第29話 誤魔化しわんこと、甘く蕩ける囁き

「お、おい樹っ。なんで月島と……まさかお前らっ……い、いつの間にっ……?!」


 健太の視線は、繋がれたままの俺と沙霧の手に釘付けだった。沙霧は健太に振り返ることなく硬直している。その顔は、甘く熟したトマトのように真っ赤に染まっていた。


 状況としては最悪。けれど、不思議と俺はそこまで動揺していなかった。


 わんわん騒動で変に心臓が強化されたせいだろうか。沙霧に全裸を二度も見られたことに比べれば、この程度なんともないと思ってしまったのかもしれない。


 もしくは──恥ずかしそうにかすかに震える沙霧の手が、勇気を与えてくれているのか。


 どちらにせよ、どうにかしてこの場を切り抜ける必要があった。沙霧は、多くの男子の憧れの的である。それは健太とて例外ではない。


 俺の頭は、冷静に判断を下す。幸いにして、誤魔化すための言い訳はすぐに見つかった。


「沙霧、ここは俺に任せて。口裏だけ合わせてくれたらいいから」


 そっと耳打ちをすると、こくんと小さな頷きが返ってきた。それを確認して、健太に向き直る。


「あー……健太。なんか誤解してるみたいだけど、これは──来る途中で偶然会って、ちょっとフラついてたから引っ張ってきただけっていうかさ……ほら、昨日体調不良で休んでたじゃん? まだ本調子じゃないらしくて」


「……ほーん?」


 疑うように、健太の目が俺達の繋いだ手と顔を行ったり来たりする。


 ここで少しでも焦った素振りを見せたらアウトだ。


 俺はできるだけ自然を装いながら、正面から健太の視線を受け止めた。


「……マジで、そうなのか?」


「マジだって。ねぇ?」


「え、えぇ……すっかりお手数をおかけしてしまって、すいませんでした……」


 沙霧には動揺が見えるが、うまく合わせてくれたようだ。沙霧の赤くなった顔も、今はプラスに働くだろう。


 俺は沙霧への感謝を込めて、心の中で親指を立てた。


 しばしの沈黙。健太は俺達の顔を交互に見比べ、やがて、ふっと肩を竦めた。


「なぁんだ、そうだったのかぁ。いやー、本気で焦ったぞ。俺の知らないところで樹が月島と付き合い出したのかと思ってさぁ」


「ないないっ! ただ介抱してただけだから!」


「そうだよなっ。具合悪そうなの見たらほっとけないもんな!」


 うまく信じ込んでくれたようで、健太はあっけらかんと笑う。それを見て、俺は小さく息を吐いた。


 ……健太が単純で助かったぁ。


「そういうことなら、こっからは俺が介抱代わってやろうか。樹ばっかずりーしな」


 そう言って、健太が手を伸ばす。しかし、沙霧はすぐにふるふると首を横に振った。


「い、いえ……お気持ちはありがたいのですが、だいぶ良くなってきたので、それには及びませんよ」


「えっ……あっ、そう……? じゃあ……無理、するなよ?」


「はい、ありがとうございます」


 丁寧すぎる断り文句に、健太は面食らった様子で、しょんぼりと肩を落として歩き始める。俺達もそこでようやく手を解き、後に続いた。


 ──が、歩き出してすぐ、隣の沙霧が頬をぷくーっと膨らませていることに気付く。


「……なに? どうしたの、その顔」


「なんでもありませんっ」


「いや……なんでもないって顔じゃないんだけど?」


 沙霧は一瞬だけ俺を睨むように見上げ、ポツリと呟いた。


「……樹くんは、嘘がお上手ですね。ですが、私は別に……樹くんのわんちゃんだって──バレてしまってもよかったのに……」


「だめでしょそれはっ! 絶対まずいことになるって。頼むから、学校ではいつも通りにしてよ……」


 沙霧は頬を膨らませたままツンと唇を尖らせ、足取りを緩める。


「なら……代わりになでなでしてくださいっ」


「はぁ……?」


「誤魔化しに加担したご褒美がほしいですわん。教室に着く前に、ちょこっとだけでいいですから……」


 いやいやいやっ!

 まーたわんわんが再発してるってっ!


 あれ、ちょっと待てよ?

 もしかして、やらないと本気で皆の前でもわんわん言うつもりじゃ……。


 それは非常にまずい、まずすぎる。そうなるくらいなら、なでなでで手を打ったほうがはるかにマシなくらいだ。


 しかも、沙霧は期待するような目で見つめてくる。そんな可愛い愛犬のおねだりを無碍にするなんて、俺にはとてもできなかった。


 コソコソと話していたおかげで、前を歩く健太が俺達の会話に気付く様子はない。なら、チャンスは今しかない。


 俺は周囲の目を盗み、沙霧の頭にそっと手を伸ばし、滑らせる。ふわりと、柔らかな髪が指先をくすぐる。流れる髪から、甘い香りが広がった。


 沙霧は満足そうに目を細めて──頬の膨らみも、唇の尖りも、嘘のようにすっかり消えていた。


「これで、言うこと聞いてくれる?」


 小声で問うと、沙霧は耳の先まで真っ赤にしながら少しだけ背伸びをして、俺の耳元に顔を寄せる。


「わんっ♡ ご主人様ぁ♡」


 甘く蕩けるような囁きが、じんわりと胸の奥まで届いた。禁じたはずのわんこモードの言葉なのに、背筋にゾクリとしたものが走る。


「ちょっと沙霧っ?!」


「ふふっ、今回はこれで手打ちにしてあげますわんっ。でも……できれば次は──誤魔化さないでほしいですわんっ♡」


 沙霧は一度だけ軽く俺の手に触れて、とんっと軽やかに跳ねる。そしてくるりと振り返ると、いたずらっぽく笑って、俺を置き去りにして教室へと飛び込んでいった。


 沙霧の背中を見送った俺は、呆然と立ち尽くす。自分のためでもあったが、嘘をついて沙霧を守ったはずなのに──なぜか妙な罪悪感に胸が締め付けられる。


 さっきまで繋いでいた手の感触が、やけに鮮明に残っている。俺は自分の手を見つめ、ため息をついた。


 沙霧は……俺をどうしたいんだろ。


 本気でずっと、俺のわんこでいるつもりなのか。

 それとも、他になにか思惑があるのか。


 どれだけ考えても、その答えは見つからない。だがしばらくして、沙霧が教室の入り口から顔を覗かせた。


「そんなところでぼーっとして、どうしたんですか?」


「えっ、ううん……なんでもないよ」


「なら早く入ってくださいね。もうじきチャイムが鳴ってしまいますよ」


「あぁ、うん。わかったよ」


 沙霧の言葉に従って、教室へと足を踏み入れる。そこは、いくつもの笑い声が重なり合い、いつもと変わらない朝の喧騒に包まれていた。


 その中で、たぶん俺の心だけが乱れている。


 沙霧はちゃんと言いつけを守ってくれているのに、さっきの囁きが頭から離れない。


 なぜか俺は、わんこモードの沙霧をやけに恋しく感じていた。

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