序章 ぼくのうそつきなおおかみへ 中編
「藤四郎」
自宅に帰ると、姉が待っていた。
「どうだった?」
心配そうに伺ってきた。
姉はある程度知っている。
自分に恋人がいること。性別までは言っていないが。
「ちゃんと話せた?」
返事をしない弟の姿に、姉はますます心配そうに瞳を陰らせた。
葵は自分を裏切った。
そう知った。
思えば、自分は葵を何一つ知らない。
生まれた場所。家族構成。誕生日。血液型。幼い頃の話。
なにひとつ。
知っているのは、この街で出会ってから、自分が触れられる場所だけ。
今の住居。今通っている学校。今の好み。
それくらいだ。
それに気づいたとき、絶望で泣きたくなった。
気づかなかった。
それくらい、幸せだった。
それくらい、葵は優しかったから。
心から、愛してくれていたから。
それを、“真実の愛”だと信じてしまった。
「藤四郎!」
姉の強い声に、ハッとした。
「…あー」
「言ってきた?」
どう答えたらいいんだろう。
葵は他の女とも関係を持っていた。
自分に本気ではない。
「…別れてきた」
痛む胸で必死に考えたけれど、胸に落ちた結論はそれだった。
見なかったふりで、葵と再び会うなんてできない。
知らなかったふりで、葵と付き合っていけない。
だって、あいつが今まで言ってくれた「好き」は嘘だった。
それをわかったうえで、あいつの前に立っていられない。
愛しているからこそ、無理だ。
姉は驚いたあと、「そう」とだけ言った。
いろいろ思っただろうに、その一言で済ませてくれる優しい姉に安心した。
父親が、以前住んでいた町に引っ越す、と言い出したのは、何ヶ月も前だった。
兄弟三人とも、生まれ故郷は東京ではなく、関西の端の方の小さな田舎町だ。
確か、電車もあまり本数のない不便なところだった。
十年以上東京で暮らしてきたので、よく覚えていない。
父の仕事の関係もあったが、父自身の意志でもあった。
予め、自分たち子供には選択肢が用意されていた。
今の学校を卒業するまでこちらで暮らすなりしていい。
こちらで就職するならそれで構わない。
母親はできればこちらでまだ仕事がしたいようで、子供が残るなら自分もこちらで一緒に暮らすとも言っていたから、望めば東京でまだ暮らすことはできた。
実際、姉と妹はそうするそうだ。
自分も、さっきまで、葵に事情を説明して、そのうえで東京で暮らす気でいた。
葵に説明するのは、恋人として当たり前だと思っただけで、別れる気はなかった。
だから、自分でも、驚いている。
「姉ちゃん」
呼びかけると、姉は優しく微笑んで「なに?」と尋ねた。
「俺、父さんと一緒に行く」
東京には、葵の思い出がありすぎて。
別れたとしても、きっと楽しくは過ごせないだろう。
翌日、葵から電話があった。
一緒に出かけないか、といういつも通りの。
なにも知らなければ、喜んで応じただろう。
いつも待ち合わせに使う駅前広場。
「浅黄!」
数分も待たないうちに、大柄な姿が人々の合間に見え始めた。
手を大きく振って、全開の笑顔で自分に駆け寄ってくる。
この笑顔が、嘘だなんて。
自分以外のものでもあるだなんて、信じたくない。
でも。
「お待たせ! 待った?」
葵は待ち合わせにはいつも早く来る。
本人いわく、「浅黄がナンパされないように!」らしい。
「…浅黄?」
自分がいつまで経っても返事をしないと、葵は顔を覗き込んできた。
「浅黄? 具合悪い?」
心配そうに尋ねる。
優しく額に触れた。熱がないか確かめるように。
「とりあえず、座れるとこ行こう?」
そっと肩を抱いて、近くの飲食店を示した。
「お前、」
浅黄がやっと一言話すと葵はホッとしたが、その声音の低さに、若干不安げな色を見せる。
「…昨日の、女なに?」
自分の顔を見下ろす葵の表情が、静かにゆっくり青ざめるのを、妙に冷静に見ていた。
「俺は、自分にとって、ただの興味か?」
「違う!」
蒼白になりながらも、葵は間髪入れずに否定した。
「やったら昨日のはなんなん?」
葵の顔を見ていたら、責められなくなる気がして、顔を背けた。
「わざわざ家ん前で、俺が行くかもって考えなかった?
それとも別れたかった?」
「違う! そんなことない!」
浅黄はその言葉を訊いた時、理解した。
「俺が、付き合った日に言ったこと、覚えてる?
