序章 ぼくのうそつきなおおかみへ 後編

 飛沫があがる。地上に顔を出し、息を吸うと太陽が見えた。

「ぶっちぎり! 速いな浅黄!」

「まあ、そう?」

 プールから出ると、駆け寄ってきた部活仲間がタオルをはいと手渡した。

「流石やん」

「ありがとう」

「足やったら負けんのに」

「速いもんな、お前」

「大会出られるんやったら、いい成績行くのに」

「まあ、それはしゃあない」

 ここは、都会とはほど遠い過疎化の進んだ山間の町。

 自分の生まれ故郷だ。十年前に親の仕事で都会に引っ越し、今年になって、親の都合でまたこの町に戻ってきた。

 見渡す限り、田圃だらけ。飲食店は駅まで行かないとない。バスは夜の八時にはもうない。コンビニは一軒だけ。の、都会に馴れた身には少々きつい環境だが、やっと馴れてきた。今は七月。夏休みだ。

「そういや、浅黄。今日帰りうち寄りや。おかんが連れてこいて」

「うん。行く」

 目の前の男は、倉橋祐二。この町にずっといる俺の、十年昔の幼馴染み。

 再会したら、頭を金髪に染めていて多少驚いた。

「倉橋のおかん、料理うまいもんな」

 東京にいた頃は標準語を話していたが、元々素はこちらだ。

 こっちに戻って来たらすっかり口調も戻ってしまった。

 早く着替えようと更衣室に向かう足を、その倉橋に遮られる。

 やけに、真剣な顔だ。

「それ、やめぇや」

「それ?」

「『倉橋』」

 浅黄は首を傾げて、変かと呟く。名前だし。

「倉橋は倉橋」

「幼馴染みやん!」

「せやかて、それ、十年前の話やん?

