第13話 カレーとプリンと姉










 夕焼けが街を包み、影が長く伸びていた。


 通学路を歩きながら、俺はポケットに手を突っ込む。

 アスファルトに差す光の色が、どこか懐かしい。

 いつもより少し早足になるのは、冷たい風のせいだろうか。

 胸の奥で、今日の放課後の光景が何度も浮かんでは消える。


 笑っていたはずなのに、心の奥は妙に静かだった。

 まるで何かを置き忘れてきたような感覚。

 そんなモヤモヤを抱えたまま、ポケットの中でスマホが震えた。


「……姉さん?」


 画面には「美月」の文字。通話ボタンを押すと、明るい声が弾んだ。


「ユウ君? 今日カレーだから、寄り道せず帰ってきてね!」


「わかったよ。今帰ってる途中」


「あとね、サラダ切っといて。ママ、残業で遅いって!」


「俺が帰ってくる前提で話してるな」


「うん。当たり前でしょ? ユウ君がいないとご飯つまんないもん」


 電話の向こうで、姉が笑う。

 その声を聞いただけで、胸の奥に溜まっていた冷たいものが少し溶けていく。

 いつも通りの声。いつも通りの調子。

 けれど、そんな日常の響きが、今はやけにあたたかかった。


 玄関の扉を開けると、ほのかにカレーの匂いが漂っていた。

 靴を脱ぐと、リビングのソファに美月姉が寝転がってスマホをいじっていた。

 テーブルには、なぜかプリンの空きカップが三つ。


「おかえり、ユウ君。ちゃんと帰ってきたね」


「その“ちゃんと”って何だよ」


「心配してたの。最近元気ないし」


「……別に、普通だよ」


「ふーん。じゃあその顔、鏡で見てみ?」


「見るほど悪い顔してないって」


「してるしてる。ちょっと疲れた子犬みたいな顔」


「子犬て……」


「可愛いけどね?」


 軽く笑いながら、姉はゆっくり体を起こす。

 俺の顔を覗き込むようにして、少しだけ眉を寄せた。

 その距離が、やけに近い。

 ふわりとシャンプーの香りがして、思わず視線を逸らした。


「もう、ほんとに無理してない?」


「大丈夫だって」


「……ならいいけど。無理しちゃうとこ、昔から変わらないね」


 優しく笑いながらも、その目の奥は少しだけ真剣だった。

 俺は何も言えず、代わりに冷蔵庫を開けた。

 野菜を取り出し、包丁を握る。

 トントンという音が、沈黙の代わりに響く。


 レタスの緑、トマトの赤、ガラスのボウルに光が透けて落ちる。

 そんな些細な色が、不思議と心を落ち着かせた。


「ねぇ、ユウ君」


 背中越しに、少し柔らかい声が届く。


「誰かに、何か言われた?」


「……別に。なんで」


「なんとなく、ね。そういう空気、出てた」


 姉は俺の背中を見つめながら、ため息をひとつ。


「ユウ君ってさ、人のことは気にするのに、自分のことはすぐ後回しにするよね」


「……そう見えるか?」


「見える。ずっと見てきたから、わかる」


 包丁を動かす手が止まる。

 ふと、言葉が出てこなかった。


 なんでだろう。

 姉さんの声が妙に胸に刺さる。


「……ありがとな、姉さん」


「うん。お礼言うなら、ちゃんとご飯おかわりしてね」


 少し冗談めかして笑うその声が、妙に優しかった。


 食器を並べ終え、鍋の蓋を開けると、カレーの香りが広がる。

 スパイスの甘い匂いと一緒に、少しだけ懐かしさが胸を満たした。


「もうすぐできるよ。テーブルお願い」


「はいはい」


 皿を並べながら、ふと姉の横顔を見る。

 湯気の向こうで黒髪を揺らしながら笑う顔が、昔より少し大人びて見えた。

 けれど、俺の中ではずっと“姉さん”のままだ。

 明るくて、面倒見が良くて、時々意地悪で。

 だけど、誰よりも俺を気にかけてくれる。


「……なに? そんな顔で見て」


「いや、なんか。変わんないなって思って」


「変わらないって、褒めてる?」


「まぁ、一応」


「ふふ、ありがと。でもね――」


 姉は少しだけ微笑んで、カレーをすくいながら言った。


「私はね、ユウ君が元気に笑ってくれるなら、それだけで十分なんだよ」


 その言葉が、妙に胸に響いた。

 昔、熱を出して寝込んでいたときも、テストで落ち込んでいたときも、

 姉はいつも、同じように言ってくれた気がする。


 その優しさが、時々息苦しくなるくらい、まっすぐで。


「……あんまそういうこと言うなよ。変に照れる」


「えー、照れてるの可愛い」


「可愛くねぇよ」


「そういうとこも可愛い」


「やめろって」


 くだらない言い合いに、思わず笑ってしまう。

 気づけば、さっきまで胸の中で渦巻いていたものが少し薄れていた。


 テーブルに座り、スプーンを口に運ぶ。

 熱いカレーの香りが鼻を抜け、辛さのあとにほんのりとした甘さが残る。

 不思議と心まで満たされていく気がした。


「……うまい」


「でしょ? 今日、ちょっと隠し味入れたんだ」


「何入れたの?」


「内緒。愛情とか…?」


「そういうの言うの平気でやめろ」


「いいじゃん。お姉ちゃんサービス」


「はあ……」


 呆れたふりをしても、口元が緩む。

 この人には敵わない。

 昔からずっと、俺の気持ちを見透かしたように笑う人だ。


 紅茶を淹れてくれた姉が、湯気越しに俺を見た。

 その目が少しだけ、真剣だった。


「ねぇ、ユウ君」


「ん?」


「どんな日でもさ、ちゃんと帰る場所があるんだよ。ここに」


「……わかってる」


「わかってても、時々忘れるでしょ。だから、何回でも言ってあげる」


 優しい声だった。

 その言葉のひとつひとつが、胸の奥に静かに染み込んでいく。

 俺はカップを手に取り、少し照れながら言った。


「ありがと、姉さん」


「どういたしまして。ユウ君の笑顔、独り占めできるのは私だけだからね」


「……そういうこと言うなって」


「えへへ、冗談だよ?」


 けれど、その笑顔にはほんの少しだけ寂しさが混じっていた。

 紅茶の湯気の向こうで、姉の瞳が一瞬だけ遠くを見ていた気がした。


 窓の外では、夜風が街路樹を揺らしている。

 その音を聞きながら、俺は静かに息を吐いた。













 妹属性より姉属性の方が好きです。(異論は認めん)

 


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