31

 お風呂場に、二人きり。

 浴槽に張られた透明なお湯に、わたしと蜂蜜は並んで浸かっている。


 蜂蜜とお風呂に一緒に入るなんて初めてだから、緊張してしまう。わたしは遠くの壁と目を合わせて、蜂蜜から意識を遠ざけようとしていた。


「……いのりちゃん。どうしてさっきからずっと、静かなの?」

「……状況が状況だからですよ」


 返答すると、「変なのー」という言葉とおかしそうな笑い声が聞こえてくる。わたしは小さく溜め息をついて、体育座りの姿勢になって自分の脚を掻き抱いた。


「確かに、普段はいっぱい人いるもんね。女の子と二人きりでお風呂なんて初めてかも」

「そうですね、わたしも初め……いや、初めてではなかったかもしれません」

「え!? どういうこと!?」

「いや、単純に前の学校の修学旅行のとき、特に仲のいい子もいなかったので混んでいる時間をずらしてお風呂に行ったら、よく知らない別のクラスの女の子と二人きりになっただけです」

「あ、そういうことね。全然色気ない話じゃん」

「わたしの話に何を期待しているんですか? ……交際経験も、あなたとしかありませんよ」

「そうだったね、可愛いね?」


 蜂蜜はそんな言葉を零してから、呟くように「……いいな」と言った。

 その響きがどこか寂しそうで、わたしは思わず彼女の方を見てしまう。


「あ。ようやくこっち見てくれたね、いのりちゃん」

「……『いいな』が、気になったので」


 蜂蜜は大きな瞳で瞬きを繰り返してから、「そういうことか」と微笑う。


「……修学旅行、行ったことないんだよね。私」

「つまり、この学校には修学旅行が存在しないんですか……?」

「ううん。あるよ。中学二年生のときも、高校二年生のときもあった。……単純に、私が行かせてもらえなかっただけ。親が許可してくれなくて」


 蜂蜜は微笑んでいたけれど、悲しそうだった。

 だから、わたしも悲しくなってしまう。表情に出てしまったのか、蜂蜜ははっとした顔をして、そっと首を横に振った。


「大丈夫だよ。行ったところで、つまんなかったと思うし。いのりちゃんがいない修学旅行なんて、価値ないよ」

「……そうですかね」

「そうだよ! 私は、いのりちゃんがいればいいの。他にはなーんにも、いらない」


 蜂蜜はそう言って、あははっと笑う。

 二人きりのお風呂場に、きれいな笑い声が響き渡る。


「……わたしも、蜂蜜がいればいいです」

「本当?」

「はい。他には何も、必要ありません」


 蜂蜜の目を真っ直ぐに見て、そう伝える。彼女は目を細めて、心から嬉しそうに口角を上げた。


 気付けばわたしは蜂蜜と抱きしめ合っている。胸を押し付けられて、どきりと心臓が跳ねた。キスをして、初めて舌を絡めた。蜂蜜の舌はまるで生き物のように、わたしの口内を蹂躙していく。透明なお湯に溶けていく静かな警告の香り。蜂蜜に胸を触られたから、やり返すように彼女の胸に手を伸ばした。水着の上から触るよりもずっと、ずっと柔らかかった。わたしたちはのぼせそうになるくらい長い時間、深いくちづけを繰り返していた。




「――名前が嫌いだったの」


 薄暗い部屋。普段の香りに、石鹸のいいにおいを纏わせて。

 わたしと同じ布団で寝転んでいるパジャマ姿の蜂蜜が、どこか懐かしむように言った。


「名前、ですか?」

「うん。だって『蜂蜜』って名前、みつばちさまのご飯って意味だもん」


 気持ち悪い意味だよね、と蜂蜜は少し怒っているような、それでいてどこか諦めているような語調で告げる。


「……だから、嫌いだった。……でも、いのりちゃんが、蜂蜜、って呼んでくれるから。だから、ちょっとだけ、好きになれた」


 わたしの右手を両手で包み込むように握りながら、蜂蜜は穏やかに微笑う。

 微笑みに見惚れながら、口を開いた。


「……わたしも、です」

「え?」

「わたしも、自分の名前が好きではありませんでした。でも、あなたが、いのりちゃんって呼んでくれるので。その響きは、……愛しいです」


 ――祈り。それはわたしのお母さんを、ばらばらに壊したもの。いつからか、「いのり」という自分の名前を書くたびに苦しくなった。わたしが生まれなければ、もしかしたらお母さんとお父さんは、今も仲良しでいられたかもしれない。二人の断絶の原因には、間違いなくわたしという存在も含まれているはずなのだ。


 さらり、と蜂蜜に髪を撫でられる。見れば、蜂蜜の瞳に浮かぶ感情はとても優しかった。


「いのりちゃん」

「……何ですか?」

「響きが愛しいって言うから、呼んでみただけ」

「そういうことですか。……蜂蜜」

「いのりちゃん」

「蜂蜜」

「いのりちゃん」

「蜂蜜」

「いのりちゃん。……ごめんね」


 どうして謝られたかわからなくて、ほんのりと目を見開いた。蜂蜜は辛そうに、口角を歪めていた。


「小さい頃、親の監視下で公園で遊んでたとき、つまづいて転んじゃったの。そしたら他の子に黄金色の血を見られて、汚いって言われたことがあるの。おかしいって。気持ち悪いって。……てんとう虫! って、言われたの。それが、結構ショックで……だから、いのりちゃんがわたしの血をきれいって言ってくれて、……嬉しかった」


 でも昔言われた言葉が消えてくれなくて、と蜂蜜は自嘲するように言う。


「……ごめんね。リスカ、頑張って減らしてる。ゼロにできてなくて、ごめんなさい。いのりちゃんに嫌がらせしたい訳じゃないの……」


 わたしは深く頷いて、蜂蜜の手に自身の手を重ね合わせる。


「気にしないで大丈夫です。わたしの方こそ、あなたの事情を知らずに何度も否定してしまって、本当にすみません」

「ううん、謝らないで、謝らないでいいから、私のこと、ずっと好きでいて……」


 啜り泣き始める蜂蜜の身体を、抱きしめる。ずっと好きですよ、と言うと、蜂蜜は泣きながら、うん、と答えた。わたしは蜂蜜が穏やかな眠りに落ちるまで、背中をさすっていた。




 すやすやと寝息を立てる蜂蜜の隣で、わたしは画面の明るさを落としたスマホを操作する。「ネックレス プレゼント 意味」で検索すると、蜂蜜の言っていた通り〝独占〟〝束縛〟といった単語がヒットした。少し恥ずかしくなって、感情を誤魔化すようにふうと溜め息をつく。ふと気になって、今度は「ヘアアクセサリー プレゼント 意味」と検索窓に打ち込んで、調べた。


 ――一緒にいたい


 そんな文言が現れて、思わず目を見張る。蜂蜜の寝顔を見ると、どうしてかじわりと視界が滲んだ。わたしも、という言葉が口から零れ落ちる。


 わたしも、あなたと一緒にいたい。

 三月三十一日の、その先も。ずっと、あなたと、一緒に――


 わたしは声を殺して泣きながら、蜂蜜のことを抱きしめて眠った。

 そうして夢の中で、いつものように焼き殺された。

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