5. あなたの隠し事と指輪




「ご無沙汰しております、松葉会長」



「ご無沙汰でしたね、会長」



「早速で、申し訳ないのですが…」



「真城若頭……、いや、もう足抜けさせたんでしたね。真城さんの事、ですね?」



「はい。こっちでも探りは入れているのですが、進展がなく」



「切田から伺ってます。俺の方でも少し調べてみましたが、宇木組ってのはなかなか厄介な組ですね」



「何が、分かったんですか」



「どうやらあの組は一枚岩ではないようです」



「え…?」



「宇木組長を慕って強い絆で結ばれているような組だったはずなんですがね、蓋を開けて見てみれば、中身は全く違いました。…丁度、先程連絡があったんです。野江の若頭を張ってましてね、で、どうやら動きがあったようなんです。密会です。相手は三納若頭。七尾組のナンバーツーに、今この時期に会っている。少しきな臭くありませんか」



「野江と、三納…ですか」



「真城さんは、七尾組のお嬢と結婚していたんですよね? 厳密に言うと、今も。お嬢は男と消えて、真城さんはビルから転落。ここがどう繋がるかは定かではありませんが、野江の若頭は何かを知っているのかと。探らない手はないかと思いますよ」



「…そうですね。ありがとうございます、松葉会長」



「いいえ。…で、見返りを期待しても?」



「えぇ。酒木坂周辺の土地開発は森鳳会に任せます」



「それは嬉しい。では、また何かあれば、ご連絡を」



「ありがとうございます。では、また」



「はい。どうぞ、お気を付けて」



電話を切り、溜息を吐く。野江と三納の密会は、ますますマサの転落に関わっている疑惑を濃くしていく。宇木組がマサの転落に関わっているのか、野江が単純に関わっているだけか。でも、宇木さんは何も知らないようだったし、一枚岩ではないと松葉会長も言う。となると、野江は宇木組をどこまでコントロールしているのかも気になるところだ。


椅子から立ち上がり、俺は頭を掻きながら部屋を出た。苛立ちや不安に駆られ、心身共に疲弊し切りそうになるが、隣のマサの部屋を静かに開けて、すっかり眠っているマサを見ていれば、なんとか心は落ち着きを取り戻す。マサの為にも、早く解決しなきゃならない。二度と、誰かがマサに触れないように、俺からマサを奪わせないように。


時刻は23時。極道をやっていた頃は、この時間に寝る事なんてまずなかったろうマサは、入院してから規則正しい生活になり、22時を過ぎた頃から欠伸をし出し、23時にはもう眠っている。マサの少し伸びた長い髪にそっと触れた。オールバックでかっちり固めていたこいつに見慣れていたが、髪を下ろせば途端に年下に見えて愛らしさが出る。


釣り眉に垂れ目、長い睫毛に、冷淡そうな薄い唇。笑えば何とも愛くるしいのに、組にいた時はにこりとも口角を上げなかった。眉間にはいつも皺を寄せ、口角を下げ、組員達からは影でアイスクイーンと呼ばれていた事もあったが、マサはそれを知らない。眉間の皺と口調と完璧主義な性格から、組員からすれば近寄り難く、アイスクイーンと陰で呼ばれていた。本人が知れば殴ってくるかもしれないが、そのネーミングはマサにピッタリだと思った。そんな男も組を持つようになり、俺の隣に座るようになった。共に組を支えて、組の未来を席巻し、これからって時だった。


なのに、こいつはこんな目に遭った…。俺のせいなのだろう。俺が、こいつを、こんな体にしてしまったのだ。


マサに結婚なんか、勧めるんじゃなかった。



「……んん、」



眉を寄せて、薄く瞳を開けたマサに、起こしてしまったかと、すぐに手を引っ込める。



「わ、悪い。様子を見に来たんだが、起こしちまったか」



「ん、肇…か。あー…なんか妙な夢を見てた」



「夢?」



尋ねると、マサは眠そうに目を擦りながら呟くように言葉を続ける。



「靄がかかった夢なんだが、橋の上に俺はいて、ずっと下を覗き込んでた。夢の中だって理解しててさ、落ちたら鳥みたいに飛べるなぁ、どう飛ぼうかな、とか考えてんだよ。そしたら肇の声がして、早まるな! って。ふふ、勘違いして叫んでんだ。俺は必死に、死にません、大丈夫ですから、ってなんか敬語で説明してね。それで、ひらひら飛んで見せたら、肇が、なんだ飛べるのかよ、ビックリさせるなよ、って安堵して笑って、俺も釣られて笑って、…っていう変な夢。何だったんだろ、今の夢」



