第七話~独白⑤~
〈山吹真太郎の独白〉
────事件当日。
朝、俺は鏡の前で覚悟を決めた。
今日、木陰を殺す。
実行の機会は今日をおいて他にない。この日をどれだけ待ち望んだことか。
自室として与えられている部屋は、ひと通り片付けておいた。その他、身辺整理と言えるほどのことはできていないが、最低限の礼儀は果たしたと思いたい。
『先生、行ってきます』
朝の仕事を全て終え、出掛ける準備を整えた後、俺は朝食を取っている師匠へ一言声をかけ、工房を出た。
*
会場に到着すると、時刻は9時半を回ったところだった。木陰は12時に会場入りするようだが、その前に1つ大きな予定があった。10時を過ぎると能楽関係者が会場入りし、夜の公演へ向けて事前の調整を行うとの話だ。使用する小道具を製作した者として俺もその場に同席するよう求められていることを考えるとあまり時間はない。今のうちに経路や手順を確認しておかなければ。
公演開始である17時を迎える前に木陰が自身の控え室で1人きりになるタイミングを狙う計画だった。時間としては、16時を回った頃だろうか。
木陰は主催のイベント中はよく動き回っており、なかなか1人にはならないという。しかし、トリに何か大きな催し物を控えている場合は、人避けをした上でしばらく1人で控え室にて過ごし、その後は普段は吸わない特別な銘柄の煙草を吸いに喫煙所を訪れる習慣があるらしい。そのためか、木陰の控え室はいつも、ほかの関係者が利用する控え室とは階や棟そのものを分けているのだということだった。つまり、誰にも見られることなく木陰の控え室へ入ることができる絶好のタイミングは、あの男が喫煙所へ向かう直前だ。裏を返せば、その時間を逃すと実行はほぼ不可能となる。
初めは、公衆の面前での犯行を考えていた。
しかし、実際にこの日が近付くにつれて、いざ決行するとなった時、自分に人前でそのような大それた行動を起こす勇気が出るのだろうかと思い始めてしまった。この計画の大敵は、俺自身の気の迷いだ。それに、万が一誰かに取り押さえられでもしたら全てが水の泡となってしまう。
運の悪いことに、今回の公演には渓馬と野鴨も関わっていることを途中で知らされた。加えて、自分が数年前に鑑賞した能の公演に出ていた谷洲水斗という若手能楽師が主役を務めるのだという。野鴨が彼のことを甚く買っていたのを思い出した俺は、せめて彼らが真剣に作り上げようとしている舞台を真正面からぶち壊すような真似だけはすまいと決めた。
後のことは、別に考えていなかった。どう足掻いても、なるようにしかならないだろう。人を殺めた後にそのまま平気な顔で帰宅できるほど図太くはないため、素直に自首することになるような気がする。
逃げ隠れする意思はないからこそ、手段は何でもよかった。さすがに刃物で人を刺す度胸はないかもしれない。背後から忍び寄り、首を絞めるくらいはできるだろうか。幸い、腕力には自信がある。数十秒も絞め続けていれば失神するはずだ。その後は、濡らしたちり紙でも顔にかぶせておけば、そのまま窒息死へ持っていける。
生業である紙を人殺しの道具に使ったなどと師匠に知られれば即破門を食らうのは目に見えている。あの師匠のことだから、一発殴らせろと刑務所の面会部屋まで乗り込んでくるかもしれない。
*
10時を過ぎると、能楽関係者がぞろぞろと会場入りし始めた。それに合わせて、俺も最終調整の場に同席するため能楽堂へと向かうことにした。
『お、真太郎。おはよう』
能楽堂に入ると、渓馬がこちらへ向けて手を振っていた。ぺこっと会釈をして彼に近付いていくと、その隣には自分と同じくらいの歳に見える男もいた。
『今回、お前が蜘蛛の糸を作ってくれたんだってな?大したもんじゃないの。きめ細かくて薄い、良い紙だって水斗と話してたとこだよ。なぁ?』
そう言って、渓馬はその男へ同意を求める。彼が【水斗】と呼びかけたことで、数年前に鑑賞した舞台に立っていた能楽師がこの男だったのだと俺は気付いた。
『山吹さん、初めまして。谷洲水斗と申します。この度は本公演の小道具制作に携わっていただいたとお聞きしました。素晴らしい作品をご提供いただき、ありがとうございます。心を込めて使わせていただきます』
美しく洗練された所作で挨拶をした谷洲は、友人である野鴨の話によく登場する人物でもあった。
『山吹真太郎です。ご丁寧にありがとうございます。蜘蛛の糸、お気に召していただけるといいのですが』
俺も彼の誠意に応えるため、姿勢を正して礼をした。谷洲は、能楽の界隈では知らない者はいないほどの大家の出であり、野鴨や渓馬と仲が深いという。
──育ちの良さもあるんだろうが……落ち着かない。
