第14話 姉との逢瀬
翌朝。
窓から差し込む朝の光が、カーテンの隙間を薄く照らしていた。
風がカーテンを揺らすたび、部屋の空気が少しずつ温まっていく。
静かな休日の朝――何もない時間のはずなのに、どこか落ち着かない。
ベッドの上で寝返りを打ち、枕に顔を埋める。
まだ八時にもなっていない。
今日は久しぶりに何の予定もない日で、二度寝を満喫しようと目を閉じた、その瞬間。
「おーい、ユウ君、起きてるー?」
ノックもなくドアが開く音。
眩しい光と一緒に、美月姉ちゃんがずかずかと部屋に入ってきた。
髪を軽くまとめた部屋着姿。カーディガンの袖を肘までまくり上げていて、やけに活動的だ。
「……なに朝からテンション高いんだよ」
「朝からじゃないよ、もう朝“だから”テンション高いの!」
姉は笑いながらベッドの端に腰を下ろす。
沈む布団と一緒に距離がぐっと縮まる。
まだ眠気の残る頭が、少しだけ覚めた。
「ねぇユウ君、今日デートしよ」
「は?」
「デート。お姉ちゃんと!」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
俺が反応するより早く、姉はベッドの上に乗り出してきて、顔を近づけてくる。
距離が近すぎて、息がかかるほどだった。
「ほら、せっかくの休日なんだから、どっか行こうよ。ね?」
「……朝から近いって」
「起きない弟が悪いのー」
頬をつんと突かれ、思わずため息が漏れる。
もう何も言っても無駄だ、と経験で悟った。
「行き先は?」
「内緒。でも、おいしいパンケーキ食べられるところ!」
「……甘いものばっかり」
「朝は糖分補給が大事なんです!」
まるで子どもの遠足の前みたいな笑顔だ。
俺は観念して、布団をめくる。
その瞬間、姉が嬉しそうに手を叩いた。
「よし、準備開始! 私コーヒー淹れとくね!」
そう言って、ぱたぱたと部屋を出ていく。
ドアが閉まると、静寂が戻った。
でもさっきまでの光景のせいで、心臓の鼓動がまだ少し早い。
――ほんと、朝からペースを乱される。
ベッドから起き上がり、洗面所に向かう。
冷たい水で顔を洗うと、意識がすっと澄んでいった。
鏡の中の自分が、少しずつ日常の色を取り戻していく。
部屋に戻って服を選ぶ。
シャツを手に取り、袖を通すと、外の光が布地に淡く透けた。
窓の外では、すずめの鳴き声と、どこかの家の朝食の匂いが風に混じって漂ってくる。
休日の朝――世界全体が、ゆっくりと動いているように感じた。
階段を下りると、リビングにはコーヒーの香りが満ちていた。
キッチンに立つ姉の背中が、朝の光に照らされている。
髪をひとつに束ね、エプロン姿でコップを並べる姿が妙に板についていた。
「お、起きたね。おはよ、ユウ君」
「おはよ。……なんか、もう準備万端だな」
「当然。お姉ちゃんは行動派ですから!」
姉はカップを二つ持ってテーブルに置く。
湯気の立つコーヒーと、トーストの香ばしい匂いが重なる。
「トースト焼いたから、食べて。バター多めにしといたよ」
「俺の好み覚えてるのか」
「弟の味覚リサーチ済みです!」
得意げに笑う姉に、少し苦笑する。
でもその気遣いが、胸の奥でじんわり温かくなる。
コーヒーをひと口すすると、ほろ苦さのあとに柔らかな甘みが広がった。
こんなにゆっくり朝を味わうのは、久しぶりかもしれない。
カーテン越しの光が、テーブルを優しく照らしていた。
「ユウ君、最近ちょっと元気ない気がしてさ」
姉がマグを両手で包みながら、少しだけ柔らかい声で言った。
「だから、今日は楽しくしようって決めたの」
「……姉さん、ほんとよく見てんな」
「だってユウ君、わかりやすいもん。すぐ顔に出る」
「やめてくれ」
「ふふっ。でも、そういうとこ、可愛いと思うけどね」
「……」
言葉が喉の奥で止まる。
冗談っぽいのに、どこか本気みたいな声音。
それ以上返せなくて、パンを噛む音だけが静かに響いた。
「ねぇ、準備できたら出よう。十時に出発ね」
「はいはい」
「ほら、シャツのボタンちゃんと留めてね。今日くらいはちゃんとした格好で!」
姉はそう言って、椅子から立ち上がると俺のそばに歩み寄る。
近くで見上げるその瞳は、どこか柔らかくて、でも強い。
襟元を直しながら、少しだけ笑う。
「うん、似合ってる。……行こっか、ユウ君」
その声に背中を押されて、俺はゆっくり立ち上がった。
玄関のドアを開けると、風が頬を撫でた。
空は高く、澄み切っている。
「今日は、いい日になりそうだね」
姉がそう言って笑う。
その笑顔が朝日に溶けて、心の奥のどこかが、静かに温かくなった。
――休日の始まり。
その隣には、やっぱりこの人がいる。
……そう思った矢先。
玄関を出ようとしたとき、姉がふと足を止めた。
ドアノブに添えた指が、ほんの一瞬だけ固まる。
その横顔は、笑っているはずなのに、どこか遠くを見ているようだった。
「……ねぇ、ユウ君」
「ん?」
「お姉ちゃんね、ユウ君がいなくなったら、きっと――困るな」
「……なにそれ、縁起でもないこと言うなよ」
「ううん、違うの。ただ……そう思っただけ」
すぐにまた笑顔が戻る。
けれど、その一瞬の陰りが、胸の奥に小さな棘のように残った。
「行こっか」
ドアが開き、光が差し込む。
姉の横顔はもう明るく、さっきの言葉も嘘みたいに穏やかだった。
けれど俺の中では、何かが静かに引っかかったままだった。
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