第2話 目覚めた彼女は腹ペコ

 ソファからむくりと上体を起こした月島さんは、まだ半分夢の中にいるように、きょろきょろと視線を彷徨わせていた。


 その姿はキッチンに立つ俺からもよく見える。しばらくして、ようやく俺の存在に気付いたらしく、ぱちりと目が合った。


「おはよう、月島さん」


「えっ、えっ……?! 相葉、くん……なんで……?」


 忙しなく瞬きを繰り返す月島さんの表情は、困惑でいっぱいだ。そりゃそうだろう。いきなりよく知らないところで目覚めれば、俺だってパニックになる。


「あ、よかった。ちゃんと名前覚えててくれたんだ?」


「さすがにクラスメイトの名前くらい覚えています……。相葉あいばいつきくん……でしたよね?」


「おぉ、まさか月島さんにフルネームを覚えてもらえてるなんて光栄だよ」


「そんなことはどうでもいいです。それよりも、ここはいったいどこなんです?」


 高嶺の花である月島さんにしっかり認知されていたという感激も、一蹴されてしまえば虚しさに変わる。あまり深刻にならないようにとおどけてみせただけなのに、少し悲しい。


 おまけに鋭い目で睨みつけられてるし……。


 とにかく、食事の準備も盛り付けを残すのみになったことだし、まずはしっかりと事情の説明をするのが先か。


 タオルケットを胸元まで引き上げて警戒心を露わにする月島さんに、俺はできるだけ穏やかに話すことにした。


「そりゃもちろん俺の家だよ。あ、誓って言うけど、変なことはしてないよ。うちの前で倒れてたから、放っておけなくてとりあえず運び込んだってだけだから」


「え……私、倒れてたんですか?」


「うん。うつ伏せで、あれは倒れてたというより落ちてたって感じだったかな。それで──お腹が空いてる以外に具合悪いところはない?」


「……なんでお腹が空いてるってわかるんですか?」


 おっと……これは失言だったかも。ここで、盛大に腹の音を響かせていた、なんて言ったらどうなることやら。


 ジトっと訝しむような視線を投げてくる月島さんに、いまさら本当のことは言えなかった。


「いや、うん……行き倒れっぽかったから、もしかしたらそうかなぁって思ってさ。間違いだったらごめん」


「…………」


 沈黙という返事があった。とはいえ身体は正直なようで、声の代わりにもう一度、お腹がぐぅと鳴いた。


 せっかく言わなかったのに、台無しじゃないか。


「あっ、やっ……これは……」


 顔を真っ赤にした月島さんが俯き、声も小さくしおれていく。可愛い──けど、ここで突っ込むのは悪手、俺が言えることはただ一つ。


「えっと……とりあえずご飯食べる?」


 これだけだった。しかし、月島さんは俯いたままふるふると首を横に振る。


「そこまでご迷惑をかけるわけには……」


「別に気にしなくていいって。これもなにかの縁だし、そのつもりで月島さんの分も作ってあるんだから」


「うぅ……すいません。そういうことでしたら、お言葉に甘えます……」


 倒れるくらいなんだから、最初からそう言えばいいのに。


 まぁ、今はせっかく作ったものが無駄にならなかったことを喜ぼう。


 そして、食事は楽しくとるべきだと俺は思う。暗い気持ちでは、味わう余裕もないだろう。俺は気分を切り替えるように、パチンと手を叩いた。


「おっけー。じゃあちゃちゃっと準備しちゃうから、月島さんはこっちに来て手を洗ったら座って待ってて」


「はい……」


 立ち上がり、よろよろとキッチンに歩いてくる姿には心配になるが、表情は多少明るくなったように見える。


 流しで手を洗った月島さんは、ふと顔を上げて鼻をひくつかせた。


「なんだか……すごくいい匂いがします」


「味の方も期待してくれていいよ──あ、タオルはこれ使って」


 冷蔵庫の横に吊るしてあるタオルを指すと、素直に従ってくれる。でも、その場で立ち尽くしたまま、ダイニングテーブルに向かう様子はない。


「どうしたの?」


「あ、いえ……これ、相葉くんが作ったんですか?」 


 そう言う月島さんの目は、俺が作った料理達に向いていた。


「うん。俺しかいないし、自分で作るしかないからね」


「もしかして、一人暮らしなんです?」


「まさか。父さんは単身赴任中だけど、普段は母さんもいるよ。今はたまたま一ヶ月くらい出張に行ってるだけ」


 うちの両親はなかなかに多忙だ。戸建てを構えたものの、それから父さんはあちこち転勤になることが増えて単身赴任に、母さんも今回のように出張が多い仕事をしている。


 そんな事情で自分で家事をしなければならなくなり、元々凝り性な性格もあって料理の腕もめきめきと上達中というわけなのだ。


「寂しくは、ないんですか?」


「うーん……そういう気持ちが全くないわけじゃないけど、そのおかげで生活できてるわけだからね。文句は言えないよ」


「そう、ですか。ごめんなさい……出過ぎたことを」


「いいって。それより早く食べようよ。いつまでも突っ立ってるなら手伝ってもらうけど、いいの?」


「……ごちそうになるんですから、お手伝いくらいはしますよ。なにをしたらいいですか?」


 冗談のつもりだったのに、真顔で返されるとは。そういうことなら遠慮なく使わせてもらおう。


「んじゃ、盛り付けが済んだ皿からテーブルに運んでくれるかな」


「わかりました」


 俺が盛り付け、月島さんがテーブルへと運ぶ。それを何度か繰り返して配膳を終え、二人で向かい合って座った。


「さて──足りなかったらおかわりもあるから、たくさん食べてよ」


「そんなには食べられませんよ……でも、とっても美味しそうです」


 テーブルに視線を落とした月島さんは、ふわりと微笑んだ。それは彼女が今日始めて見せた笑顔だった。


 つい見入ってしまう。これまで学校で見てきたものとはどこか違う、柔らかくて優しい雰囲気に、思わず引き込まれていた。


 俺の視線の意味がわからないのか、月島さんはこてんと小首を傾げる。その仕草があまりにも可愛いらしくて、心まで奪われてしまいそうになる。


「どうか、しましたか?」


 そんな問いかけで、ようやく我に返った。


「いやっ、なんでもないよ。ごめん、待たせて。それじゃあ──めしあがれ」


 俺が言うと、月島さんはこくんと頷き、律儀に手を合わせる。


「はい……いただきます」


 それは、育ちの良さが見える、自然で美しい所作だった。

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