4. あなたの側にいる事で
翌日、肇は大きなフルーツバスケットを持って見舞いに来た。午前中はリハビリでかなり体力を使った為、甘いブドウが全身に染み渡るようだった。ブドウがこんなにも美味しいとは…。
「ありがとう。ブドウってこんなに美味しいんだな」
「良かった。まだまだあるから、たくさん食えよ」
「けど、この量は俺ひとりじゃ食い切れない。肇も食べろよ?」
「おう。ブドウ、貰ってるよ」
「俺は前からブドウが好きだったんだろうか、体の隅々までブドウの甘さが染み渡る」
ブドウを頬張りながら言うと、肇は声を出して笑ってくれる。嬉しそうに、「かもな」と言って、ブドウの次はリンゴだろう、何かをしゃりしゃり音を立てながら食べている。
「お前がブドウ好きだって情報はなかったから、更新しておくよ」
「肇は何が好きなんだ?」
「果物で?」
「そうだな、まぁ、食べ物で? 昨日言ってた、オヤジ亭とか言う、ふざけた名前のラーメン屋の塩ラーメンが美味いって事は分かったけど、他はどう?」
「んー、そうだなぁ。果物は全般好きだな。野菜も好きだし、肉も、魚も」
「食いしん坊そうだな」
「間違いねぇなぁ。少し前にさ、俺ン家でお前と飲んだ事があるんだけど、夜中の2時少し前だったろうか。ポテトチップスを食べ出したら、お前に凄い目で見られたよ」
「ふふ、2時にポテトチップスは太るだろうなぁ」
想像して、何だか可愛いくて笑ってしまう。見えないし、雰囲気だけでふくよかなイメージはなかったが、もしかすると、まん丸な熊みたいな男だったりするんじゃないだろうか。それはかなり愛らしいよな。
「お前も酒のアテを作ってくれてさ、それがまたすげぇ美味いから、ついつい食が進んじまうんだよなぁ。あ、だから一応な、これでも太らない為に運動はしてる」
そうか、それならば、まん丸熊さんボディではないのか。
「そうなのか。俺も、割と筋肉質っぽいんだよなぁ。ジムとか一緒に行ってたろうか」
「ふふ、いや。お前は家にランニングマシンとベンチプレスがあるんだよ。ジムには一緒に行った事はないけど、お前は結構鍛えた方だと思うよ? ほら、舐められない為にも」
舐められる? 誰に? 何故? 頭に疑問符を飛ばし、首を傾けて肇に訊ねる。
「えっ…と、俺は誰かに嫌われてたり、いじめられてたり、したのか?」
それが原因で飛び降りたろうか、と不安になったからだ。
「あ、いやいやいや、すまん、違うんだ。何でもない。ほら、たぶん、筋肉ある方が格好良いから、な?」
でも肇は焦ったように否定をする。
「まぁ…、そう、だな」
ガタイが良い事を誤魔化す理由、いや、俺が舐められないように鍛えていた、という事を、俺に隠したい、という事か。何故かは分からないが、もしかしたら、それが俺の飛び降りた理由に繋がるのだろうか。まさかな。…しかし、俺は自分が何を思って死を選んだかは分からない。何がヒントかも分からない今、聞かないわけにはいかなかった。
「…なぁ、肇は俺が飛び降りた理由について、本当に何も知らないのだろうか」
瞬間、空気が変わった。肇の動揺を感じて、俺は、やはり肇は何かを知っていると確信する。少なくとも、肇は俺に何かを隠しているのだ。
「俺は何を言われても大丈夫だから。本当の事を教えて欲しい」
「……すまない」
思い切って聞いてみたが、肇の口からは謝罪の言葉だった。その言葉と同時に、肇は俺の手をぐっと握り締めた。
「本当に、分からないんだ」
「そ、か……。俺は、どうして死のうと思ったんだろうな。何か心当たりはないだろうか」
「さぁ、な。…ひとまず、今は美味い物を食って、早く回復しろ。な?」
「…そうだな」
肇が何かを隠している事は分かった。俺に何かを言いたくない事も。ただその嘘は、きっと俺を守ろうとする嘘なのだろうと、俺は咄嗟に感じていた。それは肇と話していて、十分に伝わるのだ。俺を陥れる為の嘘では決してなく、真実を言う事で俺が何か傷付いたり、危ない目に遭う事を避けるような、そんな嘘なのだと思った。それでも何が起きたのか俺は知りたい、それが本音だ。
