第19話 手伝いわんこと、焦げかけ理性

 ちらりと炊飯器を見てみると、炊き上がりまでは後八分。そろそろメインディッシュに取りかかっても良い頃合いだ。


「さて、沙霧──まずはサーモンの表面に浮いてる水分を拭き取ってくれる?」


「わんっ! お安い御用です!」


 キッチンペーパーを手渡すと、沙霧はおっかなびっくりといった手つきではあるが、トントンと叩くようにして水分を吸い取っていく。


「こんな感じ、ですか……?」


「うん。じゃあ次は下味を付けるよ」


 目の前に塩コショウを置くと、沙霧は少しだけ眉を寄せて手に取り、俺を見上げてきた。その瞳の中には、不安と期待が入り混じったような光が揺れている。


「どうしたの?」


「……加減がわかりません。手取り足取り……教えてくれるんじゃないんですわん?」


「あぁ、そっか。そうだったね」


 下味といっても、決して手を抜いていいわけじゃない。塩コショウを振りすぎればしょっぱくなるし、逆に少なすぎれば物足りなさを感じる。


 その感覚は、やはり経験が物を言う。レシピに『少々』なんて書かれているあの曖昧さは、初心者泣かせでもある。


 俺はそっと、塩コショウのボトルを持つ沙霧の手に、自分の手を重ねた。その瞬間、ピクリと沙霧の肩が震えた。


 緊張しているのか、照れているのか──俺だって少しばかり緊張している。頭が、冷静になるなと危険信号を発しているくらいだ。


 だから、自分に言い聞かせる。


 これはわんことじゃれているだけだ。

 美味しい料理を食べさせてあげるための、指導的なスキンシップだと。


「……ほら、力を抜いて。こうやって、少し上から振るんだよ」


「これくらい……です、わん?」


「うん、そうそう。で、こんな感じに──」


 胸元の高さで、沙霧の手を包んだまま軽く手首を動かす。ふわりと塩コショウの粒子が舞い、サーモンに降り注いだ。


 その香りが鼻をくすぐって──


「……くちゅん!」


 突然、沙霧が小さなくしゃみをした。


「やべっ……!」


 その拍子に手元がぶれ、俺は慌てて塩コショウのボトルを取り上げる。危うく、サーモンが塩コショウまみれになるところだった。


「さすがポンコツわんわん……油断も隙もないな」


「ポ、ポンコっ……! ひ、ひどいですわんっ! これでも一生懸命やってますのにぃっ!」


 犬耳をへにゃんと垂らして抗議してくる沙霧の姿は、どこか健気で微笑ましい。思わず、俺は沙霧の頭をポンポンと撫でてしまう。


「ごめんごめん。次から気を付けような。コショウとくしゃみはセットみたいなもんだから、出そうになったら手を離すんだよ」


「きゅうん……♡ わかりましたわん……」


「よしよし。じゃあ、裏面にも同じように振ってみようか。今度は一人でもできるかな?」


「わんっ!」


 ちょっと慰めてやればこの通り、ちょろくて可愛いわんこじゃないか。しかも、学習能力は非常に高い。尻尾をふりふりしながら塩コショウを振る姿には、もはや一切の迷いはない。


「できまし──はっ……くちゅんっ!」


 またくしゃみに見舞われても、きちんと俺の教えを守っている。


 やればできる子、すごいぞ沙霧!


 ここで調子に乗られてやらかされても困るので、今は称賛を心の中だけに留めておく。無事に完成した暁には、たくさん褒めてやらねばなるまい。俺はアメとムチを使い分けられる飼い主なのだ。


 うん、よし……まだどうにかわんこ扱いできてるな。


 ひとたび気を抜けば、頭がおかしくなりそうなこの状況。調理実習でもないのに、なんで自宅でクラスの女の子と一緒に料理してんの──


 とか考えるな、俺!


 てかさぁ──

 くしゃみまで可愛いって反則すぎないか……?


「……ご主人様? どうかしましたわん?」


「いや、なんでもないよ」


 いかんいかん、気を確かに持て。ここで俺がしっかりしないと、びっくりどっきりとんでも料理ができ上がってしまうぞ。それは食材への冒涜だ。


 そして、この愛くるしいわんこの頬が落ちてしまうような料理を作るためにも、俺がしっかりしなくては。


「沙霧、次は全体に小麦粉をまぶしていくよ。まんべんなく丁寧に、ね。余分なのははたいて落とすんだ」


 俺が一切れ手本を示すと、沙霧はしかつめらしく頷いていた。


「ほら、沙霧もやってごらん」


「わんっ!」


 元気よく返事をした沙霧は、俺の動きを真似る。さすがに、小麦粉でくしゃみをすることはないだろう──そんな油断が命取りだった。


 ぱふぱふと小麦粉をはたく沙霧は真剣で、徐々にその顔がサーモンに迫っていく。ド近眼でもそうはならんやろ、ってくらいに。


「できましたわんっ! どうですか、ご主人様っ!」


 振り返った沙霧の顔は誇らしげで──そして、所々がほんのりと白く染まっていた。


「あー……うん。とりあえず、じっとしてて」


「……わふん?」


 自分がどうなっているのか、全くわかっていないらしい。俺は首を傾げるわんこの頬に手を伸ばす。指先をすり、と滑らせると、沙霧はぴしりと固まった。


「ひゃわっ……?! な、なんで顔に触るんですわんっ?!」


「……小麦粉、ついてるから」


「えっ?! あ、あの……わざと……じゃないですよ……?」


「わかってるよ。でも──」


 指先に感じる、粉の感触と沙霧の体温。やわやわでもちもちの肌が吸い付くようで、じわじわと思考を溶かす。


 まずいなぁ……。

 火も使ってないのに、焼け焦げそう……。


 粉を拭い終わっても、俺はぷにぷにほっぺに夢中になっていた。指を離すのが惜しいと思ってしまう自分が、一番危険だ。


「……可愛すぎだろ、本当」


 つい、口からこぼれた。


「か、かか、かわわっ……?! 急になんですわんっ?!」


「ち、違っ……! ──沙霧は可愛いわんこだなぁって言っただけで、深い意味なんてないからっ!!」


 ってこれ……言い直しても全く誤魔化せてないやつっ!!


 そんな俺の焦りをよそに、沙霧はエプロンをきゅっと摘んで、胸元に額を押し当ててきた。とんっと軽い衝撃、それは、俺の心臓が撃ち抜かれた音だったのかもしれない。


「う、嬉しいわん……♡ もっとご主人様に可愛いって言ってもらえるように……頑張ります、わん……!」


「んぐっ……!」


 沙霧の尻尾がゆらり、ゆらりと揺れる。ついに、俺の理性にも火がついた──そんな気がした。


 いや、だめだっ!

 まじになるなっ!!

 これは沙霧の生み出した妄想わんこワールドなんだからっ!


 唇を噛み、無駄な足掻きと知りつつも、どうにかして意識を現実に引き戻す。深呼吸を一つして、俺はそっと沙霧を引き剥がした。


「……わん?」


「沙霧、ここからは俺がやるから──食器の用意、頼めるかな……?」


「わんっ……♡ ご主人様ぁ♡」


 甘く蕩けるような声を聞きながら、俺はどうにか理性を繋ぎ止め、フライパンを手に取った。


 ……サーモンだけは、焦がさないようにしないと。

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