 十年会ってなかったら他人やろ」

 いきなりヒートアップした彼に淡々と返す。暑いのに、元気だ。

「…俺は、」

 途端、口ごもるそいつ。春からずっと『倉橋』って呼んでいたのに。

 まあ、そういえばその都度「やめろ」と言っていたか。確か。

「…、わかった。祐二」

 いい加減、ここらで折れておこう。と口にすると、途端彼は笑顔になった。

「おう!」

「ちなみに、なんで俺は『浅黄』?」

「あ、いや、」

「不公平やん? 幼馴染みくん」

 わざとらしく傷ついた口調で言うと、あからさまに怯む倉橋こと、祐二。

「い、や、」

「…あーあー、ひどいなぁ。俺はあかんのに自分はええんか。

 やっぱり倉橋にしよ」

「あ、え」

 祐二のあからさまに迷った様子に笑みが浮かんだ。

 意地悪に笑って、彼の裸の上半身に手を置く。

「なーに? 倉橋」

「……『祐二』!」

「倉橋が名前呼んだら」

「…………。」

 辛抱強く待つと、やがて真っ赤になりつつ、ぽつりと口にする。

「藤四郎……」

「よし」

 ようやく降参した祐二に、浅黄は満足そうに笑うと更衣室の扉を開けた。



 高校三年の夏。

 三年になって転校なんて普通冗談じゃない。

 でも、俺は丁度良かった。

 離れたかった。

 気持ちを整理する時間が欲しかった。




「ほな、またな」

 倉橋宅の玄関、靴を履いて振り返ると祐二が笑って頷こうとする。

「おいこら、謙也」

 だが後ろからやってきた家人の横やりに、祐二は不快そうに眉を寄せた。

「なんや、由馬」

 姿を見せたのは祐二と同じ家で暮らす、祐二の従兄弟。

 名を倉橋由馬と言う。祐二と違い地毛の黒髪で、眼鏡をかけている。

「お前、こんな暗いのに一人で帰らす気か? どんだけ気ぃきかんの。

 藤四郎、ごめんなー。気の利かん従兄弟で」

「別にええよ? そこがいいとこや」

「ああ、そういう解釈な」

 くすくす笑った祐二の従兄弟を押しのけ、祐二は急いで靴を履いた。浅黄の手を引っ張って玄関の戸を開ける。

「送り狼になんなよ」

「うるさい」

 由馬と祐二のやりとりを最後に、戸は閉まった。


「ごめん、由馬の前だと」

 手を乱暴に引っ張ったことを謝っているのか、祐二は夜闇に出てからは殊勝だった。

「別に。女やないし」

「せやけど…」

 なにかを言いかけ、祐二は握っている浅黄の手に力を少し込めた。

「……なー、藤四郎」

「ん」

「……向こうで、カノジョとかおった?」


『愛しとうよ』


 瞬間、脳裏を恐ろしい早さで過ぎった声に、浅黄は零れそうになる言葉を堪える。

 祐二がいるのに、なにを言う気だ。

「…カノジョは、おらんわ」

「…そか」

 祐二の、安堵したような声。何故、とか思ったけど、今は余裕がなかった。

 繋いだ手が熱い。

 吐き出したくてしかたない言葉。

 ずっと、胸の中で、苦しいほど。




「ここでええよ」

「そか?」

 祐二は「まだ距離がある」みたいな言い方だが、浅黄の家はもう目の前だ。百メートルもない。

 たったそれだけの距離で、なにもないだろう。

「ほな、また明日な」

「うん」

 早く家に、部屋に行きたい。

 一回だけでいい。叫びたい。

「…あれ、あそこの人、誰や?」

「え」

 祐二に指さされた方向、闇でよく見えないが、玄関の傍に誰か立っている。

 目を凝らして、そのかつて見慣れた長身を認識して、途端、頭が軋む。ひどい音で。

 彼がこちらに気づいた。

「浅黄」

 まだ、なにも整理できてない。

 なのに、彼の姿を見た途端、胸に溢れてくる。

 喉の奥叫びたかった言葉。


 会いたい。


「葵…」

 自分に駆け寄ってきて、葵は微笑む。

「浅黄」

 名前を呼んで、なにも変わらずに、自分を見て、微笑んで。

 抱きしめた。

 涙が出そうだ。

 割り切ったつもりでいた。

 なにかが歪んでしまったはずだった。

 なのに、心はなにも変わらず、こんなにもお前を渇望していた。

「葵…」

 こんなにも、会いたかった。

 ダメだ。忘れられない。

 ここまで来てくれたと、愛されていると、こんなに嬉しいのに。

 もう、離れられない。

「……なんでおんねん」

「浅黄を追ってきた」

「…別れ」

「俺は、納得してない」

 耳元で響く、優しい声。堪えきれず涙が流れる。

「…ごめん。急に来て、混乱させた」

 身体をそっと離して、葵は優しく言う。

「だけど、ここにいる。

 浅黄の傍に」

 葵の顔を見上げた。

 彼は微笑んでいる。月明かりの中。

 自分の知っている、愛おしさを滲ませた笑みで。

 名前を呼ぶことしかできない。

 まだ素直になれない。

 でも、会いたかった。

 会えて嬉しい。

 傍にいて欲しかった。

 こんなに。

 ただ泣くことしかできない自分の髪を、葵は優しく撫でてくれた。




「あのー、すみません」

 翌日、町の駅に到着した電車から出てきた乗客が、事務室にいた駅員に声をかけた。

 この町の改札は未だに手動だ。

「この町の地図ってありませんか?」

 見遣ると、随分と男前な青年だった。

 薄い茶色の腰までの長い髪に亜麻色の瞳。外国の血でも入っているのだろうか。

 背が高い。

「ああ、ここにありますよ」

 はい、と手を伸ばして地図を取り、青年に手渡す。

 青年はにっこり微笑んだ。

「有り難うございます」

 礼儀正しくお礼を述べて、青年は駅の外に向かった。

 駅員が描いた地図を眺めて、ふと足を止める。

「……あー、流石に描いてへんわな」

 と、呟く。

「なんやったっけ。あいつの好きな奴の名前。

 えー…」

 顎に手を当てて考え込み、思いだしたのか手を叩く。

「『浅黄藤四郎』や」

 そうやそうや、と繰り返し、地図に家まで描いてあったらよかったなー、とぼやく。

「…ま、大丈夫か」

 まだ朝の早い時刻。

 駅前に人はない。

 彼は頷いて、歩きだした。

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