第32話 膝枕わんこと、秘密の取り扱い

 ズキズキと痛む後頭部、それをもっちりと包み込む柔らかいなにか。ふわふわと頭を撫でてくれる優しい感触に目を開くと、ぼやけた視界の真ん中に沙霧の顔があった。


「……沙霧?」


「あっ、ご主人様っ! お目覚めになられたのですわんね!」


 沙霧はぐっと顔を寄せ、心配そうに俺の目を覗き込んでくる。その顔とわん語のギャップがすごすぎて、意識がはっきりしない。自分の置かれている状況が、さっぱり理解できなかった。


「えっと……俺、どうしたんだっけ?」


「すいません、私のせいですわん……ご主人様の懐の深さに感激して、飛びついてしまって──つい押し倒してしまったのですわんっ……!」


「あー……」


 説明されて、ようやく思い出した。食費をめぐる攻防の末、華麗なるわんこダイブという名の愛情表現をこの身に受けたんだった。


 頭の前面、つまり顔には極上の柔らかさを、後頭部には床の硬さを、その二つにサンドイッチにされて気を失ったのだろう。


 告白かもと浮かれていたところから、一気に叩き落とされた気分だ。でも、沙霧が飛んだ瞬間の言葉はしっかりと耳に残っている。


『ご主人様ぁっ♡ 大好きだわんっ♡』


 その結果がこれであるなら、甘んじて受け入れる他ない。それに──


「ごめんなさい、ご主人様ぁ……わざとじゃないんですわん。捨てないでほしいですわん……」


 ……沙霧も反省してるみたいだしね。


「バカだなぁ、その話は前にもしたはずでしょ。俺が沙霧を捨てるわけないんだから、そんな顔しないの。ほら、いつものわんわんスマイルを見せてよ」


「……わん♡」


 沙霧の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちそうになって、俺は手を伸ばしてそれを拭い取る。そこでようやく、自分が横になっていることに気が付いた。沙霧はずっと、俺を見下ろしていたのだ。


「……ところで沙霧? これは、どうなってるの?」


「あっ、はい。頭をぶつけたようでしたので、勝手ながら膝枕をさせていただいてますわん」


「膝……枕ぁっ?!」


 ってことは……頭の下にあるもちもちしたのって、まさか──沙霧の太ももっ?!


 慌てて跳ね起きようとすると、額を押さえられて阻まれる。そのままよしよしと撫でられてしまう。


「いけませんよ、ご主人様。急に動くのはよくないですわん」


「いや、でもっ!」


 好きな女の子の膝枕だぞ?!

 そんなの動揺しないわけが──


「いいから、私に身を任せてほしいですわん♡ ご主人様にはお世話になりっぱなしですので、これくらいしないと釣り合いませんわん。それに昨夜は、うまく逃げられてしまいましたし」


「うっ……」


「ですので、痛みが引くまでは大人しくしていてくださいね?」


「……わかったよ」


 沙霧の口調は穏やかなくせに、有無を言わさぬ圧がある。素直に頭を預けると、また撫でられた。


 スカート越しに伝わる太ももの温もりがじんわりと後頭部を包み、優しい指先の感触が不思議な安心感を与えてくれる。


「どうです? 少しは和らいできましたわん?」


「……まだ痛い、かな」


「わふんっ、ならもっとよしよししてあげますわん♡」


 本当は、こうして話しているうちにじわじわとマシになってきている。けれど、沙霧に撫でられるのが段々心地よくなってきて、もっとこうしていたいという欲が芽生えてしまった。