この後、大罪に手を染めようとしている負い目もあってか、俺は曇りのない眼でこちらを真っ直ぐに見据えている谷洲と目を合わせられなかった。彼の醸し出す毅然とした空気を浴びていると、どういうわけが咎められているような気になり、酷く居心地が悪い。
不自然に目を泳がせていたであろう俺を見てどう思ったかは分からないが、彼は変わらぬ様子で『山吹さんのことは、野鴨から何度も聞いていました』と言葉を続けた。
『え、野鴨さんからですか?』
『はい。きっと良い職人になる、といつも言っていますよ』
それは初耳だった。俺のことをそんな風に言ってくれていたのか、あの人は。俺が今日以降、紙漉きの仕事に従事することはもうないのに。そう思うと、胸が針で刺されたように鋭く痛んだ。
*
12時を過ぎた頃。
ついに木陰が会場に到着したらしい。今はマネージャーと控え室にいるようだ。このマネージャーの花房という男は、数年前に木陰から声をかけられ、今の職に就いたと小耳に挟んだ。かなり溺愛されているらしく、関係性に闇深さを感じる。彼もまた、木陰に何か弱みを握られているのだろうか。それとも、紛うことなき本心からあの男に付き従っているのだろうか。知りもしない男のことなど、別にどうだっていいが。
その後、俺はしばらく自分の控え室でぼんやりと時間を潰していた。
──木陰のところに挨拶に行っておいた方がいいのか?
ふとそう思い立ち、俺は腰を上げた。別棟への経路の再確認にもなるだろう。
部屋を出たところで、渓馬と鉢合わせした。
『お、どこ行くんだよ』
『木陰さんにご挨拶でも、と思いまして』
俺がそう答えると、彼は『ああ、今はやめとけ。取り込み中だった』と俺を制止した。
『そうなんですか?』
『ついさっき俺も挨拶してきたとこだよ。行くんだったら後で俺と一緒に行こうか。あの人に会うの、今日が初めてだろ?』
それも名案だと思い、渓馬の言葉に従うことにする。1人であの男に会いに行くのは、気が進まなかったのだ。万が一、両親のことで何か確信めいたことを言われでもしたら、俺は平常心を失ってしまうかもしれない。だが渓馬と行けば、その可能性はまずないだろう。
会話の流れで昼食に誘われたが、そんな気分でもなかったので辞退した。渓馬は少し残念そうに『若い奴にメシの誘いを断られるのは意外とショックなんだぞ。水斗もどうせ来ないだろうし、涼もまだ会場入りしてないし』と苦笑を浮かべていた。
*
13時になると、無事に展示会が幕を開けた。
俺は気分がソワソワとするの抑えられず、会場を歩き回っては控え室に戻るのを何度か繰り返していた。怪しまれるかとも思ったが、こうして常に動きを見せておくことで、周りの者に「初めて訪れた会場を散策しているのだろう」という刷り込みができる。木陰の控え室のある別棟へ立ち入ったところで疑いをかけられずに済むかもしれないという淡い期待もあった。
途中、渓馬に『一緒に展示を見て回ろう』と声をかけられた。展示品の解説をしてほしかったようだ。俺は和紙のことはそれなりに分かるが、それ以外の工芸品については彼の方が造詣が深いはずだ。不思議に思ったが、1人でいるのも手持ち無沙汰だったため、その頼みを承諾することにした。
『構いませんが、解説と言われても、俺は紙の話しかできませんよ?』
『それで十分。俺はお前の口から紙の話が聞きたいんだよ。見たか、館内に和紙の工芸品が色々と飾られてたろ?ああいうのを見る機会って、普段はなかなかねぇからなぁ』
無愛想な俺の答えを聞いても、彼は気を悪くした風もなく、いつも通りの柔らかな笑顔でそう言った。
*
時計の針は16時を示していた。予想通り、数分前まで会場にいたはずの木陰の姿が見えなくなっている。あの男はおそらく控え室へ戻ったはずだ。ようやくこの時が来た、と気分が高揚した。
しかし、悠長に構えている時間はない。木陰が喫煙所へと向かうために部屋を出てしまった時がタイムリミットなのだ。控え室にいる間に何とか実行しなければ。
事前に、内側から鍵をかけることができない旨は確認済みだった。数年前、とある催し物が開催された真夏のある日、関係者の子どもが部屋をあちこち移動して遊んでいた際に、誤って内側から施錠してしまい、そのまま数時間見つからず閉じ込められるという事故が発生したらしい。これがきっかけで、全ての部屋から内鍵が撤去されたのだという。幸いにも、部屋の中に演者用の水分が置いてあったことで、その子どもは助かったようだ。鍵を撤去した代わりに、防犯のため廊下に等間隔に監視カメラを設置したのだと聞いた。
この監視カメラに映り込まないように動くのは少し骨が折れる。このために、午前中からあちこちを散策する振りをして施設内を歩き回っておいたのだ。この狙いがどこまで通用するかは分からないが、無策で挑むよりはまだマシだろう。俺はひとまず、殺人に必要な道具を取りに一旦自分の控え室へ戻ることにした。