大橋の上にいるこいつに、早まるな、と俺が叫ぶ。なんとも既視感のある夢だなと思った。同時に、あの時のこいつも、勘違いだと俺に対して思っていたりしたのだろうか。それが本心だったろうか。何にせよ、こいつはやはり自ら死を選ぶ男じゃない。俺はそう強く確信している。それでも警察はこいつの自殺だと結論付ける。信じ難いが、もし仮にそうだとしたら、…俺はぽつりとある可能性を考えていた。誰かがこいつを突き落としたのではないとしたら、やはりマサは自ら飛び降りたのだ。でも、自分の意思じゃない。


昔から危惧していた事がある。マサはあまりにも俺に対して恩義を感じ、忠誠を誓っている。それは俺が怖くなるほど、あまりにも自身の命を軽く見ている節がある。そして腕っ節の良いマサが、抵抗もせず飛び降りなければならなかったのなら、答えはひとつか…。


脅されて飛び降りた。


しかもその脅しの種は、俺、だろう。そうならば、説明がつくし、納得もできた。あの日、俺があの場所に行くと分かっていた人間なら、そして、俺がマサだけは連れて行くだろうと踏めた人間なら、あの建設途中のビルにマサを連れ出して、飛び降りるよう脅したんだ。


そしてそれが出来たのは、ひとりしかいない。松葉会長から貰った情報が決定打だ。宇木組若頭、野江 新太。あいつなら、宇木さんを動かす事も出来たはずだ。野江が、七尾組と繋がってる。点と点が結びつくと、途端に恐ろしくなった。


誰かが、マサの命を狙ってる、そう思っていた俺は、組織の連中には、こいつがこうして生きている事も知られないように、何処にいるかも知らせなかった。だから俺は郊外の別宅で、こいつを軟禁するように閉じ込めた。こいつをここに置いている事を知るのは、信用できる僅かな人間しかいないが、それでもどこかで銃声が鳴り響くこの時期に、悠長にどうしようか、なんて考えている暇はないのだが、相手が野江で尚且つ七尾組も関わっているとなると、慎重に動かなければならない…。



「…肇? どうした?」



「あぁ、いや、悪い。ヘンテコな夢だなぁ、と思ってさ。…そんな夢、早く忘れてもう一度寝ろよ? 明日も朝からリハビリなんだから」



俺はマサの髪に再度手を伸ばして優しく触れた。マサはその手に擦り寄り、気持ちよさそうに目を細め、ゆるりと口角を上げる。まるで猫のようだ。



「肇はまだ寝ないのか?」



「俺も、もうそろそろ寝るよ。でもまだ少し仕事が残ってんだ。それが終えたら寝るかな」



「そっか。…なぁ、ひとつ、聞いて良いか」



「あぁ、もちろん」



「俺達は、一緒には寝てなかったのだろうか」



「ん? んー……」



髪を撫でていた手がぴたりと止まる。そりゃそうだ。車椅子だから、という理由で電動ベッドを与えていたが、今は寝起きも自力で出来るし、車椅子が無くとも歩けるほどに回復している。別室でそれぞれ眠り、ベッドを与えてる状況は、恋人としてはおかしな状況か。


うーん、どうだろう。でも一緒に寝る、という事は間違いなく、マサを欲してしまう。ただでさえ、今は付き合ってる、という事になっているのだから、何が起こっても不思議ではない。だからこそ困るのだ。さすがに、付き合ってる、と騙している相手と最後までするのは気が引けるし、マサに申し訳ない気持ちになってしまう。


