第18話 再来腹ペコわんこと、キッチンの温もり
気が付けば、リビングにはすっかり夜の帳が下りていた。腕の中には柔らかな温もりと、確かな息遣い。なぜこんな状況になっているのかはさて置き、とても心が安らぐ。
世の中にはアニマルセラピーなるものがあるというが、たぶんこんな感じで──
ぐうぅぅぅ〜〜〜〜っ!
不意に、大きな音が静寂を打ち破り響き渡った。どこからどう聞いても、腹の音だった。
おいっ、台無しっ!!
台無しすぎるだろっ!!
なんか良い雰囲気だったのにさあっ!
もちろん、これの発生源は俺ではない。俺の腕の中にいる、愛犬から発せられたものだ。
沙霧はピクリと身体を震わせて、そろりと顔を上げる。その顔は、暗闇でもわかるくらいに真っ赤に染まっていた。
そして、ぱちりと目が合った。じっと見つめると、沙霧はまた俺の胸に顔を埋めてしまう。そこから、くぐもった恥ずかしそうな声が聞こえてきた。
「あの、あの……えっと……うぅ。ご主人様ぁ……ごはんは、まだです……わん?」
腹ペコわんこの再来である。呆れてもうツッコミを入れる気力もない。俺は深くため息をついた。
「はぁ……一つ聞くけど、今日の昼は食べたの?」
「……食べそこねました、わん」
「ちゃんと食べなきゃだめでしょっ!」
「きゅうん……」
一日朝夕の二食というわんこも多いらしいが、沙霧は基本三食のはずだ。昨日空腹で倒れたというのに、それを忘れてしまったのだろうか。まったく、とんだポンコツわんこもいたものだ。
しょんぼりとうなだれた沙霧はしばらくして、犬耳を力なくへにゃんとさせながら、再度顔を上げる。
「だって……しょうがなかったんですわん。荷物を運ぶのが、大変すぎて……」
その瞳が涙で潤んでいて、胸の奥を刺激される。
そういえば、そうだったっけ……叱ったのは、ちょっと悪かったかも。
「しょうがないなぁ、沙霧は。ちゃちゃっと用意するから、もう少しだけ待てる?」
「くぅん……♡ 待ちますわんっ。やっぱりご主人様は優しいですの」
「はいはい。その間、いい子にしてるんだよ」
すりすりと頬擦りをしてくる沙霧の頭をポンポンと撫で、立ち上がる。
それじゃあまぁ、やりますかね。
可愛い腹ペコわんこのために、特製ディナータイムだ。
ついでに、明日の昼の仕込みもしてしまおう。
俺はキッチンに向かい、制服の上にエプロンを身に着けた。
まずは米を研ぎ、炊飯器をセット。その待ち時間におかずを作っていく。
今日のメインディッシュは、沙霧のリクエストである魚料理──サーモンのムニエルだ。
冷蔵庫から出したサーモンの切り身の両面に軽く塩を振り、しばし放置。こうすることで臭みのある水分が抜けて、さらに旨味も凝縮される。素材本来の持ち味を最大に引き出すことこそ、料理の本領なのだ。
続いて、野菜室からレンコンを取り出す。表面の泥を洗い流し、皮を剥き、半月にスライス。変色しないように、切ったものから酢水に浸していく。
さて……ここらで昨日作ったラタトゥイユも軽く温め直しておこうか。フライパンのまま冷蔵庫に入れておいたものをコンロに乗せて──
ふと気付く。
そういやこれ……玉ねぎ入ってるな。
玉ねぎといえば、犬猫に与えてはならないものの代表格である。誤って口にしてしまえば中毒症状を引き起こし、最悪の場合は命に関わる。
しかしながら、そこはうちの沙霧。かなり特殊なわんこである。なんと、玉ねぎを食べてもへっちゃらなのだ。昨日もパクパクと嬉しそうに食べて、その後も元気いっぱいだった。
まぁ……そもそも本物のわんこじゃないしな。
うん、よし──だいぶ調子が戻ってきたぞ。
アホな考えができるようになったことに謎の安堵を覚え、次の工程へ進む。
フライパンにゴマ油を熱し蓮根を投入、薄っすらと透き通ってくるまで炒めていく。そこに料理酒、砂糖、薄口醤油、みりん、出汁の素を加えて汁気がなくなるまで炒め煮に。最後にアクセントとして一味唐辛子を少々振りかける。
艷やかな茶色が美しい、蓮根のきんぴらが完成した。我ながら、完璧な仕上がりだ。
自画自賛して、一人で頷いていると──
「ご主人様っ! お手伝いはいりますわん?」
横から、ぴょっこりと沙霧が生えてきた。犬耳をピンと立て、ゆらゆらと尻尾を揺らしながら、俺の手元を覗き込む姿はまさにわんこそのもの。
耳も尻尾も幻覚のはずだが、ここまではっきり見せてくると愛らしくて仕方がない。
俺は出来立てのきんぴらを一つ、菜箸でつまみ上げて沙霧の口元に差し出した。
「はい沙霧、あーん」
「あーむっ♡」
躊躇うことなくきんぴらに噛み付いた沙霧の口からは、シャキシャキと軽快な音が響く。やがて、こくりと喉を鳴らした沙霧は目を輝かせた。
「ん〜〜〜っ♡ とっても美味しいですわんっ。でも──」
「ん? どうしたの?」
「お夕飯は洋食と言ってませんでした? 蓮根のきんぴらって、完全に和食じゃないですわん?」
「あぁ、それはね──今日食べる用じゃなくて、明日の弁当のおかずにするんだよ。朝から全部作ってたら大変でしょ」
「なるほどっ! さすがご主人様ですわんっ!」
「いやぁ、それほどでもあるけどね。沙霧の分にも入れてあげるから、楽しみにしてなよ」
「私の分……ですか?」
くりんとした瞳を大きく開いて首を傾げる沙霧。なにをそんなに驚いているんだか。
「明日から沙霧も学校に行くんでしょ? なら、弁当は必要じゃん」
「はうっ……! まさか樹く──ご主人様に作ってもらえるなんて思ってませんでしたわんっ」
「そりゃ作るよ。沙霧は俺の愛犬だからね」
よしよしと頭を撫でると、沙霧の頬がでれっと緩んだ。弁当一つでこんなに喜んでくれるなんて、可愛いやつだ。
「きゅ〜ん♡ ……はっ! そうじゃないですよ、ご主人様ぁっ!」
「え……弁当作っちゃだめだった?」
「違いますわんっ! 私、お手伝いに来たのですっ!」
胸の前でぎゅっと手を握りしめてやる気をあらわにする沙霧を見て、つい不安にかられる。沙霧はポンコツわんこガール、料理なんてさせたらどうなることやら。
各種食材からカーボン料理ならまだしも、暗黒物質を生み出したり、包丁で愛らしいお手々をサクッとやったりするかもしれない。それは飼い主として看過できない。
とはいえ、ここまで言ってくれているのに無碍にするのは可哀想だ。俺は少しだけ悩み、答えを出した。
「じゃあ、一緒にムニエルを作ってみようか。俺が手取り足取り教えてあげるからさ」
「はわっ……! 手取り足取り……が、頑張りますわんっ♡」
なぜか少し頬を染めつつも嬉しそうな沙霧に、俺も思わず笑みがもれる。こうしてまた一つ、沙霧を甘やかしてしまった。
けれど──
不思議と後悔なんて微塵もなかった。こんな温かい時間がいつまでも続いたらいいなって、思ってしまったから。
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