【BL】LYCANTHROPE

トヨヤミ

序章 ぼくのうそつきなおおかみへ

序章 ぼくのうそつきなおおかみへ 前編

 人にあらず、獣にあらず、祖は大いなる地の守護者。

 花に雨、炎に風、陽と闇。

 六の理で地を守護し、加護されるは太古の護人。

 祖―――――『オオカミ』に触れるべからず。




「お前、名前は?」

 小雨の降る中で、尋ねられた。

 太陽の明るい、天気雨の降る昼間。

 深い森の中、滝から落ちる水飛沫が白く見える。

 岩の一つに腰掛けて、彼はそんな風に自分の名前を訊いた。

 名前といっても、親すら知らない。

 だけど、自分を呼んだ人がいた。呼んでくれた人が、名付けた。

「あおい」

 唇に乗せると、彼は微笑んだ。

「ふうん」

 彼は自分を頭の天辺からつま先まで見て、岩から降りる。

「ほな葵。一つ訊かせてな」

 自分の前に立って、優しい声で彼は言う。

「その怪我、ほっとくと死ぬけど、生きたい?」

 自らの出血に汚れた自分の身体を見て、そう尋ねた。




 学校を出て、最寄り駅までの道を急いでいる最中だった。

 信号が赤になって、足を止める。

 この交差点を抜けて、数分歩けば駅だ。

 信号が変わる。

 足を踏み出した瞬間、腕を背後から掴まれて、真横に引っ張られた。

 バランスを崩して倒れ込む身体を、大きな腕が抱き留めた。

 なにするんだ、と怒鳴る暇なく、衝撃が傍でした。

 曲がろうとしていた車が操作を誤ったのだろうか。

 歩道に突っ込んできて、傍のビルにぶつかった。

 散るガラスの破片。あちこちで悲鳴が聞こえる。

 抱き寄せられたまま地面に座り込んで、浅黄藤四郎はぞっとした。

 腕を引っ張られていなかったら、車に潰されていた。

 車の進路に自分は立っていた。

 背後の人間はそれを察して助けてくれたのだ。

「大丈夫?」

 背後の男が、不安そうに浅黄の顔を覗き込んだ。

 白い肌に、精悍な顔立ちの野性味のある男前だった。

 一瞬見とれて、ハッとする。

「あ、うん。…ありがとう」

 浅黄が慌ててお礼を述べると、彼は微笑んだ。

 安心したように。

「よかった」

 我が事のように言って、彼は「立てる?」と尋ねた。

 浅黄は足に力を入れてみる。どうにか立てる。

 だが、立ち上がったあと、平衡を保てなかった。

 足がみっともなく震えてしまう。

 彼は優しく自分の髪の毛を撫でて、そっと抱きしめてくれた。

「もう大丈夫だから」

 耳元で優しい、子守歌みたいな声がする。

「もう、大丈夫」

 自分を抱く暖かい腕。安全な場所に閉じこめられて守られているような安心感。

 耳元で響く優しい声。

 涙が出そうなほど安らいだ。

 頷こうとした声は、涙に震えた。

 怖かった。

 代わりにそう呟いたら、彼はもう一度大丈夫だと囁いて、背中を何度も撫でてくれた。




 あの事故から数日経った。

 駅前に佇んで、時計をちらちら気にする。

「浅黄さん!」

 遠くから、馴染まない声がして、浅黄はハッとして振り返った。

 駅の西口からこちらに駆け寄ってくる、あの大きな青年。

 こちらに向けられた笑顔に、なぜか胸が高鳴った。

「こんにちは」

 彼が近寄るまで待って、挨拶を口にした。

 青年は微笑んで、「こんにちは」と返す。

「じゃあ、どこか行きたいとこある?」

「特にないよ」

「ほんと?」

 遠慮しているんじゃないのか?と伺うと、彼は苦笑した。

「俺、この街に来たばっかだから、どこになにがあるかとかさっぱり」

「ほな、案内かねていろいろ行こう。おごるから」

「なんか悪いな」

「お礼なんだから」

 大きな手を掴んで、行くで、と促すと、彼は驚いたあととびきりの笑顔を浮かべた。

「うん」

 大きな身体に似合わず、自分より子供みたいな表情をする。

 胸がまた音を立てて、それが少し怖くて、気づかないふりをした。



 彼は宮城葵、と名乗った。

 助けてくれたお礼がしたいから、会えないか、と自分が頼んだ。



「え、じゃあ中学生なの!?」

 昼食をとるために入ったレストランで、聴いた彼の年齢にびっくりした。

 葵は馴れているのか、ただ笑う。

 なんで「浅黄さん」と「さん」付けなのかと聴いたら、中学生で自分の三つ年下だという。

 年上だと思っていた。

「見えない」

「うん、よく言われる」

 葵は自分の癖の強い髪を撫でて、大きな身体を縮める。

 かわいいと思う。

「だけど、俺が年上ってよくわかったな?」

「ああ、浅黄さん、俺が通ってる中学の隣の高校に通ってる?