裏手の通路に出ると、一目散に自分の控え室を目指した。この間に誰かに見られても特に問題はないが、できることならば誰にも会いたくない。別棟へのルートは午前中と午後を使って何度か確認した。何も支障はない。あとはただ静かに、決めたことを完遂するだけだ。
『ああ、いたいた。真太郎、ちょっといいか』
不意に飛んできたその声に、俺の身体はびくりと反応を示した。
『は……?』
『ちょっと不具合が起きた。すぐに来てくれ』
自分の控え室まであと数歩。向こうからは、俺に声をかけた人物が走ってくる。
──渓馬さん、何で。
なぜ、今なのだ。今日はやけにこの人と顔を合わせることが多いと思っていたが、どうして今ここでも出くわすことになるのか。
『あ、いや、俺、ちょっと……』
咄嗟に誤魔化してこの場を切り抜けようとしたが、あっという間に駆け寄ってきた渓馬にがっちりと肩を掴まれ、動けなくなった。
『早く来いよ。お前にも関係があることだ』
この非常事態に、心臓がバクバクと音を立てて鼓動し、全身は鉛のように重くなる。渓馬の拘束を抜け、この場を立ち去らなければならないのに。今を逃せば、もう機会はないというのに。
『上演開始まで1時間を切ってんだ。急げ』
てきぱきとした口調でそう告げた彼は、俺をぐいぐいと能楽堂の方面まで引っ張っていく。仕事に関することだと言われれば、そちらを優先せざるを得ない。
別棟とは真逆の方向へと引きずられていきながら、俺はもう顔を上げることができなかった。
結局、その不具合の調整が終了したのは40分後だった。20分後には上演開始の時刻が到来する。もう遅い。期を逃したのだという明白な事実が、俺の心を打ちのめしていた。
*
17時になり、【土蜘蛛】が幕を開けた。しかし俺の胸の内はもう、それどころではない。
失敗だ。俺は完全に失敗したのだ。全ての覚悟が打ち砕かれた。
何もかも、渓馬のせいだ。
──何でだ。何で、あのタイミングで、あの人があんなところにいたんだよ。
心臓が早鐘を打つように高速で脈打ち、呼吸が激しく乱れる。感情のコントロールが秒読みで利かなくなっていくのが分かり、ここにいればこの厳かな空気を壊してしまうと直感した俺は、思わず席を立って能楽堂の外へ出た。
ふらつきながらも何とか化粧室へ辿り着いた俺は、息苦しさのあまりその場にうずくまった。
──こんなの冗談だろ。これからどうする。いや、もうどうしようもない、終わった。俺は何も果たせなかった。
焦りや不快感、吐き気、烈火のような怒り、口惜しさ、そして安堵にも似た凪の心。著しい感情の数々が目まぐるしく次から次に、秩序なく噴き上がってくる。
そしてそれらの感情の合間を縫うように、渓馬という男に対する強い憎しみが腹の底から突き上げるように湧出した。何なのだ、あの男は。間が悪いにもほどがある。よりにもよってあの瞬間に声をかけてくるなど、一体どういう了見なのか。あれが意図も何もない無自覚から来た行動だというのならば、もはや人ならざる何かの悪戯としか思えない。
まさか計画に勘付かれ、阻まれたのか?……いや、さすがにそんなところまで見抜かれていたとは思えない。この数ヶ月、俺は渓馬とは顔も合わせていないのだから。まさか昼食の誘いを断ったことを怪しまれたのか?だが、そんなことはこれまでに何度もあった。俺のノリが悪いのなんて今に始まったことではないし、彼もよく知っているはずだ。
ぐるぐると頭の中で可能性が浮かび上がっては消えていく。しかし、どれだけ考えたところでこの状況が意味するものはただ1つ。もう、どうにもならない状況だということだ。タイミングどうこうという話ではない。俺の気持ちの問題だ。決死の覚悟をくじかれた。もう無理だ。この無念を胸に抱えたまま、これからも木陰が表舞台でよく回る口と経営手腕をひけらかしながら順風満帆に生きていく様を、指を咥えて見続けなければならないのだ。
『…………くそ』
喉の奥から、弱々しくそんな悪態がこぼれ落ちた。決意が不発に終わった以上、何事も無かったかのように座席へ戻らなければ。だが、今は駄目だ。もう少しだけここにいて、心のさざなみが落ち着いたら、立ち上がろう。
*
【土蜘蛛】が終了した。この後は打ち上げがあると機構の職員から伝えられていたが、そんなものに参加してたまるか。誰の顔も見たくない。もちろん渓馬の顔など、目にすればその場で俺は発狂してしまう。一刻も早く控え室に戻り、荷物をまとめて退散してしまいたい。
しかし、裏通路へ足を踏み入れたところで、俺は異変を察知した。何か雰囲気が変だ。仮にもイベントが無事に幕を下ろしたにもかかわらず、この物音を立てるのもはばかられるような異様な空気はなんだ。
──人払いでもされてるのか……騒がしいどころか、むしろ静か過ぎる。……何かあったのか?
