第六話~独白④~

〈山吹真太郎の独白〉




────事件の半年前。


 『真、何か妙なこと考えてるんだったら、行動する前に俺に話せ。最後まで1人で抱え込むなんてことは、絶対やめてくれ』

数日前、野鴨に誘われて食事に行った。そしてその帰り際、彼は俺にそう告げた。何かと察しのいいこの人のことだ。勘付かれたかと一瞬冷や汗を掻いたが、特にそういうわけではなかったらしい。

『……何かありましたか、涼さん。俺、何か変なこと言ったかな』

『いや。別に何もない。お前はいつも通りだ。……ただ、何の根拠もない胸騒ぎがしただけ。だけど、今のは決して冗談で言ったわけじゃないからな』

表情は乏しかったが、俺のことを心から案じての言葉だったことは十分に理解できた。



 出会った当初、俺のことを真太郎と呼んでいた彼は、何度も会ううちにいつからか真と呼ぶようになった。それだけ俺たちの関係性が深いものとなった証拠とも言える。自分と同様に口数は少ないが、言動の端々に優しさや気遣いを滲ませてくれる彼と共にいる時間は、俺にとっての数少ない癒しのひとときだった。


 渓馬に連れられてきた野鴨と初めて顔を合わせて以来、俺たちは度々約束を取り付けては会い、色々な話をした。いつも彼は決して多くを語ろうとはしなかったが、つい半年ほど前の食事の席で『俺、養子なんだ』とぽろりとこぼしたことがあった。

『養子、ですか……?』

『そう。実は野鴨の両親は、俺の生みの親じゃない。……俺にとっては生みの親なんか今やどうでもいいくらいにデカい恩がある、大好きな人たちだけどな』

その話に、思わず俺は食い付いてしまった。

『お、俺もです』

その何気ないカミングアウトになぜか便乗した俺に、彼は『ああ、やっぱり?』と思いもしない反応を返してきた。

『やっぱり……?』

『あ、変なこと言ってごめん。俺がたまに家族の話をしても、お前からは全くその手の話が出ないから、もしかしたらそうなんじゃねぇかなって思ってたんだよ。それに、俺とお前は何となく似たところがあるように感じてたから』

そう言って微かな笑みを浮かべた彼を見た瞬間、それまで心に積み続けていたいくつもの重りのようなものの一部がフッと消え、身体が軽くなったように感じた。

──もしかして、こうやってこの人に少しずつ話ができたら、俺の気はそれで収まるのか……?

ふと、俺はそう思った。彼との会話の中で心の中に巣食う復讐心の闇が薄まっていくのなら、それに越したことはないのではないか。

 いくら義理の子とはいえ、身内から殺人犯が出れば山吹家の人々へ想像を絶する迷惑と心労をかけることは目に見えている。彼らの人生を台無しにすることになるのだ。江戸から続く大切な和紙の伝統も、いとも簡単に途切れてしまうだろう。

これだけ世話になった相手に、恩を仇で返すような真似をしたいわけがない。彼らを少しでも思う気持ちがあるのならば、殺人による個人的な復讐など絶対に止めるべきだと分かっていた。


 もう終わりにしよう。どうしても復讐をしたければ、別に対象の命を奪わなくてもできることがある。生き地獄というものを見せてやればいい。ああいう自尊心の塊のような男には、こちらの方が余程、堪えるはずだ。

誰かを恨み続けるのは、とても気力の要ることだ。野鴨に出会って、張り詰めていた心に少しでも余白が生まれたのならば、それは自分にとって彼との出会いが人生において大きな転機だった証なのだろう。

 ごく自然な心の動きが、俺にその思考をもたらしてくれた。やっと気持ちに整理をつけられた気がした。



 久しく忘れていた爆発的な怒りと抜け出すことが不可能なほどに深い心の闇を思い出したのは、その半年後のことだった。



 その日、師匠のもとに1本の電話があった。

『真太郎、ちょっと部屋まで来い』

電話を終えた師匠に呼ばれ、俺は作業を止めて彼の自室へ向かった。


 目の前で正座をした俺に、師匠は開口一番に「真太郎、お前に仕事の依頼だ」と告げた。

『……俺に、ですか?先生にではなくて?』

『俺に頼みてぇんだったら、先方もわざわざお前の話なんか出さねえよ。なかなかねぇんだぞ、こんなことは。せっかくの機会だ。やってみろ』

師匠はいつもより機嫌が良いように見えた。これは、またとない良い話だ。師匠も喜んでくれている。ならば俺も喜ぶべきなのだろう。

──何で、俺なんだ?

だが、俺の胸に沸き上がってきたのは喜びではなく、違和感だった。別に俺は名の知れた職人ではない。腕前にしても、人様から金を取れるほどの紙を作れるような段階にはまだまだ達していない。金額の安さを狙うなら、うちではなく機械製の工場に依頼する方が良いに決まっている。俺に頼もうが師匠に頼もうが、山吹和紙への依頼である以上、料金は一律なのだから。

『その方は、わざわざ俺の名前を出したんですか?』

俺の問いに、師匠は『だから、そうだと言ってんだろうが。しつけぇぞ、ったく』と少し声を荒らげた。

『お前のことをどこで知ったのかは知らねぇがな、おおかた俺の出先にくっ付いてきてるとこを誰かさんが見といてくれたんだろ。営業もかけねぇでいきなり名指しで仕事をもらえるってのは、相当運が良いんだぞ。俺が若ぇ頃には考えられなかった話だ』