あれに嘘はない」
覚えてる。鮮明に思い出せる。
でも、実感してしまった。
待ち合わせの時、いつも早く来る。待たせたりしない。
道を歩くときは、いつも自分が車道側を歩いて、自分を歩道側に庇う。
年上なのに助けられてばかりで悔しいと言ったら、浅黄は存在自体が自分の救いだと恥ずかしげもなく言った。
そのくせ、自分の傍に年上の男を見つけると、自分は年下だから、と劣等感を覗かせて嫉妬した。
人混みで手は繋ぎたくないというと尊重してくれた。でも、あまりの雑踏にはぐれないか不安になると、口にする前に手を繋いでくれた。
風邪を引くと見舞いに来てくれて、夜はメールをくれる。
一日に何回もメールをくれた。一日一回は電話をくれた。
会ったら必ず「愛してる」って目を見て言ってくれた。
抱きしめてくれた。
名前を何度も呼んでくれた。
宝物みたいに、大事にしてくれた。
誕生日には、プレゼントと一緒に、言葉をくれた。
日付の変わる前から一緒にいてくれて、変わった瞬間におめでとうと言ってくれて。
自分がいてくれて、出会えて幸せだと、心から言ってくれた。
やっぱり愛してるって言ってくれた。
いつもいつも優しいそれの、どこに嘘があった。
むしろ、昨日の浮気に「そうするしかなかった事情」を探した方がきっと早い。
そもそも浮気でもないかもしれない。
葵は、自分を本気で愛してくれてる。
それに、嘘はなかった。
嘘じゃないと、実感してしまった。
なのに、自分はもう葵を真っ直ぐに信じられないと、傾いでしまった自分の気持ちを、実感した。
もう、傍にいられない。
せめて、葵を真っ直ぐに思えるまで、ちゃんと葵を見れるまで、離れたい。
好きだから、僅かなひずみを許せなかった。
「ごめん。俺、お前と別れたい」
目を見て告げた。
葵は真っ青なまま、なにを言われたのかわからない顔で固まった。
「だから、さよなら」
涙が溢れそうになって、慌てて拭って、葵が茫然としてる隙に走り出した。
我に返った葵が名前を呼ぶ。
その声に振り返りたかった。
気持ちは曇ることなく、彼が愛しい。
だからこそ。
駅のホームに降りた時には、浅黄はどこにもいなかった。
遙か向こうに、次の駅に向かう電車の後ろ姿が見えて、あれに乗ったんだろうと思った。
「…諦めない」
この程度で忘れられない。
どれだけの時間、自分が浅黄を偲んで、探してきたと思っている。
あの瞬間を目撃されたのは迂闊としか言いようがない。
だが、あれに本当に意味はないのだ。
自分には浅黄だけだ。
それをわかって欲しい。
追いかけようと同じ方面の電車の次の発車時刻を見に動こうとしたら、背中の服を軽く引っ張られた。
ナンパじゃないだろうな。こんなときに、ときつい視線で振り返って、葵は悲鳴を上げるところだった。
背後に、にっこー、と擬音がつきそうな明るい笑顔を浮かべて佇んでいるのは、自分と付き合い長い“親友兼幼馴染み”。
「葵。やっと見つけた」
「…雪原」
葵は顔を引きつらせて彼の名前を呼んだ。
浅見雪原。自分の親友兼幼馴染みであり、親戚と言えなくもない。
薄い茶色の腰までの長い髪に亜麻色の瞳、身長は葵より低いが浅黄よりは高い。
そして、自分が世界で一番逆らえない相手、である。
「うちから俺の許可もなく、勝手にいなくなって何年や。
ここまで探すん骨折れたんやからな」
腰に手を当てて説教を始める雰囲気の雪原を見下ろして、葵は一歩後退った。
本能的にやっぱり怖い。
「しかも理由が今の子に惚れて入れあげたからて。
浮気て誤解されたまんまなら、そのまま誤解させとけや」
「…でも、誤解だ。俺は」
「うるさい」
雪原の指がびし、と自分を指さした。
雪原に無断でいなくなって結構経つから、やっぱり怒っている。
しかしそうまでして見つけた浅黄を諦める気はない。
「雪原。俺は、本気だ。浅黄のこと諦められない。
だから、」
「どのみち不幸にするやろ」
雪原に一刀両断されて、葵は言葉に詰まった。
「俺らが背負っとるもん考えろや。
連れ添えっこない。
最終的に離ればなれになって、悲しませるんやで。
幸せにできる確証が皆無やのに、そこまで固執すんな」
自分たちにとっては当たり前の文句だ。
浅黄以外のことなら、素直に聞けただろう。
「傷付けるだけや。諦めろ」
命令口調で告げる雪原に、いつもなら従った。
でも、浅黄だけは違う。
自分にとって、世界で一番重い。
好きなんだ。
はっきり言葉にしようと思って、そこで葵はあることに気づいた。
「…雪原。ひとり?」
「そうやで。迎えに寄越されたん俺だけやもん」
事も無げに答えた雪原に、葵は戦慄した。
「あの度を超した世間知らずの雪原が、ようここまで来れたな…」
「うっさいな」
「何回迷った? 見知らぬ世界に立ちくらみは起こさなかった?