 沙霧はそれを見透かしたように、くすりと笑う。


「ふふっ。ご主人様、とっても可愛らしいですわん♡ なでなでするのも、良いものですわんね?」


「そうかな……?」


「そうなんですわんっ♡」


 そうかもしれない。

 最初は強請られてしていただけ。なのに今は、俺も沙霧をもっと甘やかしたいって思ってる。


「あの、ご主人様……?」


「ん、なに?」


「実は私、もう一つ謝りたいことがあるんですわん」


「謝りたいこと……って?」


 沙霧に謝られることの心当たりがなさすぎる。じっと見つめると、沙霧の目が左右に泳いだ。


「えっと……朝のこと、なのですが。バレてもいいって言ったこと、訂正させていただきたいんですわん」


「というと?」


「もうしばらく、他の人には秘密にしていてもいいかもって、思ってしまったんですわん。授業中にご主人様と目が合った時、なんだかふわふわして、楽しくて──なので……」


「…………」


 俺は、言葉に詰まった。沙霧に胸を射抜かれたから──というわけではなく、教室から連れ出された時のことを思い出していたから。


「ご主人様ぁ……だめ、ですわん?」


「あのさ、沙霧……」


「わん?」


「もう手遅れだよぉっ!!」


「きゃんっ……♡」


 寝転がったまま、俺は大声で叫んだ。沙霧が嬉しそうに悲鳴をあげたが、そこにツッコんでいる余裕はない。


 いやいやいや、無理でしょ?!

 あんな連れ出し方をしておいて、今更秘密もクソもないじゃん!


 沙霧の中では、あれはセーフなわけっ?!

 だとしたら、あまりにもポンコツがすぎるって!


「私がなんとかいたしますわんっ!」


 沙霧は自信満々に胸を張った。一体その自信はどこからわいてくるのだろう。


「どうするつもりなの?」


「それは、後のお楽しみですわんっ!」


 うわぁ……まったくお楽しみにできないんだけど?!

 むしろ不安しかないっ!


「ご主人様は大船に乗ったつもりでいてくれればいいですわんっ♪」


 これ、絶対に泥舟なやつだ。

 乗ったら最後、ぶくぶくと沈むやつだ。


 でも、その時は沙霧と一緒なわけだし……いいのかな?


 …………ん、ちょっと待てよ?


 なにか引っかかるな。

 俺はなにを見落としているんだ?


 まるで名探偵のように、俺は顎に手を添えて考え込む。もちろん、頭は沙霧の太ももに乗せたままでだ。締まらないが、沙霧が解放してくれないのだから仕方がない。


 数秒後、俺の頭の中にきゅぴんと電流が走った。


「沙霧さ、さっき俺のことなんて呼んだ?」


「ご主人様っ♡」


 きゅるんとした顔で、沙霧は答えた。


 おふっ……!

 可愛すぎるっ!


 でもそうじゃないのっ!!


「違くてっ! 教室出てくる時のこと!」


「えーっとぉ……樹くんっ♡」


 あ、無理……。


 そんな声で呼ばないでっ!

 ますます好きになっちゃうからぁっ!!


 あざとすぎる沙霧から絶大なダメージを受けながらも、俺は悟った。


「沙霧、やっぱどうにもならないって。それが決定打だよ……皆の前で俺のこと、名前呼びにしちゃってるじゃん……」


「だって、ご主人様がそう呼べって言ったんですわん?」


「うん、そうだね。俺が悪かったよ……」


 登校途中のトレーニングの方針がそもそもの間違いだったのだ。ご主人様呼びを封じて安心してた俺が愚かだった。


 もはや万策尽きた。教室に戻ったあとの大騒動を予想すると目眩がする。


 目元を手で覆うと、慰めるようにまた沙霧が頭を撫でてくれる。


 くぅ……わんこの優しさが身に沁みるぜ。


「ご主人様ぁ、大丈夫ですわん。そこも私にお任せですわんっ!」


「……もうどうにでもして」


「わんっ♡ ご主人様のお役に立てるように頑張りますわんっ♡ なので、もう少しだけこうしていましょうね?」


 問題はできるだけ先送りにしたい。そんな願望に支配された俺は、昼休みが終わる直前まで、沙霧によしよしと慰められ続けた。

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