でも、まぁ、今は仕方がないのだろう。今すぐじゃなくても良いかと、甘いブドウを飲み込みながら思った。
「そういえば昨日、帰り際に何かを言おうとしたよな? 何を言おうとしたんだ?」
だからそう話しを変えると、肇の纏う空気感が柔らかくなる。
「あぁ、」
肇はくすっと笑った。
「いや、お前が良ければ、なんだけど。退院後は一緒に住まないか、と言おうと思って」
一緒に、か。俺は記憶がないし、肇しか見舞いに来ない事を考えると、家族もいないのだろう。友達もいないようだし、肇が側にいてくれる事は俺にとって、かなり心強いし助かる、が…肇にとって何もメリットはないんじゃないのか。
「…俺は率直に嬉しい。そう言ってくれて。でも、肇の負担になる気しかしない。今のままだと目も見えないし、記憶もない。体もこんなだし、ようやくリハビリが始まったとは言え、まだ歩ける状態じゃない。いくら恋人だからって、肇に何もかも甘えるわけには…」
「甘えてほしいって言ったら、お前、うちに来るか?」
俺の手を握っていた大きな手は、そっと離れて、優しく俺の頬を撫でた。まるで小動物を愛でるような触れ方だ。その体温に触れると、心の奥底からじんわりと温まっていく。この人の側にいると、どうしてこうも落ち着くのか不思議でならない。俺はきっと、どうしようもなく、この人の事が好きだったんだろう。それは記憶を無くしても、こうして心と体が覚えてるんだから、間違いないだろう。
「そんな風に言われたら、肇に甘えたくなってしまう。でも俺は、肇の負担にはなりたくないんだが……」
「俺が、来て欲しいんだ。うちなら安全だし、それに、お前がいると俺も嬉しい。前々から一緒に住みたいと思ってたから、俺の為にも来てくれないだろうか」
うちなら安全、…その言葉が妙に引っかかった。
「…そう言ってくれるなら、肇の言葉に甘えさせてもらおうかな」
「あぁ、そうしてくれ!」
肇は自分の見えるところに俺を置きたいのかもしれない。それは俺の命が危険に晒されているから、という事なんじゃないだろうか。だとしたら、俺は誰かに狙われていたのかもしれない。もしそうなら、突き落とされた可能性は…? ひやりとする。俺は何者なんだ。
肇は安堵したようにすっと離れると、何やら楽しそうに部屋の事を考えては、口に出している。
「そうと決まったら、お前の為の部屋を作らなきゃなぁ。どのタイミングで退院になるか分からないけど、車椅子ならベッドは低い方が良いよな? 電動で起き上がる多機能なベッドが良いし、ドア周りも広くしたいし…」
「肇の家は広いんだな」
「あ、まぁ、…な」
「マンション?」
「都内にマンションもあるし、よくそこで俺達は飲んでたけど、お前の退院後は違う。郊外にある、戸建て。森の中にあって、庭も広いし、良い家だぞ」
都内にマンションもあって、郊外に別宅もある…。この人は随分と金があるらしい。肇こそ、何者なんだろう。
「へぇー。肇は一人暮らしなんだろ?」
「まぁ、…まぁ、そうだな」
「肇は何してる人なんだ?」
「あ、えー……っと、会社経営? いくつか会社持ってんだ…」
「凄いな。社長か」
「まぁ。……覚えてないだろうけど、お前は俺の右腕なんだよ。だから今の俺があるのは、お前のおかげでもある」
「へぇ。俺は肇の会社で雇われてたのか」
「そんな感じ、だな」
「………業務に支障はきたしてないだろうか」
「え?」
「いや、仕事。俺の仕事は大丈夫だろうか。誰かフォローできるやつはいるのか?」
不安になって訊ねると、肇は一瞬沈黙を置いた後で、ケタケタと笑い出した。
「いやぁ、さすがだな。お前は少し真面目すぎるよ。でも、そっかそっか。うん、大丈夫。心配するな」
「大丈夫なら、良いけど…」
何をそんなに笑われたのかは分からないが、肇が楽しそうに笑うし、大丈夫だと言ってくれているから大丈夫なのだろう。
「お前は自分の体の事だけを考えてろよ?」
「あぁ、ありがとう」