カルチャーショックば何回受けた?」
「やから俺はそこまでひどくないっ!」
さっきの話題も忘れて、顔を真っ赤にして怒った雪原の頭を葵は撫でる。
「頑張ったね。はじめてのお使いクラスの快挙だ…」
「…それは褒めとんの? おちょくっとんの?」
「褒めてるよ」
葵の顔を見上げると、今回ばかりは兄のような慈愛に満ちた表情を浮かべていたので、雪原はしかたなく享受した。
「あんまりやんなや」
しかし、頭を撫でる手は退けて、嫌がる。
「一応こっちが先輩なんやぞ」
「あー、そうだね」
自分より雪原の方が先輩なのは事実だ。
だから葵は頷く。
「だけど、逆ナンとかにあっただろ?
断れた?」
自分と違うタイプだが、外見に秀でた雪原だ。
逆ナンには当然あっただろう。
「……ぎゃくなん?」
久しぶりに会ったので、葵は自分がうっかりしたと察した。
長く会っていなかったので、雪原が重度の世間知らずだと知ってはいても、理解が遅れた。
「女の子に一緒に遊ばないかって言われること」
「あー、あれ。何回かあった」
「うまく断れた?」
「……………どんどん変な方向に誘導されたりしたから最終的に逃げた」
予想通りの返事に、葵は苦笑した。
この異性すらろくに見たことのない天然記念物に、うまくナンパが断れるとは最初から思ってない。
「ちゅうかしらん男と遊んでなにが楽しいん?」
「……………一応人間には結婚して子孫を残すという使命があってな?」
「や、流石にそれは知ってる」
真顔で尋ねられたから、葵は悩んだ末にそう説明しだした。遮られたが。
「だけど、そういう出会いにな?」
「そんなんさっさと子作りしたらええやん」
「………子作りをどうやるか知らない癖によく言うな」
葵は軽く呆れた。
雪原の世間知らずは本当に重度で、ひどいものだ。
見ていて面白くはあるが、心配だし、なにより中途半端な知識で思いも寄らない想像をするから、毎度会話を成立させるのが大変なのだ。
「…ていうか、なんでお前をひとりで寄越す?
危なっかしい」
「そんなん、俺が一応お前の“上司”やからやんか」
「厳密には違う」
「他に適切な言葉をしらん」
雪原は最後は投げるように雑に言った。
ほとんど人混みに触れない生活をしているから、気づかれしたのだろう。
申し訳ないし、会えて嬉しかった。
ただ、やっぱり浅黄に会いたいのだ。
だから、こんな話をして彼の注意を逸らす。
「雪原」
丁度ホームに滑り込んできた新幹線のドアが開く。
雪原の名前を呼んで、無警戒の肩を掴んで新幹線に乗せた。
「…へ?」
きょとんとした顔の雪原を見遣って、はっきり言う。
「雪原。“終着”まで降りたら駄目だぞ?
迷子になるから。
“終着”。覚えたな。じゃ」
「え」
自分の言うことに戸惑っている間に、ろくに停車しない新幹線の発車時刻が来て、扉が閉まった。
やっと理解した雪原がなにか叫んでいるが、聴かないふり。
ポケットからハンカチを取りだして、ひらひら振った。
「サラバ」
笑って見送る。最後までなんか言ってたが、もう聞こえない。
悪いとは思うが、あの雪原がまた自分を見つけられるとは思わない。こんな都会で。
電車にろくに乗ったこともない奴だから、葵の言った通り終着で降りるしかないだろう。
もっと話したかった。
でも、自分は彼に逆らえないから、最後には従ってしまうから、しかたないのだ。
「ごめんな」
駅のホームにひとり突っ立って謝った。
本当は、ちゃんと送ってやりたかったけど、ごめん。
諦められないから、もう少し。
時間をください。
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