泊めてもらえるようなお友達なんていませんよ』


 あの時の寂しげな声が、妙に耳に残っている。

 今の沙霧は笑っている。けれど、その笑顔はどこか、家で俺に見せてくれたものとは違っていた。


 それでも、弁当を口にした瞬間──沙霧の頬がふっと緩む。嬉しそうに、幸せそうに目を細めて。


 よかった、ちゃんと喜んでくれてる。


 望んでいた顔が見れて、俺もようやく箸を動かす気になった。


「──って、おい健太っ?! それ、俺の玉子焼き!」


「うははっ、余所見してるのが悪いんだよ! こいつはいただいたぜ!」


 健太は得意気に笑い、パクリと玉子焼きを口に放り込んでしまった。


「んおっ、美味っ! なんだこれ、いつものと味違くね?」


「そりゃ、今日は特別──」


 言いかけて、慌てて口をつぐむ。『今日は特別に、沙霧のために手間暇かけた』なんて、口が裂けても言えないのだから。


「特別って、今日ってなんかあったっけか?」


「な、なんでもないっ!」


 追求から逃れるように、沙霧のために作った弁当をこれ以上奪われないように、俺はおかずを口に詰め込んだ。


「お、おい……なにもそんな慌てて食わんでも。勝手に取って悪かったって……」


「うるさい、黙って食えバカ」


「……すまん」


 一睨みで健太を黙らせ、黙々と弁当をかっこむ。そして、朝の沙霧の蕩けるような笑みを思い出しながら、最後に玉子焼きを噛み締めた。


 うん、美味い。

 また作ろう。もっと沙霧に喜んでもらいたいから。


 食べ終える頃には、健太への怒りはすでに綺麗さっぱり消えていた。それから弁当箱を鞄にしまっていると、視界の端で、沙霧が立ち上がったのが見えた。そのままスタスタと歩いてきた沙霧は、俺の前で立ち止まった。


 その瞬間、心臓が跳ね上がる。沙霧はさっきまでのぎこちない笑顔ではなく、お腹いっぱいで満足そうなわんこスマイルを浮かべていた。


「あの、ごしゅっ──」


 沙霧が口を開いた、その一言で時間が止まった。


 うぉいっ!

 今、絶対ご主人様って言いかけただろ!!


 ピシリと、空気が凍り付く。背中に伝うのは冷や汗、クラス全員が何事かと目を向けてきている気がした。


 しかし沙霧はすぐに体勢を立て直す。


「すいません……くしゃみが暴発してしまいました……」


 いやいや、苦しいからっ!

 全然立て直せてないって、それ!


 血の気が引く俺とは対照的に、沙霧は完璧な余所行きの笑み。そのあまりの堂々っぷりは、逆に感心してしまうレベルだった。


「なぁんだ。なにかと思えばくしゃみだったのか。うんうん、くしゃみなら仕方ないよな」


 お前ってやつは……。

 ありがとう、健太の脳が単純構造で本当助かるよ。


 その直後、沙霧は俺の腕をがしっと掴んだ。


「えっと──樹くんっ、とても大事なお話があるので、ついてきてください!」


 シンと静まりかえる教室内。だが俺は、ここに来て沙霧が接触してきたことに動揺が隠しきれない。


「えっ、お、おぉ?」


 強引に立たされた俺は、沙霧に腕を掴まれたまま教室から連れ出される。背後では、ざわめきが起きていた。


「だっ、大事な話ってまさかっ……?!」


「うおぉっ、マジかよ月島さん……?!」


「きゃーっ?! 月島ちゃん大胆っ!」


 絶望に染まる声と、黄色い歓声。それを受けて、胸が騒ぎ出す。


 えっ……まさかそういうこと?!

 大事な話って──もしかして、もしかしちゃう感じ?!


 沙霧が落としたら数々の爆弾の事後処理のことなんて頭にはなく、俺の心は期待ではち切れそうだった。

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