第三歩
葉桜も見頃だ。
暦に則れば、そろそろ田植えを始めてもいいのだが、そのそぶりを見せる村の者はいない。むしろ、得体の知れない虫を枝の先でつつくような不安と困惑に近いものを感じる。
ある一人の農民が泥のついた手のまんま、ガサガサの紙を広げて唸っている。
少し話を聞いてみようか。
「あの、もう少しで田植えの時期なんじゃ…」
「あぁこれはこれは、忠敬先生。そうなんですよ。暦によると、田植えを始めてもいい時期なんですがね」
またビュウウウと夏に吹いてほしいような風が肌を撫でて熱を奪っていく。
「そう!ほら先生も見ましたでしょう?まだまだ寒いんですよ。とてもじゃないけど、このまま稲を植えてしまったら、すぐ枯れてしまうんでね」
「ほう。そういうことでしたか。わざわざすみませんね。」
そうか、暦と実際の季節がズレてしまっているのか。
ではなぜ、暦と実際の季節がズレてしまうんだろうか。
幾年か前、植えたばかりの米がことごとく枯れてしまい、村や伊能家の備蓄米を配ったのを思い出した。
「先生、どうにかなりませんかねぇ」
農民は困った顔のままそう言った。
そうだ。彼らも生活がかかっているのだ。
たしかに、一年の初めに備蓄米を放出してしまえば、災害が起こったときの飢餓が心配だ。
どうにかしなければならない。
——木々がなくなり視界が晴れ、代わりに星達が出迎えてくれた。
星。
——太古、人々は星を見て方角や季節の動きを感じた。
月。
——月の満ち欠けを一ヶ月として、細かい日にちを決めた。
太陰暦。
だが、今はどうだ。
深く関わってきた自然から目を背け、薄っぺらい半紙の上でしか暦を感じていないからではないのか。
そうか。これは宿命だったのか。
「大丈夫です」
忠敬はストンと人参を断ち切るようにそう言い放った。
その言葉は、村にある大浴場の風呂に勢いよく飛び込んで跳ねた水のように、自信が溢れていた。
「私は今、天文を学んでおります。その天文でそのズレを暦の解決できるかもしれません。」
忠敬がそういうと農民は拳が入りそうなほど口を大きく開けていた。
「ほ、本当ですか!それはそれはありがたい…‼︎」
農民もまた歓喜が溢れ出ているようだった。
「それでは」
「先生ぇ、お願いします!」
風が吹き、ちょんまげの先がファサファサと揺れる。
畦道にごろごろ転がる石を避けながら太陽がある方向へと向かう。
「そのためには、まず江戸へ行かねば。」
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