肇はうんと優しい男だ。甘く笑っては、側にいてくれる。肇が、笑えば俺も幸せな気持ちになるし、なんだかとても心地が良いのだ。
そうして時間が流れ、体は順調に回復していった。とはいえ、まだ車椅子生活ではあるし、視力と記憶は戻ってはいない。それでも退院の許可は出て、肇の家に住む事になった。肇の家はどうやらかなりの豪邸らしい。郊外の山奥にある、とは言っていたが、門から玄関まで少し車を走らせるくらいには、広い敷地に住んでいる。
玄関から全てバリアフリーになっているらしく、車椅子でそのまま室内へ倒される。車椅子を押されながら、各部屋を案内されるが、各部屋ごとがまぁまぁ遠い。この家もまたとんでもなく広い、という事だけはよく分かった。
「ここが、俺の部屋。隣がお前の部屋」
「本当に広いな」
「まぁ、何かあったら気軽に言ってくれ。俺がいない時は誰かしら部屋に付けておくから」
「ありがとう。…でも、ひとりでもある程度の事は出来るようにならないとな」
「んー、まぁ、そうだな。さて、ひとまず、今日は休もう。美味い牛フィレ肉をゲットしたからさ、それを食おう」
「豪勢だなぁ。俺は白飯と味噌汁だけあれば十分だぞ」
「お前がそんな事を言うなんてな。お前、結構グルメなんだぞ。色んな美味い店を知ってたし、いろんな料理も知ってる」
「へぇー、そうだったのか。金使いの荒い男だったろうか」
「いや、上手く金を使える男だよ。貯金もたんまりあると思うぜ?」
「ふふ、社長のお陰だな」
「俺のお陰じゃねぇよ。お前の手腕よ、手腕」
「そう、かな」
「おう、そうだ」
肇が笑うと幸せな気持ちになるから一緒にいて、俺がストレスになる事は皆無だが、肇のストレスになってはいないかと度々不安になるのだ。
しかし肇はそんな俺の不安なんて払拭するように、よく笑い、俺を勇気付けようと側にいてくれる。
そんな風に二人暮らしが始まったが、肇は片時も離れなかった。それは、やはり何かを警戒しているように思えて仕方がない。リハビリも、俺が病院へ行くのではなく、家に固定の理学療法士を呼ぶくらいだ。外出を極力避けているようだった。
理学療法士が来ると、数時間、みっちりリハビリをさせられる。彼は声でしか判断できていないが、若そうな好青年先生で、角井と言うらしい。だから俺は角井先生と呼んでいる。
角井先生がある程度の事を判断したり、診たりしてくれる為、家を出るのは検査の為に病院へ行く時くらいだった。しかも病院の時間帯も、何故か毎回夜に行くのだ。来院者が帰り、患者は俺だけ。いつも肇と共に診察室に入り、俺の担当医と看護師が1名だけで対応する。入院していた時はそれなりに人の声がしていたから、診察は通常通りしている病院だろうから、決して普段から閑散としている病院ではないのだ。
肇が何かを警戒をしている、やはりそう思えて仕方がない。通常の診察時間には来院せず、病院にはきっと無理を言ってるに違いないと思い、そう肇に伝えるが、「大丈夫だ。気にするな」と低い声で圧を掛けるように言われるだけ。それで話は終わる。肇の低い声は、かなり威圧感があった。背筋がピンとなるような、純粋に怖いと思うような声なのだ。
でも、それ以外はいつもの肇だから、俺も別に外に出たいとか、昼間に病院へ行きたいとかは言わなかった。きっと俺の為を思って、こうして家の中に入れて、目の届くところに置いているのだろうから。俺が我儘を言うべきではない事くらい十分理解している。
そうして幾分か歩けるようになった頃、肇が電話をしているのが聞こえた。昼過ぎ、ふたりで古いラジオコントを聞いていて、俺はうとうとと船を漕いでいた。電話のバイブ音が聞こえ、肇はすぐに部屋を出て行ったのだ。
「…どうも、ご無沙汰してます、福元さん」
俺は途端に夢の中から現実に引き摺り戻され、肇の声色と電話相手に対する態度が無性に気になった。居ても立っても居られなくなり、音を立てないよう静かに立ち上がる。手探りで廊下に繋がるドアへと足を進め、そっとドアに近付き、聞き耳を立てた。
福元、一体誰だろうか。