師匠は、この話のありがたみが分からねぇのか、と言わんばかりのやや興奮気味な口ぶりだった。無論、師匠を差し置いて下っ端が仕事を依頼してもらえるということがどれだけ珍しいのかくらい、分かっているつもりだ。だからこそ、なぜ俺のような駆け出しの名前が上がったのか疑わしくて仕方がないと思うのは、邪推が過ぎるのだろうか。

『……先生、すみません。ちなみにその依頼は、どなたからのものですか?』

それを聞かずには、この仕事は受けられない。そう思い尋ねた俺に、師匠は『日本芸術機構のお偉いさんだよ』と答えた。

日本芸術機構。

その組織の名を聞いて思い出すものは、俺にとっては1つしかない。

──木陰か。

夢にまで見るほどに憎み続けた男の顔が、脳裏に浮かび上がった。日本芸術機構で現理事長を務める男。そして、忘れもしない、両親の仇だ。

 そんな仕事を受けてたまるか。カッとなって思わず断ろうとしたが、その瞬間に思い出した。この道に進んだ一番の理由こそ、あの男を屠る機会を得るためではなかったか。

『……ぜひ、その仕事を俺に受けさせてください』

両手を畳について頭を垂れ、承諾の意を示した俺に、師匠は『最初っからそう言えってんだよ』と舌打ちを返した。




 師匠の部屋を出て、俺は小走りで仕事に戻った。仕事をしていなければ、とても平静を保ってなどいられなかった。


 日本芸術機構主催の、伝統工芸品の展示会が半年後に開催される予定らしい。そのイベントの締めとして【土蜘蛛】という能の演目を上演することになっているという。俺への依頼内容とは、その際に舞台上で用いる、蜘蛛の糸に見立てた紙製の小道具を製作してほしいということだった。

 能楽と言われて、すぐに渓馬と野鴨の顔が浮かんだ。渓馬は、その業界では有名な家の嫡男だ。野鴨もあの若さで面打ち師としてそれなりの地位を築いている男である。

 対して、俺は和紙工房のいち従業員だ。これまでの人生で能楽に触れる機会など、数年前に野鴨に誘われて、天才と名高い【谷洲水斗】という歳の近い能楽師の舞台を鑑賞したくらいのものだった。何なら、その時の演目が何だったかすら、よく覚えていない。

 つまり、この分野において自分は無知もいいところだ。【土蜘蛛】で使われる蜘蛛の糸がどういったものか全く分からない以上、渓馬か野鴨に助言を仰ぐべきだろうか。そもそも、この仕事に自分が関わるということについて一言話しておくべきなのだろうか。しばらく迷っていたが、それがやぶ蛇になり邪魔をされてはたまらないと思い、彼らに話を聞くのは断念することにした。


 その日は仕事に集中することで気を紛らわせていたが、夜も更け、今日の仕事の終わりが近付くと、再び胸の内がざわざわと荒み始めた。何度考えてもやはり不審極まりない依頼だ。木陰が、俺がどういう過去を持つ人間なのかまで認識しているか否かは、もちろん確かめようがない。だとしても、あの男は何かしらの意図を持ってこの仕事を俺に依頼してきたのだと思えてならなかった。

 まさか、この期に及んで俺の両親のみでは飽き足らず、俺自身の人生をも破壊しようとしているのか。

──俺は、お前への復讐心を諦めてやろうと思ってたのに。

そう思った瞬間、胸の中で身を潜めていた怒りの炎が再び激しく燃え上がった。こうしてこれまでに数多くの人を懐に抱き込むか、その者の弱みを握るかして、自分への反抗心を削いで意のままに操ってきたのだろう。今まさに、俺もその餌食になろうかというところだったのだ。

 あの男を生かしておくことなどできない。俺は改めてそう痛感した。俺の両親、ひいては多くの人の人生をめちゃくちゃにした罪を、死をもって償わせる以外に、この憤怒を収める道は絶対にない。

──義父さん、義母さん、先生、渓馬さん、涼さん、申し訳ありません、本当に。

関わってくれた人々の顔が浮かんでは消えを繰り返し、やがて頭の中が真っ黒に染まった。この決断が赦されるとは決して思わないが、これを果たさずして残りの人生を平然と生きられるほどに心を強く持つことなど、俺には不可能としか思えなかった。



 野鴨に食事に誘われたのは、そのわずか数日後のことだった。

『真、何か妙なこと考えてるんだったら、行動する前に俺に話せ。最後まで1人で抱え込むなんてことは、絶対やめてくれ』

そう告げた彼の顔からは、何となく焦りが感じられた。続けて彼は、『何の根拠もない胸騒ぎがした』と口にした。本当に勘の良い人だ。

──全部、話してしまいたい。この人なら、俺を止めてくれるかもしれない。

そんな救いを求めるような思いが瞬間的に湧き上がったが、俺は即座にその気を打ち消した。心から信頼する大切な存在だからこそ、この人を巻き込むことはできない。何より、自分がそんな凶暴な感情を抱えて生きていることを、この人に知られたくなかった。

『大丈夫ですよ。何かあれば、相談させてもらいます。これまでもお互いにそうしてきたじゃないですか、俺たち』

俺の反応を注視していた彼へ向けた言葉と笑顔は、もしかしたら少し不自然だったかもしれない。

 俺の答えを聞いて数秒黙り込んだ彼は、何かを訴えるような目で『約束だぞ』とだけ告げ、その後は最後まで無言のまま、俺を最寄り駅まで送り届けてくれた。

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