第20話 興味津々わんこと、サーモンのムニエル

「ふぅー…………」


 俺は細く息を吐き出した。


 落ち着け、俺。

 愛犬にペースを乱されっぱなしじゃだめだろ。


 ここは一つ、サーモンのムニエルを完璧に仕上げて、威厳を取り戻さなければ。


 点火の前に、フライパンにオリーブオイルを回し入れる。サーモンを皮目を下にしてそっと置き──


 さて、ここからが本番だ。


「あれ? まだ火は点けないのですわん?」


「のわぁっ?! ビックリしたぁっ!」


 目の前ににゅっと沙霧の頭が現れ、俺は思わず大きく仰け反った。


 至近距離で、フライパンと俺の顔を交互に見つめる沙霧に、心臓が跳ね上がる。なんにでも興味津々なわんこの姿は、万人を魅了する愛くるしさなのだ。それは俺とて例外ではない。


「……なにもそんなに驚かなくてもいいじゃないですか」


「沙霧が急に飛び出してくるからでしょっ?! というか、食器の用意はどうしたの?!」


 こういうことがないようにと、あえて予め命じておいたはずなのに。だが沙霧は胸を張り、どこか得意気な笑みを浮かべた。


「もう終わりましたわんっ! 昨日のお夕飯と同じお皿でよかったですよね?」


「えっ、あー……うん。それで大丈夫だけど……」


 沙霧の言う通り、必要な食器類は邪魔にならないキッチンの隅に揃えられていた。


 なんという誤算。


 食器棚の中から探し出すのに、もっと時間がかかると思っていた俺の読みが甘すぎた。こんなの、ポンコツわんこにあるまじき優秀さじゃないか。


 くっ……!


 俺の中の、沙霧のご主人様としての本能が騒ぐ。気が付けばまた、無意識にその頭を撫で回していた。


「偉いぞ、沙霧。いい子だね」


「くぅん……♡ 嬉しいですわんっ!」


 ぶんぶんと尻尾を振る姿に、心底癒される。


 ちくしょうっ……まじで可愛いな。

 

 あぁ、そうか。

 世の愛犬家達は、こんな気持ちなんだろうなぁ……。


 ──じゃなくてだなっ!!


 振り出しっ!

 振り出しに戻ってるから!!


 高めていたはずの集中力は、ものの見事に一欠片も残さず霧散していた。


 沙霧の頭を撫でていた手を止め、気を引き締め直す。それから、また深呼吸。


 ここからが本番、失敗したら取り返しはつかない。


 俺は静かに、コンロに火を点けた。コールドスタート、さらに弱火でじわじわと熱を伝えていく。やがて、サーモンとフライパンの間で微かにパチパチと油が鳴り始める。


「なぜ先に火を点けておかなかったんですわん?」


「急に熱いところに入れると、身が縮んで固くなっちゃうからね。こうしてゆっくり火を入れると、ふっくら仕上がるんだ」


 しばらくすると、じわじわと脂がにじみ出てくる。その脂をキッチンペーパーでこまめに拭き取っていく。


 数分後、ほどよく皮が色付き、香ばしい匂いが立ち昇ったところで──


「ここでバターを入れる」


 じゅわっと溶け出すバター。途端に空気が甘く変わり、キッチンいっぱいに香りが満ちていく。


「はわぁ……いい匂いですわん♡」


 うっとりと目を細めた沙霧が、鼻をひくひくさせながら、尻尾をふわふわと揺らした。その仕草があまりにも幸せそうで、また目を奪われそうになる。


 俺は慌てて視線を戻し、サーモンをひっくり返した。裏面を焼きつつ、スプーンを用意。


「こっからはアロゼで仕上げていくよ」


「あろ……ぜ……とは?」


「こうやって、バターとか油を回しかけながら焼く手法のことだね。均一に火が入るし、風味も良くなるんだよ」


 スプーンで溶けたバターをすくい、上から何度も優しくかけていく。しゅわっ、しゅわっと立つ音が心地良く耳に響く。


「……すごい」


 ぽつりと、沙霧の声が落ちた。感動と、尊敬を束ねたような、素の声だった気がする。


「え?」


「ご主人様、すごいですっ! 優しいだけじゃなくて、こんなにもお料理上手なんて──惚れ惚れしちゃいますわんっ……♡」


「ま、まぁ……料理は趣味みたいなもんだし? というか、褒めすぎだって……」


 急に顔が熱くなる。沙霧の潤んだ瞳に見つめられると、また理性が解けそうで。


 両親にも褒められたことはあるのに、その時とは全然違う。だが、人のために料理を作って、喜んでもらえるのは作り手冥利に尽きる。


 沙霧が美味しいって笑ってくれる顔を想像すると、もう少しだけ頑張れそうな気がした。 


「そんなことないですよ。ご主人様は美味しい人ですわんっ♡」


「俺まで食う気かっ?!」


「ふふっ、冗談ですわんっ。でも、私を拾ってくれたのがご主人様でよかったです」


「それはたまたまうちの前で──」


「それでもですわん♡」


 ……やっぱり、なんかもうだめかも。


 俺は心の中で白旗を掲げる用意だけして、フライパンからサーモンを取り出した。


「まぁ、いい感じに焼けたかな」


「これでできあがりですわん?」


「いや……まだもう少し」


 あとはソースを作るだけだが、正直もうしんどい。しかし、ここまで来てソースがないなんて、まさに画竜点睛を欠くというものだ。


 俺は一度フライパンの汚れを綺麗に拭き取り、新たなバターを投入した。中火にかけ、時々揺すって均一に温める。表面の泡が消えると、次第に茶色く色付き始めた。


 そこで火を止め、醤油を加える。続いて、にんにくを少々とレモン果汁も。


 全体が程よく混ざったらサーモンにたっぷりとかけて、ようやく完成だ。


「よし……できたよ、沙霧。早速食べようか」


「わふんっ! さっきからいい匂いがしっぱなしで、もうお腹ぺこぺこですにゃん!」


「猫混じってるけどっ?!」


「気のせいじゃないですわん?」


 沙霧はすっとぼけるようにくすりと笑った。


 くそう……。

 急にお茶目なところを出してくるなんてずるいぞ。


 そんなところすら可愛らしいって思ってしまう自分に呆れて、またため息がもれる。


「はぁ……もうどっちでもいいから、食べる準備! ほら、テーブルに運んでって」


「わんっ! 楽しみですわんっ!」


 ウキウキとダイニングに向かう沙霧を横目に、俺はラタトゥイユを皿に盛り付ける。その後に、とっくに炊き上がっていたご飯も茶碗によそって──


 なんだかどっと疲れた気がするが、どうにか食事の用意は整った。テーブルに並ぶ料理を見つめながら、沙霧が笑う。


「ご主人様ぁ、早く食べましょうっ!」


「はいはい、わかってるって」


 沙霧に返事をしながら、俺も笑っていた。たぶん、昨日よりも自然な笑みで。

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