「……はい、…はい。……いえ、まだ記憶は戻ってませんので。…はい、…原因究明とは言いますが、本人の記憶がありませんから、会わせる事は出来ないと何度もお伝えしたはずです。…はい。……いえ、うちは関係ないと、前にも話した通りです。…そうですか、はい。…えぇ、…では、根田刑事に宜しくお伝え下さい。では」
刑事……? 様々な憶測がぐるぐると頭の中を支配する。今の福元ってのは、どこの誰なんだ。そいつもまた刑事だろうか。だとしたら、原因究明の為、という事はやはり俺の一件だろう。つまり、俺が飛び降りた事は、刑事が嗅ぎ回るような出来事だという事だ。きっと俺は、自殺じゃない。そう考えているとソファに戻るタイミングを失い、ガチャッとドアが開いた音ではっとした。肇は話を聞かれていたと気付いて、どういう顔をしているのだろう。一体、何を考えているのだろう。表情は見えないが、その動揺は手に取るように分かる。
「…誰からの、電話だったんだ」
静かに問うと、肇はぴたりと動きを止め、どうやらじっと俺を見つめているらしい。何を答えようか困っているのか、苛立っているのか。何も発さない肇の感情を読み取るのは一苦労だ。
「俺の事に関して、聞かれたんじゃないのか…?」
静かに溜息を吐いたのが微かに分かった。
「肇は俺が何故、飛び降りたか分からないって言っていたが、原因になる何かを知ってるんじゃないのか」
「…お前がどうして、あの日、あの建設途中のビルから飛び降りたのかは、本当に分からない。ただ、お前が死に取り憑かれていたわけではないし、自ら死を選ぶようなやつではない、から……」
「なら、俺は自殺しようとしたわけじゃないんだな?」
「…それが、分からない」
「分からない?」
「警察も調べたが、お前は自分の意思で飛び降りた事は間違いないらしい。自殺しようとした事は、きっと紛れもない事実なんだろうが、…俺にはお前が自ら死を選ぶ理由が分からない、……いや、分かりたくない」
「分かりたくないって何だよ。肇は何かを知ってる、そうだな? だとしたら、いい加減、俺に教えてくれないか…」
答えを目前に必死になって問うが、肇は数秒の沈黙を生んだ後、「いや、…違うな」と声色を変えた。何か吹っ切れたような声だ。
「考えすぎただけだ。俺も、お前が飛び降りた理由は本当に分からない。ただ警察はお前の骨折の仕方とか、当たりどころとか、現場検証での結果とか、そういうのから総合して、誰かに突き落とされたわけではない、自殺だって言うけど、俺はお前が自ら死を選ぶ人間だとは思えない。だから警察は間違ってるのかもしれない。お前は誰かに突き落とされたのかもしれないから」
「けど、警察は調べた上で、俺が自分の意思で飛び降りたって言ったんだろ?」
「警察だって間違えるだろ」
肇はそう断言すると、俺の手を引いてソファへと戻った。
「さ、昼寝の邪魔をしちまったな。どうする? このままここで寝ても良いし、ベッドに行くか? ラジオを聞くでも良いし、映画やテレビでも」
また、はぐらかされてしまう。白く靄がかかってしまった真実は、その靄を一層濃くしていく。訝しげな顔をしているであろう俺に、肇はそっと手を伸ばして、その眉間の皺を伸ばした。
「そう怖い顔をするな。せっかくの男前が台無しだろ」
「……なんだか分からない事が多くて…」
「今は何も考えるな。そのうちふと思い出すかもしれないだろ。ストレスは体に良くないし、一旦何も考えず、ただ今を見ていれば良いよ。…な? 俺がいるから」
甘い言葉を掛けては、有耶無耶にされてしまう。それでも少しずつ前進している。今はまだ俺にも問い詰めるだけの材料もないし、はぐらかされても仕方がない。俺はまだ何かを思い出したわけではないのだから。
だから俺は切り替えるしかないかと、深呼吸をした後で肇の肩に寄りかかった。肇は案外ウブな男で、俺がこうして触れると体が分かりやすく強張るのだ。記憶失くす前の俺達は付き合ってたんだろう。ならば、もっと色々やってただろうに。
