第八話~独白⑥~
〈野鴨涼の独白〉
展示会の日の朝、渓馬さんからチャットメッセージが入っていた。
《おはよう。今日のことだが、真太郎は木陰さんと顔を合わせるのが始めてだ。俺もなるべくあいつの様子を見にいくつもりだけど、お前も少し気にしといてやってくれると助かる》
その文章を読んで、本当によく気が回るマメな人だと思った。俺は自分の作業に手一杯で、最近はあまり山吹のことを気遣う余裕がなかった。片や、この人は今回の公演の総指揮を執っている身であり、考えなければならないことや気に留めておかねばならないことは俺のそれの比ではないはずなのに、実に抜かりがない。
だが生憎、俺の会場入りは午後だ。夜の公演で水斗さんが使う顰にこの数日間で微調整を施していた。当日まで彼に待ってもらっている状況なので、午前中はそれにかかりきりになる予定だった。
《申し訳ないんですが、俺は顰の最終調整を終えてから会場へ向かうので、会場に着くのは午後になっちゃいます。午前中は真太郎のこと、渓馬さんにお任せしてしまうことになるんですけど……》
そう打ち込んで返信すると、
《了解よ。じゃ、午前中は俺がしっかり見とくから、午後はどうぞよろしく》
とすぐに返ってくる。それを確認して、俺は続きの作業に取り掛かった。
この展示会への誘いを受けたのは、今から半年前のことだった。木陰本人から俺に直接、連絡があったのだ。驚きと不快感を腹の奥底へと隠して話を聞いたところ、用件は、企画中の展示型イベントのために1つ面を打ってほしいというものだった。冗談ではない。俺の客には、かなり前から予約を取ってもらっている上、作業に取りかかるまでに何ヶ月も待たせているのだ。いくら日本芸術機構のトップだからといって、急に電話をしてきたような相手に「はい、分かりました」などと容易に応じられるわけがない。
そう思い、断ろうとしたが、木陰に『トリを飾る能の公演では、谷洲の坊ちゃんにシテをお願いすることになっているんだよ』と先手を打たれ、俺は言葉を呑み込んだ。
俺は兄である水斗さんの才能を、そして彼自身を、実の弟として心から愛している。ただ、彼には俺たちの血縁関係を伝えてはいないし、これからも伝えるつもりはない。この仕事を通じて彼の良き相談相手でいられるよう努力しながら、水面下では渓馬と共に彼の身辺に気を配り続けてきた。
木陰主催のイベントに水斗さんが呼ばれることは、今回が初めてではない。だが、明らかに彼が木陰に苦手意識を持っていることを知っているのに、このまま何も行動を起こさず放っておくことなどできない。幸い、今回は俺にも声がかかっている。彼の近くにいるチャンスを与えられているということだ。
『……参加させていただきます。詳細が決まり次第、ご連絡いただけますか?』
待たせている多くの客を後回しにするという不義理を心で詫びながら、俺はその場で承諾の返事をした。
*
ほかの関係者よりも数時間遅れて会場入りした俺は、水斗さんに顰を手渡した後、山吹の姿を探した。だが、すれ違いになっているのか、なかなか会うことは叶わず、ようやく彼の顔を見ることができたのは、上演開始の1時間前に突然発生した小道具の不具合によって渓馬さんに呼び出された時だった。
一目見て、俺は彼が尋常ではない状態にあると気付いた。
──真……?体調でも悪いのか?様子が変だ。
周囲に対しては顔色の悪さを悟られないよう上手く誤魔化しているようだったが、付き合いの長い俺や、それこそ渓馬にこの異変を見抜けないはずはない。
『真、どうした。気分が悪いのか?』
不具合の調整が一段落し、俺は彼に声をかけた。あと20分ほどで上演開始時間が来てしまうが、体調が悪いのならば舞台鑑賞どころではない。もちろん、水斗さんも渓馬さんもこの日のために繰り返し通し稽古を行い精度を高めていたことは知っていたため、今宵の【土蜘蛛】は質の高さが約束されたも同然の公演であり、山吹にもぜひ味わってほしいと思っていた。だが、これほど顔が真っ青になっている彼に2時間近くもある能の鑑賞を強要する気は毛頭ない。
『苦しいのか?水分は取ってるか?化粧室はここを出て右に曲がったところにある。俺も付き添おうか?』
周囲に気付かれないように小声で問いかけてみれば、顔をゆっくりと上げた彼は一言「大丈夫です」とだけ答え、俺から静かに離れていってしまった。
──何があったんだ、真。
その後ろ姿に明らかな拒絶の意思を感じ、俺は山吹を引き止めることができなかった。感情が豊かな男ではないが、決して愛想が悪いわけではない。出会った当初の彼は近寄り難い雰囲気を醸し出していたが、それも5年間に渡る付き合いの中で大きく変わった。
だから、ここまで冷たい空気をまとった彼を目の当たりにしたのは初めてで、俺はショックのあまりその場に立ち尽くしてしまった。
*
事件の翌日、俺は山吹に会いにいくことにした。彼が住んでいる工房は山の奥深くにあるため、自宅からは車で2時間以上かかる。昨日は午後を丸々イベント参加に費やしていたため、一刻も早く仕事に戻らねばならないのは百も承知だったが、それでも彼には今日会っておかなければならないと俺の直感が訴えていた。
師匠に許可を取り、家を出た俺は、ひたすら車を走らせる。しばらくして高速道路に入ったところで、今日の来訪についてそもそも山吹に何も伝えていなかったことを思い出した。