 時々、姿見かけていたよ」

 葵は人懐っこい笑顔でそう言った。

 葵の言った理由を全く否定できない。

「まあ、俺って美形だから?」

 茶化して言ったら、葵は大真面目な顔で頷いた。

「うん。すごく綺麗」

 相手の「自分で言った!」とかそんな反応を待っていた浅黄はびっくりした。

 葵は心から思ったという顔で、微笑んで、浅黄を見つめた。

「とても、綺麗」

 愛しさを囁くように、告げる。

 頬がなぜか赤くなってしまい、浅黄は焦る。

「やめて」

「どうして? ほんとのこと」

 葵は屈託なく笑って言いきる。

 恥ずかしい。

 今まで外見を褒められたことなんてたくさんあった。

 嬉しいと思うよりめんどくさかった。

 大抵それは、媚びや期待や、嫌味を含んでいたから。

 でも、葵の言葉にはなにもなかった。

 心からの賛美。それだけ。

 だから、恥ずかしくて嬉しくて。

「なあ、浅黄さん」

 葵は身を乗り出して、浅黄の白い手を掴んだ。

「また、会って欲しい。

 駄目?」

 まるでナンパみたいな台詞。

 でも、嫌じゃなかった。

 葵といると、心が安らぐ。

 まるで日溜まりで眠るように、心から素直になれた。

 だから、頷いた。

 葵は破顔して、「うれしい」と言った。

 葵に握られた手が、熱かった。




 葵と学校帰りに会うようになって、半月が経った。

 葵は一人暮らしだそうで、度々家に遊びに行くこともあった。

 というか、葵に強引に誘われた。

 その強引さも、子供らしい無邪気さがあって、嫌ではなかった。

「浅黄さんは、当たり障りないね?」

 葵の部屋でくつろいでいる時、葵が不意に言った。

「え?」

「なんか、誰とでも、本心から関わってない感じがする」

 本棚を見つめながら葵が言った台詞に、見透かされた気がした。

「…責めてないよ?」

 言葉を失った自分を振り返って、葵は眉尻を下げた。

「ただ、俺といるときは、素が出てる気がして、うれしい」

 少し申し訳なさそうにしながら、嬉しそうに口の端をあげる。

 葵の表情に惹かれて、頷いた。

 いつだって、心から誰かを信頼できない。

 希薄な関係を築いていた。

 見透かされて恥ずかしい以上に、葵の前だと本来の自分でいられることが。

「自惚れてるね」

「そんなことない」

 否定すると、葵は自分を身体ごと振り返って、近寄ってきた。

 寝台に腰掛けた自分の前に立つ。

「危機感がない」

 葵の言葉に、首を傾げる。

「一人暮らしの男の部屋で、そんなこと言って」

 葵の低い声に、胸が音を鳴らす。

 嫌な音じゃない。

 高く、歌う。

 もっと、聴かせて。

「馬鹿じゃない?

 俺があんたに他意あること、すぐわかるだろ?

 そんな外見してたら聡いだろ」

 葵の、どこか怒った声に、胸が早く高鳴る。

 もっと、もっと聴きたい。

 そう望んだ。

「気づいてよ。

 あんたのこと、好きなんだよ」

「…うん」

 唇から、自然に零れた。

 葵の前なら、素直になれた。

 本当の自分でいられた。

「葵こそ、気付いて」

 驚いて、固まる葵の顔を見上げて、未知の世界を目にしたようにドキドキしながら言った。

「俺がこんな素直に、笑ったり話したり、しとるお前が、特別なんだ。

 お前の傍にいると安心して、めっちゃ心地いい。

 …俺が、傍にいたいって望んでるんだ。気づいて」

 さっきまで、浅黄自身気づいていなかった。

 でも、葵の傍はずっと心地よくて、暖かくて。

 ずっと傍にいたくて。

 今、堤防が決壊したように気づいた気持ちに、溢れる愛しさに、目を背けずに言葉にする。

 葵はしばらく意味がわからないように、子供のようなあどけない顔で浅黄を見つめて、それから泣きそうに微笑んだ。

 その黒い瞳から涙が溢れる。

 手を伸ばして、浅黄を抱きしめる腕は強くて、少し苦しかったけれど。

 嬉しくて、その背中に手を回した。

「浅黄さん…」

「名前、呼んで」

 見つめ合って、言葉を交わす。

 涙に濡れた瞳に、自分を映す葵を愛しく想った。

「…浅黄」

 囁くような葵の声は、まるで神様に祈るみたいで、甘く透き通っていた。

 近づいた顔。目を閉じて、口付けを待った。

「浅黄」

 泣きながら、葵が呼ぶ。

「…愛してる」

 小さな、震えた声で。

「信じられない…」

「なにが」

「こんな、夢みたいな日が、来ること…夢みたい」

「…本物だ」

 強く言ってやると、葵は大きく身体を震わせて、頷いた。

「…俺は、幸せだ」

 浅黄の身体を抱きしめて、肩口に顔を埋めて、葵は言う。

「俺は、幸せだ…」

 肩に埋まる唇が、話すためではなく震えている。

「俺は、今、誰より、…幸せだ」

 抱きしめる腕が、震えていた。

「浅黄。なにがあっても、何年経っても」

 顔を上げた葵の頬を伝う涙を、手を伸ばして拭う。

「忘れんでな」

 自分の頬を撫でる浅黄の手を、愛おしそうに葵は掴む。

「今の俺が、生まれてきたこと感謝するくらい、幸せになった。

 浅黄と出会ったおかげ。

 忘れんで」

 浅黄の瞳から、涙が一筋零れたのを、葵は一瞬驚いてみて、それからとても嬉しそうに笑った。

「うん」

 頷くことしかできなかった。

 こんな強烈で激しい、強い愛を初めて知った。

 そんな風に愛されたことを、心から幸せに思った。

 葵と出会ったことを、心から感謝した。

 泣きたいくらいの、幸せを初めて知った。




 そうして、葵と一緒に過ごした一年の歳月。

 泣いたこともあった。怒ったこともあった。

 でも、嬉しくて、楽しくて、愛しくて。

 大切だった。


 あの日、雨の降った夜。

 葵の家の前で、傘に隠れて抱き合っている葵と、見知らぬ女性。

 彼女の唇に口付けた葵の姿を見るまで。


 死んでもいいくらい、幸せだった。


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