「分かったよ、一旦問い詰めるのはやめる。このままラジオ聴きながら、うとうとと昼寝でもするよ。…だから肇は俺の枕って事で、良いよな?」
「…お、おう。構わねぇよ。しっかり休んで、早く回復しろよ」
「ん。ありがとう」
肇はそのまま枕になろうと徹しているらしい。本を読み始めたのだろうが、体をなるべく動かさないよう、呼吸すらゆっくりだった。にしても、本当にこの人は何もしてこない。俺は寝たふりを決め込むが、眉間に皺が寄ってしまう。これじゃぁ起きている事がバレてしまうと思い、何度も眉間の皺を解こうと努力するが、やっぱり眉間の皺は生まれてしまう。
だってこうして触れているのに、キスのひとつもないのだ。いや、俺からして良いものなのか。そもそも、どっちがどっちなんだ。俺は結構グイグイと、積極的に攻めていたタイプなのだろうか。だから肇は消極的なのか…? じゃぁ、もっと触っても良いのか? とは言え、今の俺は目が見えないんだぞ。肇がリードしてくれなきゃ何も出来ないだろ。キスして良いか、って聞くのも違うし、ましてやもうそろそろふたりで寝ないかってのも違う。百歩譲って、まぐわわないのは分かる。俺もようやく歩けるようになった程度だし、肋骨はまだ少し痛むし、二の腕だって触っても分かるほどの傷痕があり、少しチリチリと痛む。だから、最後まで出来ないと判断されるのは理解できる。
でも、色々あるだろ。色々。肇はそういう欲が皆無なのだろうか、それとも抑え込んでるのだろうか。俺達は恋人だろ。抑え込む必要なんてないだろ。…待て。恋人、なんだよな? 本当に。
はっとした。つい、目を見開いてしまった。もしかして違うのか? いや、でも、それはないか。肇が言い出した事なんだから。そう頭の中で何度も自問自答し、睡魔はどこかへふっとんだ。うーん、と考えた挙句、俺はひとつ行動に出ようと手を伸ばす。本を読んでいる肇の腕に触れ、そのまま伝うように指を這わせ、わざとらしく手に手を重ねてから本に触れる。肇の体温が少し上がった気がしたし、間違いなく呼吸は乱れた。反応は示すくせに、何もしない。
「…本を読んでるのか? 何を読んでんだ?」
あざとく本を辿った手を、また肇の手の甲に重ねてみせる。目が見えないから、というアクシデントを装ってはいるが、そこに何があるかくらい分かってる。肇は、俺の意図なんて全く気付いていないらしい。ごくりと生唾を飲み込む音が聞こえて、笑いそうになった。
「す、推理小説を読んでる。…前に、お前が勧めてくれたやつ」
「へぇ。面白いのか?」
「まだ半分も読んでないけど、面白いよ」
「ふーん。肇は読者が好きなのか?」
「まぁ、嫌いではなかったけど、こうして頻繁に読むようになったのはお前の影響かな。お前はたくさん本を読んでるから」
「へぇ」
肇は何やら栞をページに挟むと、何かを思い出したようにそっと俺の手を掴む。ようやくか、と胸を高鳴らせたが、肇というびっくりするくらいウブな男は、俺の手を取ると栞に触れさせた。
「これ、分かる?」
楽しそうな声色に、俺の頭の中は疑問符が飛びまくっている。つるつるした素材の長方形、上らへんに何か入っているのだろう、少し膨らみがある。だが指でなぞってもその形は分からなかった。
「………いや、分からない」
正直に答えると、肇は俺にそれ掴ませる。
「中に押し花が入ってて、綺麗なんだ。ゴデチアって綺麗なピンクの花。この栞、一枚やるよ。たくさんあるんだ」
「ゴデチア…。ピンクとか白とかの、可愛い花?」
肇にはそんな可愛くて可憐な趣味があったとは…。
「そ。ゴデチア。押し花にすると可愛いんだよ。実はこれな、毎年毎年、お前が花束として俺にくれた花なんだ」
トスッと何かが胸に突き刺さる。趣味ってわけじゃなかったのか。
「…そう、なのか。………って事はつまり、毎年毎年、肇はその花を押し花にして栞を作ってるのか?」
「ふふ、そう。…そのまま枯らすの勿体なくてさ、お前がくれたものだから、極力持っておきたくてな。お前に今やったのは最新だ。今年のゴデチア。また目が見えるようになったら使ってくれ。それまでは、お守り代わりにでも持っておけよ」