一方で、ふと思い出す。あの日、飛び降りたマサを見つけたとき、こいつの左手の薬指には、俺が渡した指輪が嵌められていたという事を。サイズの違う指輪を、わざわざその位置に着けるなんて、あまりにも意味深だろう。もうほぼ言ってるようなもんじゃないか。嬉しかったのと同時に、あまりにも苦しかった。思いも告げず、左手を握り締めて飛び降りた、この男の気持ち。もしその気持ちを利用され、脅しに使われ、自ら飛び降りたのだとしたら、あまりにも残酷だ。


こうして生きている事に、どうしようもないくらい感謝し、同時に、マサも同じ気持ちだったのなら、そう途方もない後悔を埋め合わせるように、マサに対して恋人だ、なんて言ってしまった。が、記憶を失くす前のマサの本心は聞けていない。聞けていないのに、さすがに最後までってのは罪深い気がしてならない。結局は、騙している事に変わりない気がするのだ。


なんて、あまりにも長考していると、マサは困ったように首を傾げて、眉間に皺を寄せていた。



「え、っと…寝てたぞ、ふたりで。もちろん、お前が泊まった時は、俺の部屋のベッドで。だから、お前が良いなら、一緒に寝るけど…」



けれどそんな風にマサに見られていると、俺はつい、一緒に寝ていたと嘘を吐いてしまう。嘘に嘘を重ねるしかない状況だった。



「けど?」



けど、キスだけで心拍数がとんでもない事になったのに、一緒のベッドで寝れるのだろうか。心臓がもたない気がする。



「…いや、この前も言ったけど、やっぱ、ほら、さ…」



あの時だって、もっと深くに触れたいと思ってしまった。



「セックスしたくなる、か?」



「そんな、ストレートに…」



「ふふ、肇ってウブすぎるだろう。俺達は恋人同士、散々ヤってきたんじゃないのか?」



そうだよなぁ。そう思うのが、普通だよな。



「…そ、そうだけどなぁ。…ほら、今はお前の体が第一だから、盛ってお前の体に負担かけたくない、からさ」



「分かってる。それは、この前も聞いた。でも、俺はもっと肇の隣にいたいと思うんだ。肇は体温が高くて温かいから、よく眠れそうだし、安心するってのもあるのかもしれないけど」



そう言われてしまうと、もうどうしたって、本当は恋人同士じゃない、とは言い出せないし、言いたくはない。



「なら、今から俺の部屋で寝るか? 俺も、ひと仕事終えたらすぐ寝るから」



「肇が良いなら」



「もちろん」



俺は罪悪感を引き摺ったまま、マサの手を引き、自分の部屋の中を案内した。ベッド、スタンドライト、デスク、椅子、本棚、窓、カーテン、全てを手に触れさせると、マサは「ありがとう」と頷いた。そのままベッドに心地良さそうに寝そべった。使っていなかった枕をひとつ、寝具入れの棚から引っ張り出し、カバーを掛けて渡すと、早速頬を埋めて微笑んだ。



「先に寝てる。あまり無理せず、ちゃんと休めよ」



そう柔らかく微笑まれ、罪悪感なんてどこかに吹っ飛んだ。マサの隣で寝起きしたい。たくさん触れて、たくさん語り合って、今よりももっと関係を深めたい。我慢が効かないほど愛おしくなって、俺はギシッとベッドのスプリングを軋ませ、そっと唇に触れる程度のキスを落とした。マサはまた猫のように気持ち良さそうに目を細める。



「おやすみのキスって、良いもんだな」



そう呟くマサが何よりも、誰よりも、愛おしくて失いたくないと強く思う。こんな愛らしい人間、絶対に守らなければならない。何があっても、この身に変えてでも。



「本当は最初から、もっとちゃんと触れ合いたいと思ってた…」



ぽろりと溢れた本音に、マサはただ「そうか」とだけ言って、眠そうに欠伸をする。微睡んだ瞳のまま、見えていないはずなのに、じっと俺を見つめて、「おやすみ」と微笑んでから瞳を閉じた。



「おやすみ」



そう髪を撫で、俺は部屋を出た。携帯を見つめ、あの日、俺を呼び出した宇木さんに直接話しを聞く為に電話を鳴らす。宇木組若頭、野江が何かを知っている事は間違いないのだから。 



