第21話 幸せわんこと、夕食のひととき
俺と沙霧は、向かい合う形で食卓についた。部屋の中には出来立ての料理から漂う、食欲を刺激するいい匂いが満ちている。皿から立ち昇る湯気が、蛍光灯の光に照らされ揺れる。
さっきからずっと沙霧の犬耳がぴこぴこと落ち着きなく動いていて、期待の高さを物語っていた。
ここで待てをさせるのは……さすがに酷だよな。
「ほら沙霧、召し上がれ」
「は、はいっ……いただきますっ……わん!」
沙霧は胸の前で両手を合わせて、小さく頭を下げた。その仕草が妙にきちんとしていて、思わず笑ってしまう。
昨日の夕飯の時にはまだ、沙霧は人として生きていた。そこから丸一日を経て、すっかりわんこに変貌を遂げてしまったが、その品の良さだけは健在だった。
だが次の瞬間、尻尾がぱたぱたと揺れ始める。犬の尻尾といえば、感情を示すバロメーターである。勢いよくふりふりしているのは、間違いなく喜びの証。
って……俺の幻覚も定着しすぎてやばいな。
まぁ、見えちゃうんだからしょうがないんだけど。
「では……まずは、このサーモンのムニエルから」
沙霧はそっとナイフとフォークを手に取り、慎重にサーモンを切り分けた。その動きはわんことは思えないほど丁寧で、ナイフを扱う仕草ですらどこか上品だ。
一口大にしたサーモンを口に運ぶと──
「……んっ♡」
ぱぁっと、顔が綻んだ。
ふにゃりと緩む頬、ご機嫌に犬耳をピンと立て、尻尾を振る勢いは増すばかり。
「ふあぁぁ……♡ 美味しいですわんっ! 外はサクッと香ばしいのに、中はふっくらジューシーで……ソースの香りも、爽やかで優しくて……幸せの味がしますわん……♡」
うっとりと目を細め、頬がこぼれ落ちないようにと手を添える沙霧。食事をしているだけだというのに、その姿は見惚れてしまうほどだった。
「あははっ、そんなに気に入ってくれたならよかったよ」
俺も、つい頬が緩む。なんだか、胸の奥の方まで温かくなってきた。
こんな顔で食べてくれるなんて……ずるいよなぁ。もっと見たいって、思っちゃうじゃんか。
「……本当、美味しそうに食べるよね、沙霧は」
「実際に美味しいんですもんぅ。こんなご飯なら、毎日でも食べたいくらいですわんっ」
「ま、毎日って……?!」
そのセリフは反則だろっ!!
だってそれ……かなり使い古されてはいるが、プロポーズ的なアレじゃないかっ!
ドクンと強く心臓が脈打ち、動揺を隠しきれない。思わず手からフォークを取り落としかけて、慌てて掴み直した。
いやいやっ……!
そうじゃないだろ。これはあくまでも、飼い主とわんことしての──
……はず、なんだけど。
でも……それだけじゃないとしたら?
現実と妄想の世界がぶつかり合って境界が解け、混ざり、溶け合っていく。俺を混乱の渦へと巻き込みながら。
だが、沙霧は俺の様子などまるで意に介さず、一口、また一口とサーモンを頬張る。そのたびに、沙霧の笑みが少しずつ柔らかくなる。まるで、この二人きりの食卓が、じわじわと沙霧の心の中に染み込んでいくように。
そんな沙霧を見ていると、俺はもう、胸にわき上がる想いを抑えられなくなってしまった。
「……なんかさ、沙霧が喜んでくれると……俺まで嬉しいよ」
「えっ……?!」
沙霧の手がフォークを口に運ぶ途中で、ピタリと止まる。頬がわずかに赤く染まり、耳の先までほんのりと熱を帯びていた。
少し間をおいて、照れ隠しのようにまた口を動かす。やがてこくりと喉を鳴らし、それから小さく息を吐いた。
「……じゃあ、いっぱい食べて……ご主人様のこと、もっともっと嬉しくさせちゃいます、わんっ……♡」
「……それは、助かるよ。なら俺は、これからも沙霧のために美味しいご飯をたくさん作るからね」
「はわっ……♡ そんなこと言われたら──あぅ……餌付けされて、胃袋を掴まれて……骨抜きにされちゃいます、わん……♡」
「もう、なってるんじゃない? 蕩けた顔、してるよ?」
「はぅっ……!」
冗談めかして言うと、沙霧は赤くなった頬を両手で覆い隠した。指の間から覗く瞳は、恥ずかしさと喜びが入り混じり、うるうると揺れている。
「もうっ、ご主人様のばかぁ……こんなご飯食べさせてもらったら、誰だってこうなっちゃいます、わん……」
「でもそれは、沙霧のために作ったものだから」
他の誰のためでもない、沙霧に喜んでもらうために作った料理だった。自分も食べてはいるが、やはり食べてくれる人のためというのが大きい。
本来であれば、今は俺一人きりの静かな食卓になるはずだった。それをここまで鮮やかに、温かく彩ってくれているのは、間違いなく沙霧だから。
向かい側に、沙霧がいる。
同じ時間を過ごし、同じものを食べて、照れながらも笑い合って。そのことが、ただただたまらなく嬉しかった。
こんなの、自分でも絆されすぎだって思う。でも、仕方がないのだ。沙霧の言葉ではないが、ここまで懐かれたら、誰だってこうなってしまうはずなのだ。
「ほら沙霧、どんどん食べなよ。冷めないうちにね」
「くぅん……♡ はぁいっ」
小さく鳴いて、沙霧は食事を再開した。一口ずつ丁寧に、じっくりと味わうように。
それを眺めつつ、俺も食べ進める。
サーモンを噛み締めると、バターの香りと魚の旨味が広がり、舌の上で弾ける。ぱりっと焼けた皮の香ばしさと、優しいレモンの酸味が鼻から抜けて、口元が緩む。
うん……やっぱり美味いなぁ。
調理中は心を乱されっぱなしだったが、味に狂いはなかったようだ。でも、それだけじゃなくて──
これは沙霧と一緒だから。
沙霧は俺を見て、ふにゃりと、はにかむように笑った。まるで、俺の心の声が聞こえたみたいに。
「私……ご主人様に拾ってもらえて良かったです、わん……」
「そう、だね……沙霧が倒れていたのが、うちの前で本当に良かったよ」
くすりと、笑みが重なった。
ほんの些細な、どこにでもあるような夕食のひととき。けれど、この時間は紛れもなく、俺たちにとって特別なものになっていた。
こんな時間が、明日も、明後日も、その先まで続けばいい。そんな願いが、皿に残ったソースのバターの香りのように、俺の胸にじわりと広がり、満ちていく。
「ごちそうさまでした……大満足でしたわんっ♡」
食事を終えた沙霧の声と、皿とフォークが触れ合う音が、静かに響き渡った。
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