(しまった。何やってんだ、俺。無計画過ぎる。行ったところで、あいつがいなかったらどうするんだよ)
あれだけ厳しい師匠の下で働いている彼が、翌日にまだ工房に戻ってきていないことはさすがにないと思い直したが、彼が万が一不在だったとしても、ノーアポ状態なのだから俺に文句を言う資格はない。
(真、いてくれ、頼むから)
俺はハンドルをぎゅっと握りしめてそう念じた。
*
昨日、俺は人の死の現場に遭遇した。警察の事情聴取も受けた。生まれて初めの経験をして気分が高揚していたからか、昨晩はよく眠れなかったのだ。そのせいで判断力が鈍り、よく考えないまま家を飛び出してきてしまったのだろう。
あの後、山吹と言葉を交わす機会は結局訪れなかった。上演の最中、彼はしばらく席を立っていたように思う。やはり体調が悪かったのだろう。気付いてやれたのに、俺は何もできなかった。
(……でも、あの様子は本当にただそれだけだったのか?)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。昨日の彼を、単なる体調不良だったと片付けてもいいのだろうか。たしかに顔は蒼白状態だったが、その表情は気分が悪いというよりも、むしろ何か思い詰めたもののようには見えなかっただろうか。
頭の中の整理がつかないまま数十分も運転を続けていると、高速道路の出口が視界に入り、俺は慌てて車線を変更する。
(考え事しながら運転なんかしてたら事故のもとだ。ただでさえ寝不足気味なんだから)
高速を降りて少し走ったところでコンビニを見つけ、ひとまず車を駐車場に停める。エンジンを切ると、車内は不気味なほどの静寂に包まれた。だが、何かを考えるにはこれくらい静かな状況がちょうどいい。俺は少し顔を伏せ、目を閉じた。
山吹は基本的に自分の話をしない。いつも俺の話を聞いてくれているか、仕事の話をしてくれるかのどちらかだった。ただ、一度だけ個人的なことを話してくれた時があった。今から1年ほど前のことだ。
『俺、養子なんだ』
元々どの家の生まれかというところまで話す気はなかったが、何となく彼にはこの事実だけは知っていてほしいという思いがあり、唐突にそう口にした俺に、彼は『お、俺もです』と食い気味に答えてくれた。そんな気はしていたからその告白自体に驚きはしなかったが、彼のどこか必死な様子は印象深く、記憶に強く残っている。
それから数ヶ月は、彼の表情がほんの少し柔らかくなっていたように思う。
──きっとあいつの中で何かが吹っ切れたんだな。
俺はそう感じて、ほっとしていた。
だが、半年ほど前だろうか。なんの前触れもなく、ふと嫌な胸騒ぎがするようになった。別にそれが山吹のことだという確証はなかったが、何となく彼に会っておきたい気分を抱えて日々を過ごしながらも、迷った末にある日、彼を食事に誘った。
嫌がる素振りもなく誘いに応じてくれた彼は、俺と顔を合わせても何も言わなかったし、一見すると特に変わったところもないように見えた。だが、俺はその胸騒ぎが彼の顔を見て確実に強くなったのを感じた。
『真、何か妙なこと考えてるんだったら、行動する前に俺に話せ。最後まで1人で抱え込むなんてことは、絶対やめてくれ』
無意識のうちに、この言葉が口をついで出た。これを聞いた彼の眉間には一瞬、皺が寄ったような気がしたが、すぐに何事もなかったかのように表情を元に戻されてしまった。
『大丈夫ですよ。何かあれば、相談させてもらいます。これまでもお互いにそうしてきたじゃないですか、俺たち』
はっきりと線を引くようにそう告げられ、俺はもう何も言えなかった。言外に『あなたには関係のないことだ』ときっぱり突き付けられたように感じ、その日は彼を最寄り駅まで送り届けた後、どうしようもない寂しさに包まれながら1人トボトボと帰宅したのを覚えている。
「……あれか。あれだったのか……?」
その記憶を噛み締め、俺は静かな車内で歯を食いしばった。それ以降、2回ほど山吹を食事に誘ったが、予定が合わないという理由でどちらも断られている。
(ただ俺と会いたくなかったってことなら、別にそれでいい。だけど……)
彼が当時、何か別のことで酷く思い悩んで、自身の周りから人を遠ざけていたのだとすれば、その時に無理やりにでもきちんと向き合っておくべきだった。
「……急がねぇと」
こんなところでぐだぐだと思考を重ねているような時間はない。早く山吹のもとへ行かなければ。もし不在ならば、その時にまたどうするか考えればいい。
(まだ間に合うか、俺は……?)
半年前に彼にかけた無責任な言葉が、もう一度脳裏に甦ってくる。『最後まで1人で抱え込むなんてことは、絶対やめてくれ』などと口で言ったところで、彼が素直に悩みを吐き出してくれるようなタイプでないことは分かっていたはずだ。相談に乗った気になって満足していた自分がいかに浅はかだったのか、考えるだけで怒りが湧いてくる。
昨日会った彼が胸の内に一体どんなものを抱えていたのかは分からない。ただ、大切な友人の一大事に何も行動を起こすことのできない無情な人間にだけは、なりたくなかった。
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