………

……


日々は淡々と過ぎてゆく。自分が何者で、どうして飛び降りたのか、未だに分からないままだった。


体は順調に回復し、リハビリの効果で車椅子は完全に不要になり、ひとりでも歩けるようになっていたが、それでもまだまだリハビリは必要らしい。角井先生とのリハビリの時間、肇は家を出ている。肇と入れ代わるように、ひとりの男が俺を監視している。優秀な用心棒を付けておくからな、と肇は冗談半分のような事を言っていたが、その男はきっと本当に用心棒として働いているのだろうと思うほど、言い知らぬ圧がある。それは目が見えていなくとも感じる、オーラと言うべきか、無言の圧力と言うべきか。実際には、どこかの警備員を雇っただけなのかもしれないが、それでも近寄り難い男だなと思う。肇に対しては敬語で話すが、その敬語も少し"普通じゃない"と感じるし、肇もその男に対しての口調が、ただ雇った警備員に対する口調ではない。


午前、リハビリを終え、俺はもうクタクタだった。角井先生は、「お疲れ様です! 今日もたくさん頑張りましたね! 明日もその調子でリハビリを続けましょう!」と優しく励ましてくれる。その角井先生と翌日のリハビリ内容を話していると、頃合いを見計らって肇は帰宅する。俺を見て、話し中である事を確認すると、肇は入口に立つ警備員に低い声で話しかけるのだ。



「何もないな?」



「はい」



俺には聞こえてないと思っているのだろう。でも、視力に頼る事のできない今、俺の聴覚はかなり敏感になったような気がする。肇は俺に聞こえてはいないと判断して、いつも低い声で、何もなかったかと、警備員に確認をするのだ。確認する事は何ら不思議ではないが、やはり俺が引っ掛かるのは、その口調と声色だった。



「明日は9時から頼む」



「はい」



「それと、代行には後で電話すると言っておいてくれ」



「分かりました」



「以上だ」



「失礼します」



警護員の堅い雰囲気は百歩譲って分かるが、肇があんな風に低い声で、淡々と命じる事に対して違和感を覚える。そして、代行、という言葉にも。社長代行として誰かを会社に置いているのか、それとも代行と呼ばれる重要な役職の人がいるのか。分からない。


だが、淡々とした肇の空気は、俺と接する時とはだいぶ違う。



「…って感じでいきましょう! だいぶ歩けるようになったので、明日はお庭に出て少し外に慣れていきましょうか。土とか草とか石ころとか、結構注意する事が多いんですよ」



「分かりました。明日も引き続き、宜しくお願いします」



「はい! 宜しくお願いします!」



角井先生との話しを終えると、肇は角井先生に愛想良く、「順調ですか?」と聞いている。あの警備員の時とまるで声色も雰囲気も違う。



「順調ですよ! かなり回復してきてます」



「そうですか、安心しました」



「不安になりますよね、分かります…。でも今のまま続けていけば、骨折前と同じように歩けるようにもなりますし、走れるようにもなります! なので頑張っていきましょう!」



きっと俺に向けられて言っているのだろうと思い、俺は笑顔で頷いた。角井先生が家を出ると、肇は「昼食は何食べたい?」と柔らかく訊ねてくる。やはり、俺や角井先生には口調も態度も柔らかい。あの警備員にだけ口調が強い、という事だ。しかもきっと今回が初めましてでは絶対にない。どこから雇って来たのかは分からないが、もし今回が初対面ではないのなら、あの警備員は肇の事に関して、何かを知ってるのではないか…。



「何にしようか。さっぱりとしたものが良いな」



「さっぱり、さっぱりねぇ。冷製パスタなんてどうだ?」



「冷製…? そんなの作れるのか」



「ふふ、お前がな」



「お、俺が…?」



「そ。お前が前に作ってくれた。レシピも教えてくれた。だから、それ、作ってやろうか」



「へぇ。俺が料理か。…何か思い出すかもしれないし、頼んだ」



「そ、そう、だな。分かった。…お前はテーブルの上を拭いといてくれるか」



「分かった」



料理を作るのも好きだったらしい俺は、肇に振る舞う為に料理スキルを習得したのだろう。何も覚えてはいないのに、何故かそう思えて仕方がなかった。しばらくして、肇は冷製パスタを俺の前に置き、一緒に手を合わせて食べ始める。ニンニクとトマトの良い香りが食欲をそそる。トマトの甘酸っぱさと、レモンが少しかかっているのだろう、爽やかで美味い。でも味覚と嗅覚を集中させて味わうが、どうしたって思い出せなかった。まるでそんな過去はなかった、と否定されている気分で嫌になる。