「あ、ありがとう」
きゅぅっと心臓が痛み出す。何でこの人はこんなにも可愛いのだろう。恋人じゃないかも、なんて疑って申し訳ない。俺が間違えてた。
きっと俺がグイグイと攻めていたんだろう。押して押して手に入れた、そうに違いない。そもそも社長と部下だろ。俺にとって肇は高嶺の花だ。記憶を失くす前の俺は、この人を口説くのにとんでもなく時間を費やしたろう。毎年毎年、花を送ってるくらいだし、この人の声も体温も全て心地良いし、俺は心底この人を大切に思って愛していたんだ。
となると、そうか。俺がリードしてたんだろうな。だとしたら、色々と我慢させてるよな。こうしてふたりで暮らしてるのに、一緒に寝る事さえなくて、まともに触れ合ってもないのだから。なら、少しくらいは平気だと、伝えてやらないとな。
「なぁ、肇」
「うん」
そっと顔に触れた。頬に触れ、鼻に触れ、唇に触れる。肇の騒がしい鼓動は、ここまで聞こえてくる。
「記憶を失くす前の俺は、スマートにキスのひとつやふたつしていたろう。でも、今は、そうじゃない。ひとつひとつと確かめて、ゆっくりと、肇とキスをしたい」
親指で唇に触れると、その動揺が唇から溢れて伝わってくる。微かに揺れ動く唇の振動を感じて、何かを言いたいのかと首を傾けた。
でも、肇は特に何を言うでもなく、じっと体を硬直させてる。それはつまり、良いって事なんだよな? 何か言ってほしいが、肇は何も言わない。ただ、唇の隙間から溢れた吐息がいやらしく熱を持っている、という事だけ。そっと顔を近付けて、断るなら今だ、と少し時間を与えるが、全く微動だにしない。だからその柔らかな唇を奪った。
これで何かを思い出せれば良いのに。そう願ったが、何ひとつ記憶は蘇らない。でも、ただただ心地が良かった。喰むように唇を甘噛みして、深く口付けを交わす。肇の甘すぎる吐息がふっと漏れるのと同時に、腰が少し引けるようだったから、片手を腰に回すと、肇は焦ったように唇を離した。
「ま、待って、待ってくれ」
「何。嫌だった?」
「嫌じゃない、むしろすげぇ良かったし、…死ぬほど嬉しいし、なんか夢見てるみたいなんだけど、そうじゃなくて…」
「大袈裟だな」
「セッ……、いや、その、まだ体を休めていた方が良いだろ。だから、ここまでにしておこう」
元からそのつもりだったが、肇に言われると、少しムッとしてしまうのは何故かな。したくない、って言われているように聞こえるからだろうか。今の肇の表情を見たいもんだなと、もどかしさを感じながら体を離した。
「肇は俺の事を、壊れ物かのように扱うな? 肇は我慢とかしてないのか」
「………が、まん、…ねぇ」
「何だよ。歯切れ悪いな」
「我慢はもう、し過ぎて分からねぇよ…」
はぁ、と項垂れているのだろう。だからそれは良い事を聞けたと、ふふっと笑みが溢れてしまうし、とても安心した。
「そうか。…なら、肇にもきちんと性欲があって、それは俺に対してもちゃんとあるようだな。分かって安心した」
言いながら手を伸ばして、肇の手に手を重ねると、肇はごくりと生唾を飲み込んだ後で、静かに俺の髪を横へと流す。
「お前なぁ…。うん、あるよ。すごく我慢してるのは確かだ。だから、キスひとつ、触れ合いひとつで、何もかも欲しくなりそうで怖いんだよ。…今はまず、お前の体が第一。早く回復してくれ。俺がちゃんとサポートするから」
「リハビリ頑張らなきゃならないな」
「そうだぞ、明日も朝から頑張ってくれな?」
言葉が終わると、軽く目尻にキスを落とされる。心臓がトンと跳ね、体中が温かくなった。記憶があってもなくても、俺はこの人を心から愛しているし、ずっと側にいたい。そう途方もなく願っていたが、願いというものは叶わないのだろう。
俺がこの人の前から消えたのは、それから間も無くだった。
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