昼間いたはずの何人ものスタッフが、どこにも見当たらないのだ。この後は会場の後片付けや反省会、予定されている打ち上げの準備など、イベントスタッフの仕事は山積みのはずだ。
『山吹さんッ』
突如、よく通る声に名を呼ばれ、俺は弾かれたように顔を上げる。血の気が引いたような顔で立っていたその男は、たしか能楽関係者の1人だ。昼間に上演前の調整で顔を合わせたので覚えていた。
『あの、第2会議室まで来てもらえますか?』
彼は硬い声で俺にそう言った。冗談じゃない。反省会か何かやるつもりなら、御免こうむりたいところだ。
『いや……自分はもう帰るので……』
遠回しに断った瞬間、彼の目つきがぐっと険しいものへと変化した。
『駄目です』
『え……?』
『お帰りいただくわけにはいきません。……お願いですから、私の言うことに従ってください』
その厳しい態度に気圧され、俺はわけも分からず第2会議室へ向かうことを余儀なくされたのだが──────
*
現場に駆けつけた警察による事情聴取を、俺は狐につままれたような思いで受けていた。
殺すつもりだった男が、知らぬ間に命を落としていた。病死か何かだろうか。昼間見た時は体調を崩しているようには見えなかった。それがこのような急展開を迎えることになろうとは。あまりにも突然の事態だった。
数時間前、決行を目前にして邪魔が入り、俺は木陰殺害を断念した。あれで何もかもが終わったのだと思っていたが、蓋を開けてみるとそうはならなかった。
あの男をこの手で葬り去るという悲願は叶わなかったが、偶然にもこの世から姿を消してくれたことは素直に喜ぶべきなのだろうか。
犯行に移る直前、幸か不幸か、不具合の調整に呼ばれたことで、別棟へ繋がる廊下に設置されている監視カメラに俺は写り込まずに済んでいる。別棟へそもそも足を運ぶことができていないのだから、当然だ。カメラに写っていれば、何をしに行っていたのかと責められていただろうから、九死に一生を得たと言うべきか。殺害に失敗した上に、警察からも嫌疑をかけられていたならば、相当面倒なことになっていたはずだ。
渓馬に対しては、公演が終わった頃までは激情に駆られ、長年世話になった恩も忘れて心から恨みを抱いていたが、いつの間にかそんな思いは消え去っていた。結果的にあの時、彼に引き止められたことで、俺は罪を犯さずに済んだのだ。どの道死ぬ運命にあった木陰に、わざわざ手を下す必要はなかった。
──あの人に、俺は知らないうちにいつも助けられてる。感謝しなきゃならないのに。
8つの時から嫌な顔ひとつせずに自分の面倒を見てくれた大切な親代わりに対して、一時的であったとはいえ、あれほどまでに攻撃的な感情を抱いた不義理な己を、俺は恥じた。
*
数日後、木陰の死は事件性のない病死の案件として整理されたと、あの花房というマネージャーから知らされた。報せを受けた俺は、そうか、と淡白にそれだけを思った。
全て終わったのだ。木陰は地獄へ落ち、俺は手を汚さずに済んだ。改めて、あの日の自分がとんでもないことを実行しようとしていたのだと自覚し、軽い動悸を覚える。
死因はアレルギー反応によるショック死だということだった。怖いもの何もなさそうに見えたあの男も、さすがにこれには太刀打ちできなかったのだろう。不謹慎だが、俺は思わず笑みをこぼした。あいつは意識を失う直前まで身体の不調に苦しんだのだと思えば、少しだけ気が晴れるようだった。
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