食べ終えると、一杯のコーヒーを差し出され、俺は湯気を楽しみながら一口飲み込んだ。



「…肇、すまない。パスタは美味かったけど、何も思い出せそうにない」



落胆の色を見せて肩を落とすと、肇はトンとその肩に手を置いた。



「焦らなくて良いよ」



「ありがとう」



何かを思い出したいのに、何も思い出せない。歯痒さに落胆するが、肇はゆっくり行こうと励まし続けた。


飯を食い終わると、ふたりでまったりと酒を飲みながら音楽を聴いたり、ラジオを聴いたり、耳で楽しめる娯楽を鑑賞する。肇は映画が好きで、たまにある映画のサントラのレコードを掛ける。壮大な西部劇の音楽だ。俺もその映画は大好きで、映画のワンフレーズだって言えた。そんなどうでも良い事は覚えてるのにな…。肇との繋がりが全く思い出せないのは、本当に苦痛だ。



「この映画、続編が今年に出るんだってよ。知ってたか?」



肇はそのサントラを聴きながら、何やら携帯で情報を見ているらしい。



「へぇ。そりゃぁ楽しみだな。観に行くのか?」



「……どうかなぁ。仕事次第だろうか」



「俺達はよく映画館には行ってた?」



「んー……いや、行ってねぇな。なかなか合わなくてね」



「映画好きなのに勿体ないな。俺の目が治ったら行こうか。この映画こそは、一緒に」



肇の手が止まった。空気が一瞬だけ止まった。でもすぐに、「そうだな」と優しく言葉を吐いたのが分かった。映画館に行きたくない理由があるか、それとも俺の目が治ったら、って事に何かを感じたのか。俺は、何か変な事を言ったろうか。妙な違和感というのは、生活していると至る所に現れる。でもそれが何かと追求する事は結局はできなかった。


翌日、角井先生と共に庭でリハビリを開始する。走る事はまだ怖かった。視力が回復していない今、足の骨が云々よりも、走る事自体が怖く感じた。そうして午前のリハビリも終わり、また警備員と肇は何かを話し、角井先生は帰って行った。だが、警備員である男はそのまま居座るようだった。



「警備の彼は、ずっといるのか」



部屋に入って訊ねると、肇は「あぁ」とだけ頷く。何か妙な感じがした。俺の知らない所で、何かが動いている、そんな気配だ。目が見えない分、第六感とやらも敏感に働くのだろうか。


警備の男は屋内には入って来ず、そのまま玄関で警備をしていた。この警備は俺の為の警備なのか、だとしたらやはり俺は誰かに狙われている、という事の決定打な気がしてならない。


レコードに針を落とし、ブルースを流しながら、肇は気に入っているらしいスコッチ飲み、ソファでゆっくりと寛いでいる。その横で、同じスコッチを一口だけ飲み、テーブルに戻す。忙しそうな毎日を送っている肇にとって、この時間は唯一と言って良いほどのリラックスした時間なのだろう。


でも、やはり問い詰めなければならない事がある。



「…肇、」



「お、おう」



「俺に関して何か分かったのか」



「…どうして?」



「警備を固めてるだろ。あの警備の人、ただの警備員じゃない。だろ? 俺は誰かに狙われてるんじゃないのか」



そこまで言うと肇は黙ってしまう。静かな空間に、ブルースだけが流れ、数十秒の沈黙を置き、カタン、とグラスがガラステーブルに置かれる。



「分かった。…ここまで来たら、そうだな、言っておくべきかもしれない」



そう前置きをすると、肇は言いにくそうに、言葉を選んでは飲み込んでいるようだった。その緊張は顔を見なくても伝わってくる。呼吸が変わったとか、唾を飲み込む音とか、足を組み直す微かな行動とか。じっと言葉を待った。肇は短く息を吐くと、俺の方を向いて口を開いた。



「お前は、誰かに脅されて、自ら飛び降りた可能性が高い」



なるほど。単純に、納得した。自分がどういう人間だったか、何をしてきたかは分からない、が、自ら死を自主的に選んだとは思えなかった。だから脅されて飛び降りた、と聞けば納得がいく。


しかしそうなると、新たな疑問が浮かぶ。


何が脅しとなったのか、それが分からない。ただの会社勤めが、死を選ぶような何か。何か俺は罪でも犯して、公表されたくなければ、とでも脅されたろうか。いや、どうだろうか。死んだら元も子もないのだ。罪をバラされるのが嫌で死ぬってのは考えにくいか。公表されて、辱めを受けるくらいなら、と思って飛び降りたってのも考えられるが、どうだろう。


脅されて、飛び降りる、その理由。何が脅しの種だったのか…。



「…その誰かが俺の命を今でも狙ってると?」



「あぁ」



「そいつらに俺の居場所が知られた、とか?」



「…正直、違うと信じたい。だが分からない。だから警備は厳重にしておく必要がある。…お前が意識を無くしていたあの一ヶ月の間に、容態がある程度安定してから病院を一度移してんだ。お前が目を覚ました時のあの病院はうちのお抱え、つまり、お前の容態がどうなったのか、ってのは他には知られてない。うちでもかなり極秘にしてるから、外には漏れてないと信じたいんだがな」



「お抱え…?」



「……お抱え」



「だから病院に融通が利くのか」



「まぁ。…そうだな」



「病院の経営者でもあったのか。…まぁ、分かった。だから俺に警護を付けてるんだな」



「そ、そう。だから、あいつと他に数人、交代で警備に入る」



「手厚いな。…俺は企業秘密でも知ってしまったんだろうか?」



「………そうだったら良いんだけどな」



「何か、知ってるのか?」



「いや、なんでもない。お前が脅されて、飛び降りたって事は確かだと思うんだが、…他に関しては何も分かってない」



「そうなのか。…分かった」



少しの沈黙を置いた後、肇は徐に何かをポケットから取り出した。



「で、さ、…お前は何も覚えちゃいないと思うんだけど、これ、渡しておきたくて」



「ん?」



そう言って右手を取られる。掌に、そっと何かが置かれた。その形を指先で捉える。硬くて、冷たい、重厚な指輪だ。



「指輪、か?」



「そ。右手の中指に丁度良いンだ。お前が落ちた時、これを嵌めててさ、少し傷が出来てたから修復してたんだ」



右手を取られて、中指に指輪を通される。されるがまま、中指に指輪を嵌めると、肇は何かを思い詰めたように、でもそれを隠すように、そっと左手に触れながら呟いた。



「左手だと、少し大きいんだよ。だから、これは右手の中指に丁度いい」



確かに、利き手ではない方の手では、指の太さは違う。この指輪は右手の中指にぴったりと嵌るが、なぜ、わざわざ左手だと少し大きいなんて言い出したのだろう。



「あーまぁ、確かに。ぴったりだ。…でも、大きいなら左手の中指には嵌めないだろう?」



首を傾けて訊ねると、肇は「んー?」と考えながら、指輪を嵌めた手を取って、その指輪をじっと眺めているらしい。



「お前は左手に着けてたからね。……よく似合ってる。指の長いお前には、この指輪がよく映える」



何故、俺は左手の中指に着けていたのだろうか。疑問は次から次へと、増え続け、未消化のまま積み重なっていく。



「そう、なのか…。指輪かぁ。何も思い出せないもんなんだな」



「無理に思い出さなくて良いだろ。…それにこの指輪は、奇跡の生還の時に嵌めてた指輪なんだ。縁起が良いだろ? 大事にしろよ?」



「そうだな。確かに、大事にしないとな」



飛び降りた時に嵌めてた指輪だと、肇は知っていた。つまり、俺が飛び降りた時、その場にいたのか、それとも運ばれた病院で知ったのか。肇は一体、俺の何を知っていて、何を隠しているのだろうか。…そう考えながら、俺は右手に嵌めた指輪を、左手の指の背でひらりと撫でるだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る